| マハルシの教えは、シャンカラの不二元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)にたどれるが、自身は何らかの思想や哲学を教えているという思いはなく、ただ自らの体験を語っていた。 |
| 難解な聖典の教えを、その本質を把握して明確に説明することができ、数多くの質問者の疑問を晴らした。 |
| しかし、言葉での教えより、モウナ(沈黙、静寂)こそが最も力を持っているとたびたび語っている。 |
| ここでの、モウナは単に言葉を発っさないことではなく、こころがその源(真我)に溶けこみ、別に存在していない在り方を意味している。 |
| マハルシは、モウナは「永遠の雄弁」であると表現し、言葉を発することはその力の妨げになると言っている。 |
| 実際に、マハルシに会いに来た人が、会話を交わすことなしに、目と目を合わせるだけで、こころが落ち着き、今まで味わったことのない幸福感に包まれたというような話が、マハルシとの思い出を収録した『FACETOFACEWITHSRIRAMANAMAHARSHI』などの本の中でよく語られている。 |
| 「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨した。 |
| 肉体を自分であると誤ってみなしているエゴである「私」の根源を探求することで、エゴが消え、純粋な意識であり絶対的実在の真我こそ私であると悟る。 |
| これは、ヴィチャーラ・マッガ(探求の道)またはジニャーナ・マッガ(知恵の道)と呼ばれる。 |
| この悟りは、常に自らが真我であることに気づくことであり、新たに真我を作りだしたり、真我を獲得するということではない。 |
| 探求は、真我を見えなくしている障害物である「私とは肉体である」という思いを核とする様々な思いを除くだけである。 |
| マハルシは、自らが真我であるのに真我であると気づいていないことを、不可思議の中の不可思議とあらわしている。 |
| 悟りへのまっすぐなもうひとつの道として、バクティ(献身、帰依)も教えている(バクティ・マッガ)。 |
| バクティは神などの至高の存在に自分自身を明け渡す(委ねる)ことである。 |
| その達成において、自分自身の欲望は完全に消える。 |
| バクティとジニャーナには優劣はなく、どちらを選ぶかは修行者の性質による。 |
| マハルシは、バクティはジニャーナの母という表現をしている。 |
| ちなみに、神・師(グル)・真我は同じものの異なる呼び名である。 |
| また、他の修行の道を否定せず、自身が最も行いやすいと感じる修行をすればよいといい、様々な修行にも寛容な態度をとった。 |
| 『ウパデーサ・マンジャリ(英:SpiritualInstruction)』のなかでストゥーティ、ジャパ、ディアーナ、ヨーガ(プラーナーヤーマ)などが説明されている。 |
| それらの伝統的な修練でつちかった一点への集中力は、真我の探求を容易にする。 |
| マハルシは、真我を悟るために、大部分の人は継続的に努力して修練する必要があると説いている。 |
| 今世で修練なくして悟ったものは、前世ですでに必要な修練を終えているからである。 |
| 悟るための助けになるものとして菜食(ニンニクなどは除く)を最も優れたものとして勧めている。 |
| 菜食により、心に落ち着き(サットヴァ)の性質が増す。 |
| マハルシの教えは、ヨーガの一種として、ジニャーナ・ヨーガとあらわされることもある。 |
| ジニャーナは、「Knowledge」と英訳され、日本語では「知識」や「知恵」となる。 |
| このジニャーナは主体(私)が対象を知ることで得られる相対的な知識とは異なり、主体と対象という二元性を越える「真我もしくは神以外何も存在しない。 |
| 私や私のものは存在しない」という体験的知識である。 |
| この絶対的な知識も含め、すべての知識は最終的に放棄される。 |
| 絶対的な知識は無知を破ることで役目を終える。 |
| アシュラムの周りに住む動物にたいして優しく接していた。 |
| アシュラムの敷地内には現在もマハルシが作らせた鹿、カラス、犬、牛のお墓が大切に残されている。 |
| また、必ずしも動物が人間に劣っているわけではないとも述べている。 |
| アシュラムで飼っていた牛のラクシュミが亡くなった際、マハルシはラクシュミは真我を悟ったという内容の詩をうたった。 |
| 聖者として特別扱いされることを好まず、平等を重視していた。 |
| 食事のお布施のある場合は、かならず皆で平等に分配し、特別に自分だけに用意された食べ物は受け取らなかった。 |
| 自分の食事が人より多く盛られているのに気付くと、厳しくしかった。 |
| 医療もアシュラムに住む人が自分と同じ扱いを受けられるようになってはじめて、受けるようになった。 |
| キリスト教やイスラム教をはじめとする様々な宗教・宗派にたいして非常に寛容であり、宗教間の優劣を説かず、それぞれに通底する真理を説いた。 |
| 対話しに来た相手の信仰を傷つけないで導くよう配慮していた。 |