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プロフィール
- ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとは
- 生い立ちと少年期
- ライプツィヒ大学時代
- シュトラースブルク大学時代
- 『ウェルテル』成立
- ヴァイマルへ
- イタリア紀行
- シラーとの交流
- 晩年のゲーテ
- ゲーテと音楽
- 受容と影響
- 日本における受容
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(JohannWolfgangvonGoethe、1749年8月28日-1832年3月22日)はドイツの詩人、劇作家、小説家、哲学者、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『 ヘルマンとドロテーア』、詩劇『 ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテは ヘルダーに教えを受けた シュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの ...
生い立ちと少年期
| 1749年8月28日、ドイツ中部フランクフルト・アム・マインの裕福な家庭にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテとして生まれる。 |
| 父方の家系はもとは蹄鉄工を家業としていたが、ゲーテの祖父にあたるフリードリヒ・ゲオルク・ゲーテはフランスで仕立て職人としての修行を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成した。 |
| その次男であるヨハン・カスパーがゲーテの父にあたる。 |
| 彼は大学を出たのちにフランクフルト市の要職を志したがうまく行かず、枢密顧問官の称号を買い取った後は職に就かず文物の蒐集に没頭していた。 |
| 母エリーザベトの実家テクストーア家は代々法律家を勤める声望ある家系であり、母方の祖父は自由都市フランクフルトの最高の地位である市長も務めた。 |
| ゲーテは長男であり、ゲーテの生誕した翌年に妹のコルネーリアが生まれている。 |
| その後さらに3人の子供が生まれているがみな夭折し、ゲーテは2人兄妹で育った。 |
| ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送った。 |
| 当時のフランクフルトの多くの家庭と同じく宗派はプロテスタントであった。 |
| 父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に育てた。 |
| ゲーテは3歳の時に私立の幼稚園に入れられ、読み書きや算数などの初等教育を受けた。 |
| 5歳から寄宿制の初等学校に通うが、7歳のとき天然痘にかかって実家に戻り、以後は父が家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、ダンス、カリグラフィー、ピアノ、ダンスなどを学ばせた。 |
| ゲーテは特に語学に長けており、少年時代すでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得している。 |
| 少年時代のゲーテは読書を好み、『テレマック』や『ロビンソン・クルーソー』などの物語を始め手当たり次第に書物を読んだ(その中には『ファウスト』の民衆本も含まれる)。 |
| 詩作が評判であったのも幼少の頃からであり、最も古いものではゲーテが8歳の時、母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶の詩が残っている。 |
| 14歳の時、ゲーテは近所の料理屋の娘の親戚でグレートヒェンという年上の娘に初恋をするも、失恋に終わる。 |
| なおこのグレートヒェンの名前はゲーテの代表作『ファウスト』の第一部のヒロインの名に取られている。 |
ライプツィヒ大学時代
| 1765年、ゲーテは16歳にして故郷を離れライプツィヒ大学の法学部に入学することになる。 |
| これは法学を学ばせて息子を出世させたいという父親の意向であり、ゲーテ自身はゲッティンゲンで文学研究をしたかったと回顧している。 |
| ゲーテは「フォイアークーゲル」という名の大きな家に二間続きの部屋を借りて、最新のロココ調の服を着て都会風の生活をし、法学の勉強には身が入らなかった。 |
| この時期、ゲーテは通っていたレストランの娘で2、3歳年上のアンナ・カトリーナ・シェーンコプフ(愛称ケートヒェン)に恋をし、『アネッテ』という詩集を編んでいる『アネッテ』は出版はされず、友人が書き写していたものがゲーテの死後50年経ってヴァイマルの女官の家で発見された。 |
| 20代のときに執筆していた『ファウスト』の初稿(『原ファウスト』)も同様の経緯で発見されている。 |
| ゲーテは3年ほどライプツィヒ大学に通ったが、その後病魔に襲われてしまい、退学を余儀なくされた(病名は不明であるが、症状から結核と見られている)。 |
| 19歳のゲーテは故郷フランクフルトに戻り、その後1年半ほどを実家で療養することになる。 |
| この頃、ゲーテは母方の親戚スザンナ・フォン・クレッテンベルクと知り合った。 |
| 彼女は真の信仰を魂の救済に見出そうとするヘルンフート派の信者であり、彼女との交流はゲーテが自身の宗教観を形成する上で大きな影響を与えた(後の『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』の第六部「美しい魂の告白」は彼女との対話と手紙から成っている)。 |
| またこの頃ゴットフリート・アルノルトの『教会と異端の歴史』を通じて異端とされてきた様々な説を学び、各々が自分の信じるものを持つことこそが真の信仰であるという汎神論的な宗教観を持つに至った。 |
| またゲーテはこの時期に自然科学に興味を持ち、実験器具を買い集めて自然科学研究にも精を出している。 |
| ゲーテは地質学から植物学、気象学まで自然科学にも幅広く成果を残しているが、既にこの頃にはその基礎を作り上げていた。 |
