| NHK交響楽団の前身である新交響楽団は、近衛秀麿の後任となる常任指揮者の候補を世界に求めた。 |
| ウィリアム・スタインバーグなども候補の一人に挙がっていたが、ローセンシュトックが「日本に行っても良い」という返事を出した。 |
| そこで、新響は当時来日中だったチェリストのエマヌエル・フォイアマンと、ユダヤ文化協会管弦楽団在籍中にローゼンシュトックの下で演奏をしたことがあるヴァイオリニストのウィリー・フライの意見を聞き、「日本人なら、彼の薫陶に耐えられるだろう」という進言を得たため、ローゼンシュトックとのパイプを持っていたフライの名前で招請状が書かれることになった。 |
| 正式に招請を受けたローゼンシュトックはシベリア鉄道と関釜連絡船を乗り継ぎ、1936年8月17日に日本に到着した。 |
| 9月21日に歓迎演奏会を開いた後、9月30日の第170回定期から1942年1月29日の第232回定期までのすべての定期演奏会を一人で指揮した。 |
| ローゼンシュトックは、まだまだ半アマチュア気分が抜けていなかった新響の楽員に基本的な奏法を中心とする厳しいトレーニングを徹底的に課し、楽員をして「過酷」と言わしめつつ技力の大幅なアップに務めた。 |
| また、当時の現代作品などレパートリーの拡充にも力を注ぎ、オペラの演奏会形式による上演もしばしば行った。 |
| 1941年には日本で初めてのモーツァルト・チクルスを開催した。 |
| ;ローゼンシュトックと新響が日本初演したおもな曲目。 |
| ドビュッシー:「夜想曲」(1936年11月11日)。 |
| イーゴリ・ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」(1937年4月21日)。 |
| ベルク:「ヴォツェック」(部分)(1937年6月9日)。 |
| ラヴェル:ピアノ協奏曲(ピアノ:井口基成)(1938年4月20日)。 |
| シューマン:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:ウィリー・フライ)(1938年12月14日)。 |
| バルトーク:「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」(1939年5月10日)。 |
| シマノフスキ:交響曲第4番(ピアノ:井口基成)(1939年5月24日)。 |
| ディーリアス:「ブリッグの定期市」(1939年5月31日)。 |
| ウォルトン:「ファサード」(1939年5月31日)。 |
| ラフマニノフ:「パガニーニの主題による狂詩曲」(ピアノ:レオ・シロタ)(1940年4月24日)。 |
| プロコフィエフ:「キージェ中尉」(1940年5月22日)。 |
| マーラー:「大地の歌」(ソプラノ:四家文子、テノール:木下保)(1941年1月22日)。 |
| ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲(1941年6月5日)。 |
| 一方で、トラブルもしばしば引き起こした。 |
| 1937年3月25日の第177回定期では、芸術上の対立によりヴァイオリニストのアレクサンドル・モギレフスキーとの共演を一方的に破棄し、楽壇に論争を巻き起こした。 |
| また、第232回定期ではリヒャルト・シュトラウスの「ドン・キホーテ」の日本初演をする予定であったが、序奏部でチェリストのロマン・デュクソンが「音が違う」と指摘、さらにデュクソンが「こんな指揮者とは共演できない」と言い放ったため、ローゼンシュトックもデュクソンも憤然となり、初演は取りやめとなったシューベルトの交響曲第3番差し替え。 |
| 「ドン・キホーテ」は5月6日の第236回定期で山田和男が日本初演。 |
| 太平洋戦争開戦で活動が徐々に制限されていたこともあったが、この事件でローゼンシュトックは完全に機嫌を損ね、9月23日の第238回定期まで病気と称して休演する事になった。 |
| その間に新響は改組して「日本交響楽団」(日響)となった。 |
| 改組後は山田、尾高尚忠とともに日響の指揮台を守った。 |
| ローゼンシュトックはユダヤ系であったためアンチの恰好の標的となったが、有馬大五郎らの擁護で何とか演奏活動を続けていた。 |
| しかし、1944年2月18日の第253回定期を最後に活動休止に追い込まれ、目黒にあった指揮者用宿舎を引き払って、やがて日本在住の敵性でない他の外国人らとともに軽井沢に移動。 |
| 冬にはオーバーを何枚も着込んでも寒さから逃れられない厳しい生活を送り、そこで終戦を迎えることとなった。 |