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つながりの強いひと
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ジャイアント馬場
日本のプロレスラー、プロ野球選手、タレント。本名は馬場正平(ばばしょうへい)。全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。血液型O... |
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ジャンボ鶴田
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プロフィール
- ラッシャー木村とは
- 力士時代 - 国際プロレス
- 新日本参戦
- 全日本移籍
- ノア立ち上げ - 引退
- 死去
- 略歴
- 入場テーマ
- マイクパフォーマンス
- 「こんばんは」事件
- マイクパフォーマンス一覧
- エピソード
- 関連サイト
ラッシャー木村(ラッシャーきむら、1941年6月30日-2010年5月24日)は日本の元大相撲力士、元プロレスラーである。本名は木村政雄(きむらまさお)。北海道中川郡中川町出身。 金網の鬼、ラッシング・パワー、吠える闘将などのニックネームで呼ばれた。2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。
新日本参戦
| 1981年10月、国際プロレスの解散に伴い残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。 |
| 当初は新日本対国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択、最終的に新日本に登場した選手は木村・浜口・寺西の3人だけとなったものの、人気絶頂のアントニオ猪木に対する悪役ユニット「はぐれ国際軍団」のリーダーとしてヒールを演じた。 |
| 1982年には久々にアメリカに遠征し、ミスター・トヨ(Mr.Toyo)のリングネームでロサンゼルス地区を短期間サーキット、国際プロレスの後輩である剛竜馬をパートナーにNWAアメリカス・タッグ王座を獲得した。 |
| 以降も浜口と寺西を従え、猪木1人を相手に3対1のハンディキャップマッチを2度に渡って行うなど話題を集めたが、IWGP構想の中で次第にメインストリームから外れていき、1983年下期からは浜口と寺西が長州力率いる維新軍団に加わったため国際軍団は解散。 |
| その後はバッド・ニュース・アレンと共闘するなど、外国人サイドから単独で参戦し続けた。 |
| 新日で勃発した内紛によって、1984年には前田日明らと第一次UWFの創設メンバーに名を連ねたが、外国人レスラーのブッキングを巡るトラブルから数か月で剛竜馬と共に離脱した。 |
全日本移籍
| UWF離脱直後に全日本プロレスへ移籍。 |
| 1984年の世界最強タッグ決定リーグ戦でジャイアント馬場にタッグパートナーとして抜擢されたにもかかわらず、愛知県体育館での試合中に謀反した。 |
| これら一連の動きを木村は「(プロレス人生で)自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と述懐したが木村を「馬場の最良のパートナー」と評した専門誌もあった。 |
| 以後、国際プロレスの残党である剛竜馬と鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成。 |
| 全日本軍と敵対するアングルが組まれ、試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが次第に注目を集めたが、日本人選手の過剰により剛、菅原、高杉は全日本を解雇され、以降は鶴見とのタッグで活動。 |
| ヒットマンのキャラクターで一匹狼となった阿修羅・原や、ジャパンプロレス勢と仲間割れしたキラー・カーンとも一時的に共闘した。 |
| その後はフェイスターンし、馬場との「義兄弟コンビ」で1988年の世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。 |
| 体力の衰えからミッドカード戦線での活動を余儀なくされたものの、馬場のことを「アニキ!」と呼び、後に百田光雄を加えて「ファミリー軍団」を結成、悪役商会(永源遙、大熊元司、渕正信ら)を相手にユーモラスな前座試合を展開し、当時の全日本プロレスのコンセプト「明るく・楽しく・激しいプロレス」の「明るく・楽しく」を担った。 |
| そのユニークなキャラクターが買われ、土曜深夜の『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)にレギュラー審査員として出演、その際は一人だけピンマイクではなく手持ちのマイクで喋っていた。 |
| 国際プロレス時代の寡黙なブルファイターのイメージとは180度異なるコミカルな存在となったが、彼のマイクパフォーマンスは桑野信義も『志村けんのだいじょうぶだぁ』で物まねをするなど、プロレス界の名物として定着した。 |
