18181
18365
205319
%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC
%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC
%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC
%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC
%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう リーゼ・マイトナーの画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
関連商品
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
米沢富美子
日本の理論物理学者、慶應義塾大学名誉教授。専門は物性理論、特に固体物理学。アモルファス研究で国際的に知られる。理学博士(京都大学)(1966年)。大阪... |
|
|
マックス・プランク
マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク(MaxKarlErnstLudwigPlanck,1858年4月23日-1947年10月4日)はドイツの物理学者で量子論の創始者の一... |
|
|
マリ・キュリー
現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者。フランス語名はマリ(マリー)・キュリー(MarieCurie)。ワルシャワ生まれ。キュリー夫人... |
|
|
ルートヴィッヒ・ボルツマン
ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン(LudwigEduardBoltzmann,1844年2月20日-1906年9月5日)はオーストリア・ウィーン出身の物理学者、哲学者でウィー... |
|
|
ニールス・ボーア
デンマークの理論物理学者。量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。 |
|
|
エンリコ・フェルミ
イタリア、ローマ出身の物理学者。統計力学、核物理学および量子力学の分野で顕著な業績を残しており、放射性元素の発見で1938年のノーベル賞を受賞している... |
|
|
キュリー夫人
1. 事業・行事名称 キュリー夫人科学伝記読書感想文コンクール 2. 申請種別 ○�@化学に対する社会の理解増進
●�A若い世代の化学への興味の喚起
○�B創造的... |
|
|
アーネスト・ラザフォード
アーネスト・ラザフォード(ErnestRutherford,1stBaronRutherfordofNelson(初代ネルソンのラザフォード男爵)、1871年8月30日–1937年10月19日)はニュージー... |
|
|
ピエール・キュリー
フランスの物理学者。結晶学、圧電効果、放射能といった分野の先駆的研究で知られている。1903年、妻マリ・キュリー(旧名マリア・スクウォドフスカ)やアン... |
|
|
ロザリンド・フランクリン
ロザリンド・エルシー・フランクリン(RosalindElsieFranklin,1920年7月25日-1958年4月16日)はイギリスの物理化学者、結晶学者である。石炭やグラファイト、D... |
|
|
エミリー・デュ・シャトレ
デュ・シャトレ公爵夫人ガブリエル・エミリー・ル・トノリエ・ド・ブルトゥイユ(仏:GabrielleÉmilieLeTonnelierdeBreteuil,marquiseduChâtelet、1706年12月... |
|
|
湯川秀樹
日本の理論物理学者である。京都府京都市出身。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的... |
|
|
朝永振一郎
日本の物理学者。くりこみ理論の手法を発明して量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。 |
|
|
ロバート・オッペンハイマー
ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。理論物理学の広範な領域にわたって国際的な業績をあげたが、第二次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマ... |
|
|
エドウィン・ハッブル
エドウィン・パウエル・ハッブル(EdwinPowellHubble,1889年11月20日-1953年9月28日)はアメリカ合衆国の天文学者。我々の銀河系の外にも銀河が存在すること... |
|
|
池内了
日本の男性天文学者、宇宙物理学者。総合研究大学院大学教授・学長補佐・学融合推進センター長。名古屋大学名誉教授。理学博士(京都大学)(1975年)。兵庫... |
|
|
ドロシー・ホジキン
ドロシー・ホジキン(DorothyCrowfootHodgkinOM、1910年5月12日–1994年7月29日、結婚前の名前はDorothyMaryCrowfoot)はイギリスの化学者である。X線回折法に... |