シュトラースブルク大学時代
| 1770年、ゲーテは改めて勉学へ励むため、フランス的な教養を身につけさせようと考えた父の薦めもあってフランス領シュトラースブルク大学に入学した。 |
| この地で学んだ期間は一年少しと短かったが、ゲーテは多くの友人を作ったほか、作家、詩人としての道を成す上での重要な出会いを体験している。 |
| とりわけ大きいのがヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとの出会いである。 |
| ヘルダーはゲーテより5歳年長であるに過ぎなかったが、理性と形式を重んじる従来のロココ的な文学からの脱却を目指し、自由な感情の発露を目指すシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動の立役者であり、既に一流の文芸評論家として名声もあった。 |
| 当時無名の学生であったゲーテは彼のもとへ足繁く通い、ホメロスやシェークスピアの真価や聖書、民謡(フォルクス・リート)の文学的価値など、様々な新しい文学上の視点を教えられ、作家・詩人としての下地を作っていった。 |
| またこの時期、ゲーテはフリーデリケ・ブリオンという女性と恋に落ちている。 |
| 彼女はシュトラースブルクから30キロほど離れたゼーゼンハイムという村の牧師の娘であり、ゲーテは友人と共に馬車で旅行に出た際に彼女と出合った。 |
| 彼女との恋愛から「野ばら」や「五月の歌」などの「体験詩」と呼ばれる抒情詩が生まれるが、しかしゲーテは結婚を望んでいたフリーデリケとの恋愛を自ら断ち切ってしまう。 |
| この出来事は後の『ファウスト』に書かれたグレートヒェンの悲劇の原型になったとも言われている。 |
| 1771年8月、22歳のゲーテは無事に学業を終え故郷フランクフルトに戻った。 |
| しかし父の願うような役所の仕事には就けなかったため、弁護士の資格を取り書記を一人雇って弁護士事務所を開設した。 |
| 友人、知人が顧客を回してくれたため当初から仕事はそこそこあったが、しかしゲーテは次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになった。 |
| ゲーテは作家のヨハン・ハインリヒ・メルクと知り合って彼の主宰する『フランクフルト学報』に文芸評論を寄せ、またこの年の10月から11月にかけて処女戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の初稿を書き上げた。 |
| しかし本業をおいて文学活動に没頭する息子を心配した父により、ゲーテは法学を再修得するために最高裁判所のあったヴェッツラーへと送られることになった。 |
『ウェルテル』成立
| 1772年4月にヴェッツラーに移ったゲーテは、ここでも法学には取り組まず、むしろ父から離れて文学に専念できることを喜んだ。 |
| ヴェッツラーはフランクフルトの北方に位置する小さな村であったが、ドイツ諸邦から有望な若者が集まっており、ゲーテは特にヨハン・クリスティアン・ケストナーやカール・イェルーザレムと親しい仲となった。 |
| 6月9日、ゲーテはヴェッツラー郊外で開かれた舞踏会で15歳の少女シャルロッテ・ブッフに出会い熱烈な恋に落ちた。 |
| ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになるが、まもなく彼女は友人ケストナーと婚約中の間柄であることを知る。 |
| ゲーテはあきらめきれず彼女に何度も手紙や詩を送り思いのたけを綴ったが、彼女を奪い去ることもできず、9月11日に誰にも知らせずにヴェッツラーを去った。 |
| フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となったが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送った。 |
| シャルロッテの結婚が近づくと自殺すら考えるようになり、ベッドの下に短剣を忍ばせ毎夜自分の胸につき立てようと試みたという。 |
| そんな折、ヴェッツラーの友人イェルーザレムがピストル自殺したという報が届いた。 |
| 原因は人妻との失恋である。 |
| この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに『若きウェルテルの悩み』の構想を抱かせることとなった。 |
| 続く3年間をゲーテはフランクフルトで過ごしたが、この間にゲーテの文名を一気に世界的に高めることになる二つの作品が成立した。 |
| まずゲーテは『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を改作したうえでメルクの援助を受けて1773年7月に自費出版を行なうが、この作品はすぐに評判となりほどなくドイツ中の注目を集めた。 |
| そして1774年9月、ヴェッツラーでの体験をもとにした書簡体小説『若きウェルテルの悩み』が出版されると若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こし、ドイツを越えてヨーロッパ中にゲーテの名を轟かせることになった。 |
| また生涯をかけて書き継がれていくことになる『ファウスト』に着手したのもこの頃である。 |
| この2作品によってシュトゥルム・ウント・ドラングの中心作家となったゲーテは、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとその兄ヨハン・ゲオルク、ヨハン・カスパー・ラヴァーター、レッシング、クロプシュトックなど当代一流の文人たちと交流を持つようになった。 |
| また知見を広げるため、ヨーロッパ各地へ旅行も活発にし、1774年7月からはラーヴァーターと教育学者バーゼドといった友人たちと、ライン地方へ講演旅行に行っている。 |
| 1774年12月には、後にゲーテを自国ヴァイマル公国に招くことになるカール・アウグスト公がパリ旅行の途上でフランクフルトのゲーテを訪問している。 |
| このような中でゲーテはフランクフルト屈指の銀行家の娘であるリリー・シェーネマンと新たな恋に落ちた。 |
