| ポーランド・リトアニア共和国は当時のヨーロッパで最も大きく人口の多い国の一つだったが、ソビェスキが王位についた時には半世紀近くにわたる恒常的な戦争のせいで疲弊し切っており、経済的繁栄も終わっていた。 |
| 国庫はほぼ空だったが、財力を持つマグナート達の多くは共和国内に影響力を築くため外国宮廷と同盟しており、ポーランド宮廷(=中央政府)に財政援助を行うことなどまず無かった。 |
| ソビェスキは南部国境で常に続いているオスマン帝国との戦争を講和に持ち込み、経済的負担の主要因である戦争の連鎖を断ち切ることで、国庫を建てなおそうと考えるようになった。 |
| 1674年の秋、ソビェスキはトルコとの戦争を再開してカミェニェツ=ポドルスキ、バール、レシュクフの奪回に成功、ウクライナにおける南部国境の強固な防衛線を再構築した。 |
| ソビェスキはスウェーデン軍の攻撃にさらされていたプロイセン公国を、フランスの財政援助を受けて征服する計画を立てた。 |
| プロイセンはかつて共和国の封土だったが、「大洪水」に乗じて抜け目なく独立していた。 |
| ところがフランスとの密約が明るみに出てしまい、ソビェスキがトルコとの戦争に忙殺されている間に、プロイセンの君主である大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、フランスと和平を結びスウェーデン軍を追い払った。 |
| 共和国のマグナート達の多くも征服計画に反対し、大選帝侯の支持に回った。 |
| 結局、リトアニア軍の最高司令官(大ヘトマン)で大選帝侯の同盟者であるミハウ・カジミェシュ・パツが、麾下の軍隊を連れて戦線離脱し、軍隊を解散させたため、プロイセン征服は計画倒れに終わった。 |
| 1676年、クリミア・タタールがドニエプル川を渡って反撃を開始したが、戦略上の拠点ジュラフノを奪えなかったため、すぐにポーランドとの講和に応じることになった。 |
| 重要拠点カミェニェツ=ポドルスキはトルコ側に渡ることになったが、ポーランド側は新たな要塞都市オコピィを建設することでこの脅威に対抗し、またビャワ・ツェルキェフを回復した。 |
| 講和条約の締結によりようやく平和な時代が訪れ、共和国の再建が急がれるようになり、国王の権威も高まった。 |
| マグナートたち、そしてブランデンブルク=プロイセンやオーストリア(後者などはソビェスキを廃してロレーヌ公にポーランド王位を与えようとしていた)の執拗な嫌がらせにも負けず、ソビェスキは共和国軍の改革に成功した。 |
| 軍隊は連隊単位に再編成され、歩兵隊はパイク(長槍)に代えて戦斧を基本装備武器とし、騎兵隊はユサール(驃騎兵)と竜騎兵の形態を採用した。 |
| また国王は銃の在庫数を増やし、砲術を発達させた。 |
| 外交面では、ソビェスキはポーランド、フランス、オスマン帝国の3者の同盟を構想し、オーストリアとブランデンブルク=プロイセンに対抗しようと考えた。 |
| しかしこの構想は実現することなく1683年には廃棄された。 |
| 近隣諸国との敵対関係と同盟関係の不足は、共和国に再び「大洪水」のような悲劇の二の舞を演じさせかねないと考えたソビェスキは、この年、当初は仮想敵国だったオーストリアの神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同盟を結んだ。 |
| この同盟は直接的にはオスマン帝国を共通の敵としたが、間接的にはフランスをも仮想敵国としていた。 |
| この同盟はポーランドの南部国境を守るうえで強い支えとなった。 |
| この時期、オーストリア領のハンガリー北西部で、皇帝に対するプロテスタント反乱が発生しており、1683年に反乱者たちはオスマン帝国に支援を要請した。 |
| スルタン政府はこれに応じて、大宰相カラ・ムスタファ・パシャ率いる15万の大軍を派遣した。 |
| 皇帝レオポルト1世はポーランドに支援を要請した。 |
| ソビェスキはこれに応えてオーストリアやドイツの諸侯と同盟を結び、自ら連合軍を率いてオーストリアに向かった。 |
| 9月12日、ウィーンの郊外に達したソビェスキとポーランド軍は、オスマン帝国軍が大宰相カラ・ムスタファ自らが率いる大軍であっても、全軍の指揮が不統一で士気も弛緩し、防備が弱体であることを見抜き、その日の夕方に連合軍に総攻撃を命じた。 |
| 連合軍の中央突破によってオスマン軍は、わずか1時間ほどの間に包囲網を寸断されて散り散りになり、潰走した。 |
