| 1821年、デヴォン州トーキーで生まれる。 |
| 3歳から父が気管支喘息だったために和らげる乾燥地を求めて、フランス、イタリアの各地を一家で移りながら育つ。 |
| 1840年にオックスフォード大学に入学するが、飲酒や決闘といった問題行動を繰り返し2年で退学になる。 |
| 父親の勧めでインド駐屯軍の将校になり6月に出発、10月にボンベイに到着した。 |
| 各地に赴任し、そこで植民地支配に対するインド人の不満をみてイギリス当局に警告したが相手にされなかった。 |
| 王立地理協会から援助を受け1853年に中東に旅立ちメッカ巡礼をおこない巡礼者に変装することで異教徒と見破られずに成功する。 |
| 生還した白人は数少なかったので有名になったが実際には当時の人々が想像するほど危険ということはなかった。 |
| 翌1854年には、東インド会社の援助で(現在のエチオピアの東部)禁断の町ハラールに初の白人として到着。 |
| 十日間滞在した後、ソマリアのベルベラで300人ほどの現地民に襲われ重傷を負い現地民が投げた槍が左頬から右上顎に貫通。 |
| 現地を逃れたあと引き抜いたが、左頬の傷跡は一生残った帰国した。 |
| クリミア戦争にも従軍し、オスマン帝国の不正規軍の隊長を務めた。 |
| thumbnail|450px|バートンとスピークのタンガニーカ湖までの道のり。 |
| 1857年、東アフリカのナイル川の源流を探す旅を友人の探検家ジョン・ハニング・スピークとともに加わり苦難の末、1858年にタンガニーカ湖を「発見」した。 |
| これこそが源流だとバートンは主張したがスピークは納得せずにさらに探検してヴィクトリア湖を発見。 |
| これこそ本物だと考えるようになる。 |
| 二人で帰国しようとするが、途中のアデンでバートンは熱病で伏してしまった。 |
| 一足先に帰国したスピークは、約束に反して単独で成果を公表したために両者の関係が悪化する。 |
| 1860年、北米大陸横断にでかけハリファックスから出発しカナダ東部-サンフランシスコ-パナマ地峡までの前人未到の地を調査。 |
| そこでインディアンと出会いモルモン教の中心地であるソルトレイクシティを訪れて好意的な報告をしている。 |
| カリブ海セントトマス経由で帰国して翌年に10年前に知り合った敬虔なカトリック教徒イザベル・アランデルと結婚するが、スペイン領西アフリカの領事に任命され単身赴任する。 |
| ダホメ王国を訪問して王に人身御供と奴隷貿易の禁止をさせようと説得したこともあった。 |
| しかし、歓迎されたが目的を果たせなかった。 |
| かねてから論争していたスピークと決着をつけるために1865年に開かれた英国学術教会の総会で討論しようとしたが、前日に銃の暴発(自殺?)によりスピークは死亡した。 |
| このことにショックをうけたものの翌年にブラジルの駐サントス領事に任命され渡航。 |
| 奥地や南米各国を探検する。 |
| 1869年にはシリアの駐ダマスカス領事に任命され再び渡航。 |
| ここでも辺境を探検するが、本人とは無関係の宗派紛争とのからみで職を解任され帰国。 |
| このときの経験をもとに執筆した文章は、反ユダヤ主義だとして後世まで非難された。 |
| その後、駐トリエステ領事として、1873年に赴任し死ぬまでその職にあった。 |
| インドや西アフリカを再訪し1886年にナイトに選ばれ以後、「サー」の称号を用いる。 |
| 晩年は『アラビアン・ナイト』の翻訳をして過ごした。 |
| 1890年に心臓発作で危篤状態になり妻の勧めでカトリックに改宗してから(その場にいた姪は否定する)死亡した。 |