ノア立ち上げ - 引退
| 馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛を経てプロレスリング・ノアに立ち上げメンバーとして参加。 |
| 2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。 |
| 翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが精彩を欠き(最晩年にはまったく攻撃をしないまま終わる試合も珍しくなかった)、2003年3月の日本武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。 |
| 2004年7月10日、体力の限界と「これ以上関係各者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明し、以降、公の場から姿を消した。 |
| 同年12月にはノアの終身名誉選手会長への就任が発表され、その後は病状など一切公表されなかったが、毎年の「選手興行」のポスターには顔写真が掲載された。 |
| 「プロレス格闘技DX」内のノア公式ウェブサイトにて、ファンからの「木村さんは今でもノア所属なのか」との質問には三沢光晴社長が「終身名誉選手会長であり、現在も所属である」と答えていた。 |
| 実は還暦を迎えた際、全日移籍の前に年金未納期間があったことが判明し、未納分の払込が完了し受給資格を得られるまで引退後もノアの社員として雇用することにしたという東京スポーツ2010年5月26日付。 |
死去
| 2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。 |
| 関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという |
| 木村が体調を崩して公の場から去った後、浜口や鶴見などかつての国際プロレスの仲間が見舞いを希望したが |
| なお、死去に際しては親族のみで葬儀を行ったことから、プロレスリング・ノア主催のお別れの会を2010年6月26日にディファ有明にて開催し、アニマル浜口が「プロレス界はあなたを忘れることはありません」と涙ながらに弔辞を読み、遺影に向かって「気合だ!」を叫んで故人を偲んだ |
| また同日にディファ有明で行われた"プロレスリング・ノア創立10周年記念"『SummerNavig.10part1』シリーズ開幕戦が、『ラッシャー木村追悼興行』と銘打って開催された |
略歴
| 1958年大相撲宮城野部屋入門(四股名:木の村)。 |
| 1964年相撲を廃業。 |
| 1965年4月2日対高崎山猿吉(北沢幹之)戦(東京リキ・スポーツパレス)でプロレスデビュー。 |
| 1966年東京プロレスの設立に参加、日本プロレスより移籍。 |
| 1967年東京プロレス崩壊。 |
| 1969年リングネームを本名の木村政雄からファンから公募した「ラッシャー木村」に変更。 |
| 1970年日本初の金網デスマッチを行い勝利(対ドクター・デス)。 |
| 1973年ブラックジャック・マリガンを破り、IWAワールド・シリーズ初優勝(第5回大会)。 |
| 1975年日本初の金網デスマッチによるタイトルマッチを行い、マッドドッグ・バションを下してIWA世界ヘビー級王者となる。 |
| 1976年全日本プロレスとの対抗戦で、ジャンボ鶴田と対戦(引き分け)。 |
| 1978年東京12チャンネルの特撮番組『スパイダーマン』(東映制作)にカメオ出演。 |
| 1981年国際プロレス崩壊後、アニマル浜口、寺西勇とともに「はぐれ国際軍団」を結成、新日本プロレスにヒールとして殴り込み。 |
| 1984年第一次UWF旗揚げに参加。 |
| 短期間(4-10月)で離脱、11月より全日本プロレスに参戦。 |
| 1990年日本テレビ『いけない女子高物語』に出演。 |
| 2000年プロレスリング・ノアの旗揚げに参加。 |
| 2001年還暦記念試合を行う(満60歳)。 |
| 2004年プロレスリング・ノア東京ドーム大会にて自ら引退を発表。 |
| 2010年5月24日腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。 |
入場テーマ
| "Skydiver"(ダニエル・ブーン)。 |
| "Rebirthofthebeat"(サンディ・ネルソン)。 |
| "安息の後ろ側(SOFABACK)"(FM)。 |
マイクパフォーマンス
| 木村の独特でゆったりとした間で繰り出すマイクパフォーマンスは観客の受けが非常に良く木村の試合終了後、観客から「マイク!マイク!」とマイクパフォーマンスを求めるマイク・コールは木村が引退するまで定番となっていた。 |
| 彼のネタにされる選手達は、木村のマイクパフォーマンスを嫌がっていたが「観客が求めるから」と仕方なく許していたと言う。 |
「こんばんは」事件