|
|
アイザック・ニュートン
サー・アイザック・ニュートン(,ユリウス暦:1642年12月25日-1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日-1727年3月31日)はイングランドの自然哲学者、数学... |
|
|
ポール・ディラック
ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック(PaulAdrienMauriceDirac,1902年8月8日・ブリストル-1984年10月20日)はイギリスの理論物理学者。量子力学及び... |
|
|
プロフィール
- リーゼ・マイトナーとは
- 生い立ち
- ウィーン大学時代
- 木工作業所での研究
- カイザー・ヴィルヘルム研究所
- ドイツからの逃亡
- ストックホルムでの生活
- 第二次大戦後
- プロトアクチニウムの発見
- β崩壊の研究
- マイトナーとノーベル賞
リーゼ・マイトナー(LiseMeitner、1878年11月7日-1968年10月27日)はオーストリアの物理学者である。放射線、核物理学の研究を行った。
生い立ち
| ウィーンのユダヤ系の家庭に、父フィリップ、母ヘートヴィヒの三女として生まれた。 |
| フィリップは弁護士であった。 |
| 生活は貧しくはなかったが、マイトナー家は男児3人、女児5人という大家族であったため、裕福でもなかった。 |
| 一家はコンサートに出かけたり、演奏を行ったりと、音楽に親しむ生活をおくっていたケルナー(1990)p.21。 |
| またフィリップは政治にも深くかかわっており、政治家や作家などをしばしば自宅に招き、集会場のように使用していたサイム(2004)p.6。 |
| こうした豊かな知的環境で育ったリーゼは、自然科学に興味を持つようになった。 |
| しかし当時は女性の学問への道は閉ざされていた。 |
| リーゼは小学校卒業後に高等小学校に入学しケルナー(1990)p.16(女性は高等教育を受けることができなかったため、ギムナジウムには入れなかった)、1892年に卒業した。 |
| 高等小学校卒業後、リーゼはフランス語の教師の試験を受けることにした。 |
| 大学教育の不要な専門職だったからであるサイム(2004)p.7。 |
| そして教師として収入を得たリーゼであったが、学問への思いはまだ強かった。 |
| ちょうどその頃、オーストリアでは女性の大学入学を求める動きが高まっていた。 |
| そして1897年、文学・科学分野に限って、資格試験(マトゥーラ)に合格すれば女性の大学入学が認めらるようになった。 |
| そこでリーゼは、大学入学資格試験を受けて大学へ入る道をとることにした。 |
| リーゼの両親は、女性が学問を行ったり職を得たりすることに抵抗をもたない人物であったため、リーゼのこの決断を支持したケルナー(1990)p.18。 |
| ただし、この計画が失敗しても職が得られるよう、1899年まではフランス語の教師を続けた。 |
| そしてその後、2年間で集中して試験勉強を行い(ギムナジウムに入っていないリーゼは、この2年間で8年間分の学習を行うことになる)、1901年に試験に合格した。 |
ウィーン大学時代
| 23歳でようやく大学生になることができたマイトナーは、初年度から多くの講義を選択し、勉強に明け暮れる日々を過ごした。 |
| おもに数学と物理の講義に出席していたが、マイトナーの興味は次第に物理学へと傾いていった。 |
| 当時のウィーン大学の物理学研究所は、施設は粗末なものだったが、研究・教育の質は高かったサイム(2004)p.12。 |
| とりわけマイトナーを魅了したのは、ルートヴィッヒ・ボルツマンの講義であった。 |
| 1902年にウィーン大学に赴任したボルツマンの講義は学生に非常に人気があり、マイトナーも欠かさず出席した。 |
| マイトナーは後年になってからのインタビューなどにおいても、たびたびこの時のボルツマンの熱意にあふれる講義を話題にし、賞賛しているケルナー(1990)p.34。 |
| 1906年、マイトナーは博士号の試験に合格。 |
| ウィーン大学で4人目の女性博士となった(物理では2人目)ケルナー(1990)p.36。 |
| こうして博士となったマイトナーは、放射能の分野で活躍していたステファン・マイヤーと共に、α線とβ線の金属への吸収に関する論文などを発表した。 |
| しかし自らの先行きには不安を感じていた。 |
| 敬愛していたボルツマンは1906年に死去していた。 |
| また、放射能の分野ですでに業績を上げていたマリ・キュリーに助手として自分を雇ってくれるよう願ったが、空席がないと断られた。 |
| かといってウィーンに残っても、研究者としての仕事は見つかりそうになかった。 |
| そこでマイトナーは、ベルリンへ行くことを決意した。 |
| ベルリンは当時のヨーロッパの科学における中心的な場所であったことや、ベルリン大学のマックス・プランクの名を知っており、1度だけだが会ったことがあることなどが、ベルリンを選んだ理由だったサイム(2004)p23。 |
| こうしてマイトナーは、1907年秋、「ほんの何学期かの間ベルリンで学ぶためケルナー(1990)p.18」ウィーンを離れた。 |
木工作業所での研究
