| ウェインが13歳のときに妹の一人が精神病を患い療養所へと送られている。 |
| ウェインは学校を抜け出しロンドンを歩き回ることが多かった。 |
| 後にウエスト・ロンドン美術学校を卒業し、短期間であるが教師として働いている。 |
| 20歳の時に父が死去し、彼が母と妹の生活費を稼がなくてはならなくなった。 |
| ルイスは給与の安い教師の職を辞め、フリーの画家となることにした。 |
| イラストレイテッド・スポーティング&ドラマティック・ニュースやイラストレイテッド・ロンドン・ニュースをはじめとする雑誌の挿絵として動物画や風景画を描き賃金を受け取った。 |
| 1880年代を通してウェインは英国の家屋、敷地の詳細な絵や家畜の絵などを描いている。 |
| ある時点においては犬の肖像画を描いて生活していこうとも考えていた。 |
| 23歳になったウェインは妹の家庭教師であったエミリー・リチャードソンと結婚した。 |
| 彼女はウェインよりも10歳年長だったが、これは当時のイギリスではやや問題視されることである。 |
| 二人は北ロンドンのハムステッドで生活を始めたが、エミリーはガンに冒され結婚の3年後に死去してしまった。 |
| 病に苦しむエミリーはピーターという飼い猫をかわいがっており、妻の余興にしようと考えたウェインはピーターに眼鏡を着けさせ読書をしているかのようなポーズをとらせたりしていた。 |
| 後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っている。 |
| この頃のウェインの作品の多くはピーターをモデルとしている。 |
| 1886年に擬人化された猫を描いた彼の作品がイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載された。 |
| 『猫達のクリスマス』と題されたこの作品には150もの猫が描かれており、お辞儀をする猫、ゲームをする猫、他の猫の前で演説をする猫の姿を描写している。 |
| 猫は皆4つ足で服も着ておらず、後の時代のウェインの作品を特徴づける人間らしさは見られない。 |
| さらに時間が経過すると、ウェインの描く猫たちは後ろ足で立って歩き、大口を開けて笑い、豊かな表情を有して当時の流行の服装を着こなすようになった。 |
| 楽器を演奏する猫、紅茶を飲む猫、トランプを楽しむ猫の他、釣り、喫煙、オペラ鑑賞と人間のすることはみな行っている。 |
| このような動物の擬人化はヴィクトリア朝における流行であり、当時のグリーティング・カードや戯画にしばしば用いられた。 |
| ウェインやジョン・テニエルの作品はその代表例である。 |
| ウェインは多作な画家として知られており、以後30年間で残した作品は数百にも上ると見られる。 |
| 彼は100あまりの児童書の挿絵を執筆し、新聞、専門誌、雑誌と様々な場所で作品が掲載された。 |
| 1901年から1915年には"ルイス・ウェイン年鑑"なる書籍が発売されている。 |
| 作品においては時代の流行に追いすがろうとする人間社会に対する風刺や皮肉もちりばめられている。 |
| ウェインは「レストランなどにスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間臭さを残したまま描く。 |
| こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ」と述べている。 |
| ウェインは動物に関係したチャリティー活動へも参加している。 |
| 口のきけない我が友連盟評議会(GoverningCouncilofOurDumbFriendsLeague)、猫保護協会(SocietyfortheProtectionofCats)、反生体解剖協会(Anti-VivisectionSociety)などである。 |
| 全国猫クラブ(NationalCatClub)においては議長として活躍していた。 |
| 猫への軽蔑観を取り除く手助けができると感じていた。 |
| 作品の人気の高さにも関わらず、ウェインは常に金銭に困っていた。 |
| 母と妹たちの生活費を稼ぎ出さなくてはならず熱心に働いたが、経済的な感覚に乏しいことが仇となった。 |
| 気性は穏やかでだまされやすく、作品を安く買いたたかれ、権利関係は取引相手に任せっきりで割の悪い契約を押し付けられることもあった。 |
| 1907年のニューヨークへの旅行においては作品は高い評価を受けたものの、後先を見ない買物の為に懐具合は旅行前よりさらに悪化してしまった。 |