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コンスタンス2世
ライバル
東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位:641年-668年)。コンスタンティノス3世の子で、元の名はフラビオス・ヘラクレイオス。のち「コンスタンティノ... |
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草薙剣
内容紹介 草薙剣、奈良の大仏、日本刀、火縄銃――
人は金属器を造り 金属器は歴史を創った
人間と金属が織りなす壮大なロマン。西洋に例のない独特の音色を... |
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ローマ皇帝
紀元前27年に元老院よりアウグストゥス(Augustus)の尊称を授与されたアウグストゥス本人と、この尊称を帯びた彼の後継者をさす。ローマ皇帝というひとつの職... |
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ヘラクレイオス
東ローマ帝国中期の皇帝(在位:610年-641年)。ヘラクレイオス朝の開祖。「ヘラクレイオス」はギリシア神話の英雄ヘラクレスにちなんだ名で、中世ギリシア語... |
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粟田真人
飛鳥時代後期から奈良時代にかけての貴族。姓は臣のち朝臣。父は春日粟田百済。子に人(または必登)・人上がいる。官位は正三位・中納言。 |
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智儼
智儼(ちごん、602年-668年)は中国華厳宗の第二祖とされる僧。天水(甘粛省天水県)生まれ、12歳で華厳宗初祖とされる杜順に見出され、14歳で出家、サンスク... |
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コンスタンティノス4世
親
東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位:668年-685年)。コンスタンス2世の長男。「ポゴナトス(髭の)」というあだ名が付くことがあるが、これは父コ... |
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万廻
中国の唐代の神異・風狂の僧である。法雲公と号す。 |
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コンスタンティノス11世
東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1449年-1453年)。東ローマ帝国最後の皇帝、すなわちローマ帝国最後の皇帝である。中世ギリシア語読みではコンス... |
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乾封
唐の高宗李治の治世に使用された元号。666年旧正月-668年旧3月。 |
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アナスタシオス2世
東ローマ帝国の皇帝(在位:713年6月3日-715年)。元の名はアルテミオス()、またはフィラルテミオス。アルテミオスはフィリピコス・バルダネスの時代に書記... |
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ヨハネス5世パレオロゴス
ヨハネス5世パレオロゴス(JohannesVPalaiologos,ギリシャ語表記:,中世ギリシャ語ではヨアニス5世、1332年6月18日-1391年2月16日)は東ローマ帝国パレオロゴ... |
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ティベリオス3世
東ローマ帝国の皇帝(在位:698年-705年8月)。ローマ帝国第2代皇帝のティベリウスを代数に数えず、「ティベリオス2世」と呼ぶ場合もある。元の名はアプシマ... |
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コンスタンティノス5世
東ローマ帝国イサウリア王朝の第2代皇帝(在位:741年-775年)。同王朝初代皇帝レオーン3世の子。「コプロニュモス」は「糞」を意味するあだ名。ハザール出身... |
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行基
日本の奈良時代の僧。677年4月に生まれたという説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪... |
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清水良太郎
日本の俳優である。東京都出身。岩倉高等学校商業科卒業。同校野球部出身。血液型O型。プロダクション尾木所属。父親はものまねタレントの清水アキラ。 |
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フィリピコス・バルダネス
東ローマ帝国の皇帝(在位:711年-713年6月2日)。フィリピコスはペルガモン出身のアルメニア系の人物であり、元の名を「バルダネス」と言った。彼の父のニケ... |
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レオーン5世
東ローマ帝国の皇帝(在位:813年7月22日-820年12月25日)。あだ名の「アルメニオス」は「アルメニア人」という意味で、その名のとおり彼はアルメニア系であ... |
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アレクシオス1世コムネノス