| ベルリンへとやってきたマイトナーであったが、当時のドイツは女性の学問進出に関して、他のヨーロッパ諸国と比較しても遅れていた。 |
| プランクも、特別な能力と意欲をあわせ持った滅多にない例外的な人をのぞいて、女性に大学教育を行うべきではない、と考えていたサイム(2004)pp.25-26 1897年にとったアンケートより。 |
| マイトナーはそのことを知らなかったが、プランクに対面した時の態度から、彼は女子学生を高く評価していないと感じた。 |
| しかし、プランクはマイトナーの聴講を認め、さらには自宅にも招くようになった。 |
| 一方マイトナーはプランクの講義を聴いて、ボルツマンと比較して無味乾燥だと少々失望したが、交流を深めるにつれて、彼の人間性に親しみを覚えるようになっていったケルナー(1990)pp.44-45。 |
| プランクの講義を受けながら、マイトナーは自分が研究する場所を探していた。 |
| 実験物理学研究所所長のハインリヒ・ルーベンスに相談したところ、今席があいているのは自分の個室だけなので、そこで共同で仕事をするならば良いと回答された。 |
| マイトナーは、ルーベンス相手だと気軽に質問などができないと思ったので、その提案を受け入れるのをためらったマイトナー(1965)p.101が、その後ルーベンスは、オットー・ハーンという化学者があなたとの共同研究を求めていると告げたケルナー(1990)p.46。 |
| そして1907年9月28日、マイトナーは初めてハーンと出会ったアルミン・ヘルマン、山下訳「リーゼ・マイトナー」、シュルツ編(2004)p.240。 |
| ハーンはマイトナーと同年代で(マイトナーが4か月年上)、気さくな性格であったため、マイトナーは、この人になら何でも恥ずかしがらず話すことができると感じたマイトナー(1965)p.101。 |
| しかし、ハーンの上司であるエミール・フィッシャーは、女性が研究所に入ることを許さなかった。 |
| そのためフィッシャーは、マイトナーは地下の木工作業所のみで実験を行い、研究所内には姿を見せないという条件で、二人の共同研究を認めたケルナー(1990)pp.47-48など。 |
| フィッシャーは、女性を研究所に入れたくなかったのは、以前研究所にいた女子学生の悪い印象があったためだと、のちにマイトナーに語っている。 |
| マイトナーはこの木工作業所で1912年まで、ハーンと共に研究を行った。 |
| マイトナーの物理的知識とハーンの化学的知識とが補完しあって放射線の研究に成果をあげた。 |
| 2人の研究が成果を上げるようになると、フィッシャーもマイトナーが研究所内に入るのを認め、2人の研究に援助を行うようになったケルナー(1990)p.54。 |
| 研究所では多くの同僚と交流を深めた。 |
| また研究所外でも、1909年にエリザベート・シーマンと出合い、生涯にわたる友人となった。 |
カイザー・ヴィルヘルム研究所
| 1912年、ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム研究所が開設され、マイトナーはそこで働くことになった。 |
| 当初はハーンの客員研究員という、無給の役職であったが、同年にプランクが自分の助手としてマイトナーを任命したため、少ないながらも収入を得られるようになったサイム(2004)p.47。 |
| 1913年からは正式に研究員となったケルナー(1990)pp.65-67。 |
| 1914年、第一次世界大戦が起こり、ハーンは予備軍として召集されたサイム(2004)p.56。 |
| マイトナーは手紙でハーンと連絡を取りながらベルリンで研究を続けていたが、1915年、自らもオーストリア軍のX線技師および看護婦として志願することにした。 |
| ポーランドの戦地で負傷者の治療にあたったマイトナーは戦場の悲惨さを知ったサイム(2004)p.63、ケルナー(1990)p.72など。 |
| マイトナーの戦地での活動は、エリザベート・シーマンにあてた手紙で語られている。 |
| そこには「現実がこんなにひどいとは想像もつきませんでした」「この恐ろしい有様を見ると、だれでも戦争というものについて考えてみないではいられないと思います」などと記されている。 |
| 戦地での活動は1年以上続けたが、やがてマイトナーは、ここでは自分が必要とされていないのではないか、「私に与えられた義務は、カイザー・ヴィルヘルム研究所に戻ることサイム(2004)p.66」ではないかと感じるようになった。 |
| 1916年10月、マイトナーは研究所へと戻った。 |
| 研究所ではフリッツ・ハーバーを中心として、毒ガスなど、軍事用の研究が中心となっていたが、その中でマイトナーは以前からの放射性物質の研究を続け、1918年、新元素プロトアクチニウムを発見した。 |
| マイトナーの業績は認められ、1918年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を任されたケルナー(1990)p.84。 |
| これによりマイトナーはようやく研究者として十分な給与を得ることができるようになった。 |
| 第一次大戦後の1920年、ハーンとの共同研究は終了し、マイトナーは独立で研究を行うようになった。 |
| 同じ年、プロイセンでは女性の大学教授資格が認められ、マイトナーは1922年にベルリン大学の教授となった。 |
