| ブニュエルはデビュー作『アンダルシアの犬』の印象が強いためにシュールリアリズムの映画監督として扱われることが多く金井美恵子・金谷重朗・野谷文昭「ブニュエルに祝福のキスを」ユリイカ、2000年9月号所収、p.148「シュルレアリスム方面、異端の映画作家というイメージで受容されていたんじゃないでしょうか。 |
| 」 p.149「ブニュエル=シュルレアリストという漠然としたイメージはありました。 |
| 」蓮實重彦『シネマの記憶装置』フィルムアート社(1979)、p.134 「ブニュエルもラングも、映画史家たちによって、いかにもしっくりこない神話的仮面を被せられて映画史の前傾に引き出されている。 |
| 「シュールリアリスト」ブニュエル(後略)」、彼を一貫したシュールリアリストとして捕らえる研究者もいるが東琢磨「「メキシコ/大衆」というパトロン」、ユリイカ、2000年9月号所収、p.199、「ブニュエルは、最後までシュルレアリストであり続けた人だが」アド・キルー『映画のシュルレアリスム』フィルムアート社(1997)の第8章全体がルイスブニュエルの映画キャリア全体をシュルレアリスムとして論じている。 |
| 実際には多種多様な映画を撮っている。 |
| ブルトンらのシュールリアリズム運動の中に熱狂的に迎え入れられた『アンダルシアの犬』矢島翠訳『ブニュエル 映画、わが自由の幻想』早川書房(1984年)、pp.177-193と、シュールリアリスト達の後押しで運動のパトロンであったノワイエ公爵が出資した『黄金時代』矢島翠訳『ブニュエル 映画、わが自由の幻想』早川書房(1984年)、pp.193-199の2作は間違いなくシュールリアリズム映画として今も言及される作品であるが、ブニュエルの全32作品からすればそれは一部でしかない。 |
| もっとも、『昼顔』のラストシーンのように、リアリズムでは説明のつかない不思議なシーンがブニュエル映画には顔を出し、それが「シュールリアリズム的」と評される元ともなっている。 |
| 『忘れられた人々』では「ビルの工事現場で演奏するオーケストラ」がちらりと見えるシーンを撮影しようとしたり(実際にはプロデューサーが止めさせたが矢島翠訳『ブニュエル 映画、わが自由の幻想』早川書房(1984年)、pp.334-335)、『欲望のあいまいな対象』ではスーツを着た主人公に意味もなくズタ袋を担がせたシーンを挿入するなど、合理的な意味解釈を拒否したり、混乱させることをブニュエルは好んでいる。 |
| 合理的解釈の拒否という点での極北はメキシコ時代の傑作と言われている『皆殺しの天使』だろう蓮實重彦『シネマの記憶装置』フィルムアート社(1979)、p.135 「ブニュエルの名を映画史が記憶すべきは、彼のメキシコ時代の最後の長編『皆殺しの天使』(六二年(中略))によってでなければならぬ(後略)」。 |
| 上流階級の人々が晩餐会を催すのだが、不思議なことに誰も帰ろうとしない。 |
| 皆で夜を明かすのだが、誰一人としてどうしても部屋から出られないのである。 |
| そして時間だけが過ぎていくというのが物語のプロットであるが、「何故彼らは部屋から出られないのか」という疑問に一切回答は与えられないままに映画は進行する。 |
| また、「部屋から出られない」ことに何かの暗喩が込められているのではないかという詮索にも、一切の手がかりを与えない。 |
| やはりメキシコ時代の『昇天峠』では、主人公が峠を越すバスに乗ったものの次から次へと取ってつけたような邪魔が入って、なかなか峠を越すことができない。 |
| 「越すことができない峠」に何らかの比喩なり暗喩を嗅ぎ取ることも可能かもしれないが、バスへの運行妨害がひたすら続いていくそのプロセス自体を楽しむ娯楽映画と考えるのが健全に思えてくるのがこの映画の魅力である。 |
