| 1971年、ビルとデイスの兄弟とともに「ミーンズ三兄弟」として、正式にAIMメンバーとなる。 |
| 6月、再びラッセルらはラシュモア山を占拠。 |
| AIMと老若男女のインディアンたちは連邦記念碑である「大統領の顔」の上にAIMとスー族の国旗を掲げ、1ヶ月を超す長期野営抗議を行った。 |
| この際、ラッセルらはジョージ・ワシントンの「顔」に小便をかけて見せ、岩に「レッド・パワー、インディアンの土地」と赤い塗料で大書した。 |
| この年、スポーツ界の「インディアン・マスコット」問題にも取り組み、「ワフー酋長」の意匠廃止を巡って、プロ野球球団「クリーブランド・インディアンス」告訴の原告団に加わり、「ワフーの意匠がインディアンの品位を汚している」として、900万ドルの損害賠償訴訟を行っている。 |
| 1972年、「ワフー訴訟」に反発する「クリーブランド・インディアンス」のファンから猛抗議を受け、クリーブランドの「インディアン・センター」所長を辞任。 |
| この抗議行動はインディアン管理局(BIA)本部ビルの占拠に発展し、リチャード・ニクソン大統領の調停が入る一大事件となった。 |
| ラッセルは「メディアはインディアンを無視している」と報道陣に訴え、彼らは激しい抗議行動でマスコミに訴えかける戦法を取った。 |
| デニスと二人でBIAの汚職証拠となる書類をごっそり運び出したラッセルは、各保留地の部族議長の腐敗やBIAとの癒着を公開し、BIAを激怒させた。 |
| この占拠抗議の後、ラッセルはこう宣言した。 |
| 「我々は、巨大な狼煙を上げたのだ」。 |
| 1973年、スー族のパインリッジ・インディアン保留地は、部族会議議長ディック・ウィルソンによって私物化され、ウィルソンの私設暴力団とスー族との市民戦争状態にあり、また部族民はすさまじい白人からの差別と暴力の下にさらされていた。 |
| スー族同胞が白人グループに面白半分に虐殺され、抗議運動は白人警察によって弾圧され、ラッセルも白人保安官によって名指しの暴行を受け、逮捕拘留された。 |
| 2月26日、パインリッジのオグララで、フールス・クロー酋長の呼びかけで長老と酋長による大集会が開かれた。 |
| スー族以外のAIMメンバーも加わった緊急集会で、スー族の女たちはAIMに力を貸してくれるよう頼んだ。 |
| AIMはこれを快諾し、パイプの儀式を行ってウーンデッド・ニーまでの抗議行進の決行を全会一致で決定した。 |
| ラッセルは各酋長(世話役)との連絡役とスポークスマンを任じることとなった。 |
| この抗議行進は、ついには「ウーンデッド・ニー占拠抗議」、「オグララ国独立宣言」に発展。 |
| パインリッジの部族会議議長として部族民をテロ弾圧していたディック・ウィルソンについて、占拠抗議に参加した呪い師のクロウドッグは「白人とインディアンの混血、あるいはインディアンですらなかったかもしれない」と述べている。 |
| ウィルソンはラッセルを賞金首にして、次のように発表した。 |
| ラッセルはニクソン大統領との交渉のため、ワシントンを訪れたが足止めされ、占拠抗議はインディアン二人の死者を出して1973年5月8日に撤退となった。 |
| 1973年10月、ノースダコタのスタンディングロック保留地を訪問した際に、BIA警官によって背後から肝臓を撃たれ重傷を負ったが、命は取り留めた。 |
| このあとの6年間で、ラッセルは4回、白人による射殺と刺殺の危機を乗り越えた。 |
| 1974年1月2日、連邦政府とFBIは、「ウーンデッド・ニー占拠主導者統一裁判」として、ミネソタ州セントポールでラッセル・ミーンズ、デニス・バンクスの二人を連邦訴追した。 |
| 連邦政府はAIMを「国家反逆の犯罪者集団」として反AIMキャンペーンを行っており、この二人を断罪しようとしたのである。 |
| オグララ族のペドロ・ビソネットはBIAに射殺され、スー族の呪い師レオナルド・クロウドッグと、AIM主導者の一人クライド・ベルコートは別件で逮捕され別法廷で被告となっていた。 |
| 9か月にわたる裁判にはビル・クンスラーやマーク・レーンら、著名な人権派弁護士がつき、違法盗聴や偽証など、FBIの不正が次々に明るみに出た。 |
| 現職のディック・ウィルソンに200票余りの差をつけたが、ウィルソンは不正と脅迫によってこれを無効とし、連邦裁判所の再選挙要求を無視した。 |
| 1977年、アメリカ合衆国のインディアン権利問題を国際的に訴えるため、国連に「国際インディアン条約会議」を設立。 |
| またパインリッジ・インディアン保留地で、スー族によるラジオ局「KILI」や、「ポーキュパイン健康診療所」の組織化を進めた。 |
| 1980年7月に、ラッセルは彼の言葉をより広く知らしめるためとして、『ForAmericatoLive,EuropeMustDie』(アメリカが生きるために、ヨーロッパは死ななければならない)とする有名な演説を行い、「アメリカインディアンは伝統を守ることでヨーロッパ化を避けるべきだ」と訴えた。 |
| ラッセルは、キリスト教と資本主義を含むヨーロッパの知的伝統を批判し、「白人が宇宙を非スピリチュアルなものにした」とし、ヨーロッパの伝統的なマルクス主義はアメリカインディアンの問題を何も解決しないと警告した。 |
| 1981年4月、ラッセルらAIMグループとラコタ族伝統派が、サウスダコタ州ビクトリアクリーク渓谷にある連邦政府の土地で、「ブラックヒルズ返還の第1段階」としてティーピーの野営を張った。 |
| この野営は、白人に虐殺されたスー族のレイモンド・イエローサンダーの名をとって、「イエローサンダー・キャンプ」と名付けられた。 |
| 米国森林サービス局は野営のための土地の使用を拒否したため、彼らは1978年制定の「アメリカインディアンの宗教の自由法」に対する侵害であるとして連邦を告訴した。 |
| 全米を分けた世論の中、AIMでも共産党系「サンディニスタ民族解放戦線」と「MISURASATA」の支持派に分かれた。 |
| またこの時期、ラッセル個人はAIMとは歩調の違うラリー・フリント、統一教会、リバタリアン党などに賛同していた。 |
| インディアンの社会は縦割りの上意下達文化を持たず、白人のように「一人の指導者」によって統率されるような習慣はない。 |
| 1988年にAIM本部を離れたのち、6月25日、インディアンの戦功を無視した「リトルビッグホーンの戦い」の記念碑のそばに、「インディアン戦士の記念碑」を設置する抗議行動を行う。 |
| 1994年春、AIM共同創設者クライド・ベルコートは、1972年に提訴した「クリーブラント・インディアンス訴訟」の原告団が35,000ドルで和解に応じたことで、「AIMを売った」とラッセルを責めた。 |
| 映画の出演料で、ラコタ族の文化を子供たちに教える学校を設立しており、またパイン・リッジ保留地に、ブラックヒルズでの「イエローサンダー・キャンプ」のような、若者向けの霊的なキャンプを行う「宇宙の大学」(theUniversityoftheUniverse)と呼ぶ学校を計画している。 |