| 1775年4月にはリリーの友人である女性実業家デルフの仲介によって婚約に至るが、しかし宗派や考え方の違いから両家の親族間のそりが合わず、この婚約も難航した。 |
| 婚約直後にゲーテはしがらみから逃れるようにして単身でスイス旅行に行き、リリーへの思いを詩に託したが、結局この年の秋に婚約は解消することになった。 |
ヴァイマルへ
| 1775年11月、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移った。 |
| 当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでおり、招きを受けた際もなかなか迎えがこなかったためイタリアへ向かってしまい、その途上のハイデルベルクのデルフ宅でヴァイマルからの連絡を受けあわてて引き返したほどであった。 |
| 当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国であった。 |
| 本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭であった。 |
| アウグスト公は当時まだ18歳で、父エルンスト・アウグスト2世は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていた。 |
| 彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人ヴィーラントを息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めていた。 |
| 到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになったが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人との恋愛であった。 |
| 彼女はヴァイマールの主馬頭の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいた。 |
| ゲーテは着実にヴァイマル公国の政務を果たし、1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマル公国の宰相となった(以後、姓に貴族を表す「フォンが付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになる)。 |
| 政治家としてのゲーテはヴァイマル公国の産業の振興を図るとともに、イェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテ、シェリングら当時の知識人を多数招聘し、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策に力を注いだ。 |
イタリア紀行
| ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリ、シチリア島を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。 |
| 最初のイタリア旅行から戻った直後の1788年7月、ゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼んだ。 |
| 1789年には彼女との間に長男アウグストも生まれているが、ゲーテは1806年まで彼女と籍を入れなかった。 |
| 1792年7月にフランスがドイツに宣戦布告すると、プロイセン王国の甲騎兵連隊長であったアウグスト公に連れ立ってゲーテも従軍し、ヴァルミーの戦いに参加した。 |
シラーとの交流
| ゲーテは1788年にシラーをイェーナ大学の歴史学教授として招聘しているが、その後1791年にシラーが『群盗』を発表すると、すでに古典の調和的な美へと向かっていたゲーテは『群盗』の奔放さに反感を持ち、10歳年下のシラーに対して意識的に距離を置くようにしていた。 |
| ゲーテはシラーからの叱咤激励を受けつつ、1796年に教養小説の傑作『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を、翌年にはドイツの庶民層に広く読まれることになる叙事詩『ヘルマンとドロテーア』を完成させた。 |
晩年のゲーテ
| 1807年にはクリスティアーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『親和力』(1809年)が生まれている。 |
| 最晩年のゲーテは文学は世界的な視野を持たねばならないと考えるようになり、エマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、バイロンに詩を送り、ユーゴー、スタンダールなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエントの文学に興味を持ってコーランやハーフェズの詩を愛読した。 |
受容と影響
| もっともカール・マルクスは「ゲーテは偉大な詩人であるだけでなく、最も偉大なドイツ人の一人である」と述べており、レーニンもまたゲーテを愛読し、1917年に国外に逃亡した際にはネクラーソフの詩集とともにゲーテの『ファウスト』を携えていった(星野、前掲書)。 |
| 20世紀に入って以降もゲオルゲ、ホーフマンスタール、リルケらの詩人がゲーテの詩を範と仰ぎあるいそこからは霊感を受けており、またノーベル文学賞を受賞したトーマス・マンはゲーテをドイツ人の代表者として頻繁にエッセイや講演で論じ、晩年にはゲーテを範として長編『ヴァイマルのロッテ』『ファウスト博士』を執筆している。 |
日本における受容
| 作品の翻訳は1884年(明治17年)、井上勤が『ライネケ狐(ReinekeFuchs)』を『狐裁判』として訳したものが最初で、この訳は当初自由出版社から出されていたが1886年(明治19年)に版権が春陽堂に移って新たな初版が出され、1893年(明治26年)までに5版が出るほどよく読まれた。 |
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