| 晩年の『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』にしても「なぜか食事にありつけない人たち」のエピソードが延々と続くだけなのだが、そのエピソード自体を愉しむように仕向けられる蓮實重彦『シネマの記憶装置』フィルムアート社(1979)、pp.135-139 「ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(七二年)は、途方もなく面白い。 |
| (中略)ブニュエルはここで、メキシコ定着以後の娯楽大作の映画作りの方法を十二分に活用している。 |
| 『燃えよ、ドラゴン』にも劣らぬ荒唐無稽な御都合主義からなるこの映画を、人は、いそいそと胸を躍らせて見に行かねばならない。 |
| だが、これらとは対照的にカトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』では濃密でエロチックな描写を見せ、『小間使の日記』『哀しみのトリスターナ』『ビリディアナ』、あるいはメキシコ時代の『嵐が丘』などの文芸映画では正当すぎる程の演出力を見せ付けてくれもする。 |
| 『ロビンソン漂流記』、『河と死』、『それを暁と呼ぶ』は冒険映画としての面白さに満ち、『忘れられた人々』は社会主義リアリズムの傑作として評価されたオラシオ・ゴメス=ダンティス「冒涜の秘かな愉しみ。 |
| ブニュエルとの二分間」ユリイカ、2000年9月号所収、p.130 「メキシコ映画史家エミリオ・ガルシア・リエラに言わせると、『忘れられた人々』はスペイン語で作られた映画の中で最初の傑作、ということになる。 |
| さらに書けば、『グラン・カジノ』は娯楽ミュージカル映画で、メキシコでヒットを飛ばした『のんき大将』はコメディ映画、『糧なき土地』はドキュメンタリーである。 |
| また、ブニュエルの作品にはフェティシズムが色濃いことは多くの批評家から指摘されてきた四方田犬彦「ブニュエルとトレド」ユリイカ、2000年9月号所収、p.91「ブニュエルが作品の中で女性の足に対して特別なフェティシズムを示してきたことは、つとに知られている。 |
| 」金井美恵子・金谷重朗・野谷文昭「ブニュエルに祝福のキスを」ユリイカ、2000年9月号所収、p.159、「脚ということでは、ブニュエルについて考える時に必ず出てくるのがフェティシズムで」エンリケ・ボカネグラ「ルイス・ブニュエルの映画におけるバロック」ユリイカ、2000年9月号所収、p.194 「現実の緻密な、しかしその最も病的で破廉恥な側面に集中しがちな描写。 |
| ブニュエルの世界はかくも幅が広く、ハリウッドの映画人にも人気があった金井美恵子・金谷重朗・野谷文昭「ブニュエルに祝福のキスを」、ユリイカ、2000年9月号所収、p.172 「ハリウッドの人がもてはやしていた」。 |
| 1972年に久々にハリウッドを訪ねたブニュエルはジョン・フォード、アルフレッド・ヒッチコック、ウィリアム・ワイラー、ビリー・ワイルダー、ロバート・ワイズ、フリッツ・ラングらそうそうたる人々から歓待を受けている。 |
| このとき、ヒッチコックは『哀しみのトリスターナ』で切断されたドヌーヴの脚について語り続けたという1972年のハリウッドでの歓待の話は、矢島翠訳『ブニュエル 映画、わが自由の幻想』早川書房(1984年)、pp.327-329。 |
| 『ジョニーは戦場へ行った』も元々はブニュエルが監督する映画として企画されたものである矢島翠訳『ブニュエル 映画、わが自由の幻想』早川書房(1984年)、pp.324-325し、ハリウッド系ではないが、ウディ・アレンは『アニー・ホール』のために「ルイス・ブニュエル」自身の役でブニュエルに出演を依頼したこともある矢島翠訳『ブニュエル 映画、わが自由の幻想』早川書房(1984年)、p.325。 |