| この勝利により、ヤン・ソビェスキはイスラーム国家オスマン帝国の侵略に晒されるヨーロッパのキリスト教世界を守った英雄として、大きな名声を勝ち得た。 |
| 翌1684年、ウィーンでのキリスト教国側の勝利に触発された教皇インノケンティウス11世の呼びかけにより、オーストリア、ポーランドの同盟にヴェネツィアなどが加わった反トルコ神聖同盟が結成された。 |
| しかしこの同盟は、オスマン帝国から勝ち得ていた共和国の優位な立場を、ライヴァル関係にある近隣諸国と分有したことになり、共和国にとっては不利なものだった。 |
| 共和国は同盟の展開した大トルコ戦争で引き続いてオスマン帝国との戦いを続けた。 |
| 既にこの時点で17年ものあいだトルコ人と戦ってきた共和国は物質的にも疲弊し、戦争に忙しいあまり内政改革にも手が回らない状況だった。 |
| この間、プロイセン公国をふくむバルト海海域での共和国の地位を改善する努力は完全に忘れられた。 |
| しかしソビェスキが犯したより深刻な失策は、東隣のモスクワ・ロシアとの「同盟」だった。 |
| 1686年、ロシアはアンドルソヴォの和約での取り決めに従って、先のロシア・ポーランド戦争で占領中のキエフおよび左岸ウクライナの主権を共和国に返還することになっていた。 |
| しかしロシアはこの約束を履行するつもりがない旨を通告し、トルコ人と同盟してポーランド・リトアニアに敵対しようとした。 |
| この脅迫に屈したソビェスキは1686年5月6日、ロシアとの間に恒久平和条約を結び、ロシアが占領中の地域全てをロシア領と認めることになり、ロシアは東ヨーロッパの覇権国としての地位を不動のものとした。 |
| 共和国がロシアから見返りに得たのは、神聖同盟への参加だけだった。 |
| 大トルコ戦争の終結をみた1699年のカルロヴィッツ条約では、共和国は失っていたポドレを回復しただけだった一方、オーストリアが広大な領域を獲得して覇権国の一つと呼べるだけの勢力圏を築いた。 |
| プロイセンはその直後に王国に昇格し、バルト海南岸の支配者として振る舞い出した。 |
| こうして、ロシア、オーストリア、プロイセンという18世紀の中東欧における3列強国のパワー・バランスが成立し、17世紀の覇権国だった共和国とオスマン帝国は共倒れした。 |
| ソビェスキの選挙王としての権力の脆弱さは特にリトアニア大公国において顕著だった。 |
| 1670年代にはハプスブルク家と結託したパツ家などの大貴族がリトアニアを支配し、1680年代から17世紀末まではサピェハ家が大公国を思いのままに動かした。 |
| セイムでは自由拒否権の行使が繰り返されて何度も途中で閉会し、地元のマグナート達に牛耳られたセイミク(地方議会)は中央政府が担うはずの税金と官職任命権を各々の裁量で濫用し、ヘトマン達は私益のために共和国軍を動員していた。 |
| しかし、宮廷内の守旧派は共和国の「黄金の自由」に反する王位世襲に猛反対し、他ならぬ王妃マリシェンカがこの反対派閥の中心になった。 |
| マリシェンカは長男ヤクプに王位を継がせようとする夫の計画にことごとく反対した。 |
| ソビェスキはヤクプを富裕な女子相続人ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウと婚約させたが、ルドヴィカは1681年、勝手にヤクプを裏切って大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子と結婚した。 |
| ブランデンブルク=プロイセンは旧宗主国ポーランドの王家の威信を平然と踏みにじったのであり、この事件で両国の権力関係の変化を見せつけると同時に、ソビェスキ父子に大きな屈辱を味わわせた。 |
| ソビェスキは1691年に最初の心臓発作を起こして以後、繰り返す発作に苦しみながらヴィラヌフ宮殿で半隠棲状態の生活を送るようになった。 |
| 同宮殿は1681年から1686年にかけてワルシャワ南端に建築されたもので、彼はこのお気に入りの宮殿で一介のマグナート同然の晩年を送った。 |
| ソビェスキは1696年4月17日に何度目かの発作のために亡くなり、ヴァヴェル大聖堂に埋葬された。 |
| 結局ヤクプは国王自由選挙に敗れ、精力的なザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストが新王に選ばれた。 |