| 1981年9月23日、田園コロシアムで行われた新日本プロレスの興行に浜口、寺西勇を連れて現れた木村はリング上でアナウンサーからマイクを向けられると、決意表明に先立ち、まずは集まってくれた観客に対し挨拶をしなければと思い、「こんばんは…」と丁重に挨拶を行なった。 |
| あまりにもおかしかったため当時ビートたけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」とネタにしたこともあって、世間にギャグとして広まってしまった(ここからラッシャー木村のお家芸が金網からマイクパフォーマンスになる)。 |
| たけしについては当時自分の弟子を集めて結成した「たけし軍団」の一人に「ラッシャー板前」という名前をつけて、木村と同じ黒のロングタイツをはかせるなどしていた。 |
マイクパフォーマンス一覧
| ジャイアント馬場(通称・兄貴)に向かって(第1声は必ず{敵対時は}「馬場っ」{義兄弟の契り以後は}「アニキーッ」と、必ずこれらいずれかで始まる)、。 |
| 俺だってコノヤロー、日本で、ポカリスエット飲んで鍛えたんだコノヤロー」(毎年年末になるとハワイの別荘で過ごす馬場に対して)。 |
| テレビ解説の山田隆は「タッグを組みたいなら手順を踏まないと…」と実況の倉持隆夫ともども唖然としたが、場内は「組め」コールでタッグ結成を後押し。 |
| 「(当時結婚して間もない田上明を引き合いに出して)渕、田上のイキイキしたファイト見たか?おい渕、なぜか分かるか?結婚したからだよコノヤロー!お前もそろそろ、結婚しろコノヤロー!いいか?仲人がいなかったら、俺がアニキに頼んでやるからな」。 |
| "永源ちゃんあんたはいつもいい男""大熊ちゃんあんたもよく見りゃいい男""渕選手お前は早く嫁もらえ"」。 |
| 1987年の世界最強タッグ決定リーグ戦、公式戦対戦前のタッグマッチでタイガーマスクに「公式戦ではドロップキック9連発するからなコノヤロー!」(公式戦では9連発どころか1発も放っていない)。 |
| だんご三兄弟と銘打った悪役商会に対し「キマラ!お前、団子食ったことあるのか?もし無いなら、今度国に帰るときに、お土産に団子を買って帰りなさい」。 |
| 「永源!お前は最近、ランバダで身体を鍛えてるらしいけど、俺も、今度はな、ジャズダンスやって鍛えるから覚悟しとけよコノヤロー」。 |
| 「ブッチャー、今日は試合に負けたけど、俺には、今夜はな、ススキノが待ってんだバカヤロー!」。 |
| 『全日本プロレス中継』に登場したウッチャンナンチャンに「ウッチャン、FOCUS見たぞ。 |
| 天龍源一郎とのタッグ戦ではエキサイトし観客の「マイクコール」に応えたが、セリフは「天龍!次はシングル(で決着)だ!」と木村の殺気で会場は静まり返った(その直後に天龍はSWSに移籍してしまい、決着戦は幻となった)。 |
エピソード
| ビクトル古賀からサンボ技を直伝され実は日本きっての関節技の名手(主に足関節技が得意)なのに、自分のスタイルに合わないからと試合ではサンボ技を殆ど見せぬまま引退した隠れシューターなのではないかと囁かれたり、ビル・ロビンソンの教えを乞い、相撲で鍛えた下地も考え合わせると実は日本で一番強かったのではないかと推測されたりと様々な都市伝説を生んでいる(少なくとも、馬場との「義兄弟タッグ」の時期になってもスポーツ会館でのサンボのトレーニングを欠かさなかった)。 |
| "狂乱の貴公子"リック・フレアーが初来日したのは国際プロレスのリングであり、ラッシャー木村とも金網デスマッチで対戦しているリック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝トゥー・ビー・ザ・マン』P44(2004年、エンターブレイン)ISBN4757721536。 |
| 新日本プロレスでアントニオ猪木と抗争を広げた時に猪木の波状攻撃で繰り出されるチョップを耐えて耐えて耐え抜く木村の姿から、当時『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の実況担当の古舘伊知郎からは「テトラポットの美学」という形容を付けられていた。 |
| 「はぐれ国際軍団」当時の1982年5月に、浜口と寺西を日本に残して渡米。 |
| ロサンゼルス地区でミスター・トヨを名乗り、「はぐれ国際軍団」加盟を表明して同行してきた剛竜馬をパートナーにライジング・サンズを現地で結成、ヘクター・ゲレロやビクター・リベラなどと対戦した。 |
| ジャンボ鶴田は筑波大学大学院を受験した際にそのことを全日本プロレスのレスラーたちには内緒にしていた。 |
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対高崎山猿吉(北沢幹之)戦(東京リキ・スポ... |
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東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京... |
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