| すでに何本もの論文を発表しているため、通常必要とされる論文審査は免除された。 |
| 当時女性の物理学者は非常に珍しかったため、「コスミッシュ(宇宙の)」とすべきところを「コスメティッシュ(化粧の)」と記載してしまった記事もあったケルナー(1990)p.94。 |
| 共同研究は行わないものの、ハーンとは同じ実験室を使用し、研究室同士での交流は続いていた。 |
| さらに1927年には、甥のオットー・ロベルト・フリッシュがベルリンに滞在し、2人でピアノを弾いたりコンサートに出かけたりしたケルナー(1990)pp.112-113。 |
ドイツからの逃亡
| 1933年、アドルフ・ヒトラーが政権をとると、研究所は大きな影響を受けた。 |
| ユダヤ人であった所長のフリッツ・ハーバーは辞職し、マイトナーも9月に教授職を解かれたケルナー(1990)p.120。 |
| プランクらからドイツに残るようすすめられたし、自身も、これまでドイツで築きあえた実績を捨てて、55歳にしてまた一から新たな生活を始めることには躊躇していたケルナー(1990)pp.119-122。 |
| 1934年、マイトナーは、ウランに中性子をぶつけることでウランより原子量の大きい原子(超ウラン原子)を生み出せるという、エンリコ・フェルミの論文を読み、非常に興味を持った。 |
| 数週間後、ハーンは了解し、マイトナー、ハーン、そして研究所の助手であったフリッツ・シュトラスマンの3人による共同研究が始まった。 |
| ナチス党員のクルト・ヘスは、「ユダヤ人の女が研究所を危うくする」とマイトナーを糾弾したケルナー(1990)p.128。 |
| マイトナーは深く悲しみ、ハーンに対し「私を見殺しにした」「私にはどこにも行くところがない」と語ったケルナー(1990)p.129サイム(2004)p.194。 |
| その中でマイトナーは、ボーアや甥のオットー・フィリッシュのいるデンマークの研究所に魅力を感じたサイム(2004)p.199。 |
| 新しいパスポートはカイザーヴィルヘルム研究所の出資者であるカール・ボッシュらの助けを借りて申請を行ったが、発行手続きは遅れ、最終的に、著名なユダヤ人の渡航は認められないと発行を拒否された。 |
| ハーンからは、緊急の時に必要なものに変えればよいと、母の形見の指輪を贈られたサイム(2004)p.215。 |
ストックホルムでの生活
| 1938年、マイトナーはハーンから「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるバリウムの存在が確認された。 |
| これは今までの理論では起こり得ない結果であったため、一緒にこの手紙を読んだ甥のフリッシュは、実験のミスではないかと言ったが、マイトナーは、ハーンがこのような間違いを犯すとは考えにくいと答えたフリッシュ(2003)pp.143-144。 |
| 研究所はサイクロトロンなどの大型設備が整っていたが、マイトナーに十分な実験装置や人員が与えられることはなかったサイム(2004)p.232。 |
第二次大戦後
| 1946年のウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、トルーマン大統領とも面会したサイム(2004)p.360ケルナー(1990)pp.180-181。 |
| 戦後のドイツの惨状と、ドイツへの支援の要請のみを訴えるハーンに対して、マイトナーは、ヒトラーによる政治にドイツの科学者が十分に抵抗しなかったこと、そしてそのことを戦後も反省していないことを指摘したケルナー(1990)pp.194-195。 |
| マックス・プランク研究所(以前のカイザー・ヴィルヘルム研究所)に戻るよう誘いを受けたときは、シュトラスマンからの誘いであったため受けるかどうか迷ったが、最終的に断ったケルナー(1990)pp.191-192。 |
プロトアクチニウムの発見
| マイトナーとハーンは、ウラン鉱のピッチブレンドを硝酸で溶かして得た二酸化ケイ素(SiO2)の沈殿物の中に、タンタルに似た物質が含まれていることを発見した。 |
β崩壊の研究
| しかし実験を続けるうちに、トリウム(Th)などから発生するβ線のスペクトルは複数あることが分かるようになり、1911年、2人はこの説をいったん撤回したサイム(2004)p.44。 |
マイトナーとノーベル賞
| さらには、ハーン自身も後年、もしマイトナーがその場にいたら、この実験には反対していただろうと述べておりホフマン(2006)p.231、自分たちの発見に関すして述べる時にもマイトナーの貢献についてほとんど触れなかったサイム(2004)pp.295-296,351など。 |
| マイトナーはシーグバーンの研究所では孤立していたこと、そして、マイトナーをノーベル賞に推薦したオスカー・クラインはマイトナーを自分の研究所に招きたいと考えていたこともあって、シーグバーンは、マイトナーにノーベル賞を与えることによって、スウェーデンの原子核分野の予算を獲られるのではないかと考えたとも推定されているクロウフォード、サイム、ウォーカー(1998)p.28。 |
|
1892年
|
卒業した |
|
1897年
|
文学・科学分野に限って、資格試験(マトゥー... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
リーゼ・マイトナーさんについてのひとこと紹介
|
|
|
|