| 1902年メキシコ第二の都市ハリスコ州グアダラハラの地主階級の家に生まれる。 |
| 父ファン・ホセ・バラガンが購入した同州のマサミトゥラの大農園で少年時代を過ごす。 |
| 1919年グアダラハラの自由工科大学土木工学科に入学し、水力工学を専攻。 |
| 1923年に卒業した。 |
| 技術者を目指していたが、在学中にほぼ完全な独学で建築を学んだ。 |
| 父の援助により1925年から1927年にかけて、スペイン、フランス、モロッコと広範囲にわたる旅に出た。 |
| フランスではパリ万国博覧会で作家・造園家のフェルディナン・バックと知り合い、彼の造った庭「レ・コロンビエール」及びその著書に触れ、ランドスケープ・アーキテクチャーの重要性を学び強い影響を受けた。 |
| スペインではアルハンブラ宮殿、ヘネラリフェ宮殿、イタリアではヴィラの庭を訪れ、地中海文化から強い影響を受けた。 |
| 1931年に再度ヨーロッパへ出かけ、フランスで建築家ル・コルビュジエの講座に出てモダニズム建築を学び、サヴォア邸等のル・コルビュジエ設計の住宅を訪ねた。 |
| ドイツではワイゼンホフ・ジードルンクを訪ねた。 |
| それらもまた彼に強い影響を与えた。 |
| 1927年から1936年に掛けて、彼はグアダラハラで実家の農園の管理を行いながら、一家の長男ファン・ホセの下でコルビュジエとバックの影響を受けた住宅等を多数設計した。 |
| 1935年に活動の場を首都メキシコシティへ移した。 |
| 1936年、農地改革によってグアダラハラに所有していた土地を失う。 |
| 彼はメキシコシティに自宅を建設し(オルテガ邸CasaOrtega、最初の自邸、1943年、および死ぬまで住んだ家であるバラガン邸CasaLuisBarragan、1947年-1948年)、庭園設計などさまざまな建築的実験を試みた。 |
| 1945年、彼はメキシコシティの南部郊外の溶岩台地、エル・ペドレガル・デ・サン・アンヘル(PedregaldeSanÁngel)において郊外住宅地の都市計画に取り組んだ。 |
| この土地は約2500年前に起きた火山爆発によってできた溶岩に覆われた土地で、当時は買い手もつかない荒れ果てた土地であった。 |
| バラガンはこの荒れ地に注目し、投資家と共同で購入し、分譲住宅地として販売した。 |
| これが当たり、以後、彼は住宅開発の計画家として数々のプロジェクトを手がけ、大きな成功を収めることとなった。 |
| 1952年、同じくメキシコシティ南部のトゥラルパン(Tlalpan)にある歴史的建築、カプチーナス修道院礼拝堂(ConventodelasCapuchinasSacramentarias)の再建・改修工事を請け負う。 |
| 以後7年にわたり彼が私財と心血を注いだトゥラルパンの礼拝堂(1953-60)は、暖色に塗られた簡素な造形の礼拝堂内に光があふれる彼の代表作のひとつとなった。 |
| 1957年、彼はメキシコシティ北部郊外の都市、ナウカルパン(Naucalpan)に同年建設された中級・高級住宅地、シウダード・サテリテ(CiudadSatélite、「衛星都市」)の高速道路の中央分離帯にランドマークとなる塔、サテライト・タワーを設計した。 |
| これは画家のヘスス・レイエス・フェレイラ(JesúsReyesFerreira)と彫刻家マティアス・ゲーリッツ(MathiasGoeritz)との共同作業でできたもので、さまざまな高さとさまざまな色(赤、青、白、黄)の、断面が三角形の四角い塔であり、見る角度によってさまざまな表情をみせるものである。 |
| 同じく1957年、彼は住宅地ラス・アルボレダス(LasArboledas)をシウダード・サテリテの数キロ先に設計し、噴水なども作った。 |
| 1964年、同じくシウダード・サテリテの近くにロマス・ヴェルデス(LomasVerdes、緑の丘)という中級住宅地を設計している。 |
| 1975年、彼は最後の作品となる住宅、ヒラルディ邸(CasaGilardi(1975-77))を設計する。 |
| 屋内にプールを設け、光が室内のさまざまな色の壁や水面へ降り注ぐ空間は、彼の集大成とも呼べるものである。 |
| 1976年にはニューヨーク近代美術館で回顧展が企画された。 |
| 建築家エミリオ・アンバースの著した同展のカタログ『THEARCHITECTUREOFLUISBARRAGAN』によって、バラガンは晩年になり世界的な注目を浴びることになる。 |
| 1980年にはプリツカー賞受賞。 |
| 1982年、パーキンソン病の悪化のため引退。 |
| 1988年に彼は自宅で逝去した。 |
| 彼の自宅・アトリエであったバラガン邸は、2004年にユネスコの世界遺産に登録された。 |