| エイチンゴンの同僚だったパヴェル・スドプラトフによれば、メルカデルは大変頭がよく、意志の強い人物で、自分の命を捧げた事実が歴史的に正しいものであると狂信的に信じる人物だったという。 |
| エイチンゴンは、任務を確実に実行させるために(失敗すれば自身の命が危なかったため)、メルカデルへの資金援助を惜しまなかった。 |
| 1939年9月、メルカデルはカナダのパスポートでニューヨークに向かい、トロツキストのシルヴィア・アゲロフに接近した。 |
| 同年10月、トロツキーのいるメキシコに向かい、会社(エイチンゴンが作った幽霊会社)の仕事だといってシルヴィアを信用させた。 |
| 1940年3月、ジャック・モルナールの偽名でトロツキーの別荘に出入りし、新たにトロツキーの秘書になったシルヴィアと共に自分をトロツキーの支持者だと信用させた。 |
| 1940年8月20日午後五時、メルカデルは自分の論文を見せるとして暗殺のためにトロツキーの別荘に入った。 |
| 書斎でメルカデルは7cmのピッケルを「論文」を読み始めたトロツキーの頭に振り下ろしたが、トロツキーは意識を失わずに叫び声を上げ、メルカデルに噛み付いた。 |
| すぐに警備員がやって来て逃げようとしたメルカデルを袋叩きにした。 |
| 血塗れになったメルカデルは、「こうするしかなかった。 |
| 奴らが母さんを押さえているのだ。 |
| こうしなければならなかった。 |
| 今すぐ殺せ、そうでなければ殴らないでくれ!」と訴えた。 |
| これを見たトロツキーは「殺すな。 |
| 先ず尋問すべきだ」と叫んだ。 |
| 結局これが致命傷となり、トロツキーは事件の26時間後に死亡した。 |
| メルカデルがトロツキーを殺したと知ったシルヴィアは卒倒した。 |
| エイチンゴンとカリダドら首謀者たちはその日のうちに出国し、一年後にモスクワへ帰還した。 |
| 逮捕後、メルカデルはシルヴィアとの結婚を拒否されたための私的な報復だと主張して一切の証言を拒否した。 |
| 8月22日、「プラウダ」紙は、「暗殺者はジャン・モーガン・ワンデンドラインと自称し、トロツキーの信奉者かつ側近である」として関与を否定した(この時点で、事件の詳細はまだ報道されていなかった)。 |
| メルカデルは、犯行の状況を除いて自供を拒み続けた。 |
| しかし、指紋の分析から1950年の9月になってメルカデルの正体が突き止められた。 |
| メキシコの裁判所は彼に最高刑(メキシコに死刑は無いため)の懲役20年を言い渡した。 |
| メルカデルは獄中で、歴史が必ず自分を高く評価するだろうと主張し続けた。 |
| 服役期間中も仮釈放を条件に真実を明らかにするよう説得が試みられたが、メルカデルはこれを拒否して刑期満了まで服役した。 |
| 1960年5月6日に釈放されてキューバに移送され、その後チェコスロバキア経由で秘密裏にソ連に送られた。 |
| 同年5月31日、メルカデルにソ連邦英雄の称号、レーニン勲章が授与された。 |
| ソ連では、ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義大学職員として働いた。 |
| しかし、時はすでにスターリンの死後であり、スターリンのエージェントであったメルカデルは事実上厄介者扱いだった。 |
| そのため、彼が希望していたソ連共産党への入党は拒絶される(メルカデルの所属はスペイン共産党のままだった)。 |
| 失望した彼は1970年代中盤、フィデル・カストロの招待によりキューバに移り、キューバ外務省顧問となった。 |
| 彼はハバナで暮らし、1978年10月18日に死去した。 |
| メルカデルの遺体はモスクワに移され、クンツェヴォ墓地に「ラモン・ロペス」として葬られた。 |
| また、ルビャンカにあるKGB博物館には彼を顕彰した一角がある。 |