東ローマ帝国コムネノス王朝の初代皇帝(在位:1081年-1118年)。マケドニア王朝断絶後に皇帝となったイサキオス1世コムネノスの甥に当たる。24歳の若さで将... |
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テオドラ
東ローマ帝国マケドニア王朝の女帝(在位:1055年-1056年)。コンスタンティノス8世の三女で、ゾエの妹に当たる。ミカエル5世の追放後、姉のゾエと共に女帝と... |
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プロフィール
- ユスティニアノス2世とは
- ウマイヤ朝との講和
- バルカン遠征、ローマ教皇との対立
- セバストポリスの敗北とレオンティオスのクーデター
- 復位後のユスティニアノス
- ユスティニアノス2世帝の最期
ユスティニアノス2世“リノトメトス”(ギリシア語:、668年?-711年11月7日)は、東ローマ帝国 ヘラクレイオス王朝最後の皇帝(在位:685年-695年、705年-711年)。 コンスタンティノス4世の長男。ユスティニアノスはユスティニアヌスのギリシア語形。「リノトメトス」は「鼻なしの」を意味するあだ名。彼にはキプロス島で生まれたという伝説がある。
ウマイヤ朝との講和
| 彼が即位した時、イスラーム帝国は第二次内戦の最中であった。 |
| ユスティニアノスはレバノン山地にいた原住民のマルダイテス人を利用してシリアでゲリラ活動を行わせた。 |
| さらに688年にはキレナイカ地方のバルカをビザンツ艦隊が急襲してイスラームの指揮官を殺戮している。 |
| これらに苦慮したウマイア朝のカリフ・アブドゥルマリクは688年にユスティニアノス2世と和睦を結んだ。 |
| この時マルダイテス人の多くは小アジア半島南部へうつされた。 |
| またキプロスはこれ以降東ローマ帝国とイスラーム勢力の共有地となる。 |
| この状態はバシレイオス1世時代の一時期を除いて10世紀後半まで続いた。 |
バルカン遠征、ローマ教皇との対立
| イスラーム戦線が安定したことで、ユスティニアノス2世は祖父のコンスタンス2世と同様、バルカン半島での勢力回復をめざした。 |
| 688年にはスクラビニア遠征を行う。 |
| この時の最終目的地はテッサロニキだったので、コンスタンティノープルとテッサロニキの間の、ストリュモン川流域のスラブ人やブルガール人に対する軍事行動であったと考えられる。 |
| この時捕虜にしたスラブ人を、ユスティニアノス2世は小アジア半島に移住させ、軍隊として組織した。 |
| ただしユスティニアノスはこの遠征の帰途にブルガール人の襲撃を受け、辛くも逃走している。 |
| ユスティニアノス2世は691年-692年にはコンスタンティノープルの宮殿の「トゥルロ(かたつむり)の間」で教会会議を開催する(トゥルロの公会議)。 |
| これは父のコンスタンティノス4世が開催した第3コンスタンティノポリス公会議の補遺を目的としたものである。 |
| この時古代ギリシア的な信仰や慣習の禁止や、イコン崇拝の承認などが決定されている。 |
| しかしローマ教皇・セルギウス1世はこの会議の議決に反対したので、ユスティニアノスは彼を逮捕しようとした。 |
| だがローマ市民などの強力な反対によって失敗している。 |
セバストポリスの敗北とレオンティオスのクーデター
| ユスティニアノスは2世はその後、ウマイア朝に対する軍事行動を起こす。 |
| そしてコンスタンス2世時代以来の戦略を変更してウマイア朝との直接対決を指向した。 |
| だが693年のセバストポリスの戦いでは、スラブ人部隊が寝返ったこともあって惨敗する。 |
| これ以降再び小アジアへのイスラームの攻撃が激化した。 |
| ユスティニアノス2世はこのような連年の遠征の軍費を調達するため重税を強いたほか、ユスティニアヌス1世にならって建築活動を起し、人々に大きな負担となった。 |
| こうした状況を利用して、695年にテマ・ヘラスの長官に任じられた(それまでは投獄されていた)軍人・レオンティオスがサーカス党派の支援を受けてクーデターを起こした。 |
| ユスティニアノス2世は捕らえられ、鼻を削がれローマ皇帝の即位の条件には「五体満足でなければならない」という不文律があった。 |
| このため、二度と帝位に就けないように、失脚した皇帝の目を潰したり、鼻や耳などを削いでしまうという残酷な処罰が行なわれることがあった。 |
| 上でクリミア半島のケルソンへ追放された。 |
復位後のユスティニアノス
| しかし、ユスティニアノス2世はなおも復位を目指して執拗に活動する。 |
| 削がれた鼻の代わりに黄金製の付け鼻をつけ、帝位への復帰を公然と表明したのである。 |
| 703年にはケルソンを脱出してハザール汗国にのがれ、可汗の姉妹と結婚し、ユスティニアヌス1世の妃にちなんでテオドラと改名させた。 |
| さらに第一次ブルガリア帝国のテルヴェル王がユスティニアノス2世の復位を支持し、その力を背景にしたユスティニアノス2世は705年、東ローマ皇帝・ティベリオス3世を打倒して、復位を果たしたのである。 |
| このとき、息子のティベリオスを共同皇帝としている。 |
| 復位後のユスティニアノス2世はランゴバルド王国やローマ教皇とは良好な関係を築き、711年にはローマ教皇コンスタンティヌスがコンスタンティノープルを訪問している。 |
| またブルガリアとも(当然ながら)良好な関係を保持していたようである(資料では晩年にブルガール人と対立したとあるが、これは第一次ブルガリア帝国に属していないブルガール人の集団の可能性が高い)。 |
| しかしウマイア朝との戦いでは小アジア南東部の要衝テュアナを708年に制圧されて以降、完全に守勢に立つこととなった。 |
| また復位したユスティニアノス2世は異常なほど猜疑心が強くなり、多くの人々を粛清してゆくようになる。 |
| また710年にはユスティニアノスに対して反抗的だった北イタリアのラヴェンナへ遠征軍を送って掠奪させた。 |
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