| フリーダの持参金でリーキー夫妻はケンブリッジ近くに煉瓦造りの大きな家を買った。 |
| 彼女は毎日吐き気に苦しんで、リーキーの二冊目の本『アダムの祖先』のイラストを画けなかった。 |
| 王立人類学研究所の講演の後に彼のために開かれた晩餐会で、リーキーは友人から20歳の若い絵描きメアリー・ニコルを紹介された。 |
| リーキーはメアリーに本のイラストを描いてくれるよう頼んだ。 |
| それから数ヶ月すると、二人の関係はロマンスに発展していた。 |
| 1933年12月に息子のコリンが生まれるとすぐ、リーキーはフリーダに離婚を申し入れた。 |
| ケンブリッジの調査委員が彼の振る舞いを調べ終わるまでフリーダは離婚を承諾しなかった。 |
| このスキャンダルでリーキーへの補助金は取り下げられたが、彼の母親は新たな発掘のために十分な資金を集めた。 |
| 1935年にカナムとカンジェラに再び渡った。 |
| リーキーはメアリーと小さな探索チームとともにオルドヴァイまで進んだ。 |
| メアリーは当初批判的な目で見られていたが、技術と能力によって次第に他の参加者に認められていった。 |
| リーキーの両親はフリーダの元へ戻るようにリーキーに言い、メアリーにだけは資金を渡さなかった。 |
| 彼らはオルドヴァイ周辺で多くの採掘場所を発見し将来の発掘の基礎を作った。 |
| リーキー夫妻はマサイ族のために仮設クリニックを設置し、ラエトリの予備調査を行いKiseseとCheke地域の岩絵を観察して調査を終えた。 |
| イングランドに戻ると電気も暖房もない家で暮らし始めた。 |
| メアリーの親戚しか尋ねてこず、リーキーは井戸から水を汲み、庭に野菜を植えてしのいだ。 |
| それからロンドン王立協会へ訴えて、収集物を研究するためのわずかな補助金を受け取った。 |
| 最終的にフリーダは離婚に同意し、彼とメアリーは1936年のクリスマスに結婚した。 |
| この頃は本から収入を得、またキクユ族の中で出会っていた女子割礼に対して明確に反対する態度を打ち出した。 |
| その話題を講演で話したジョモ・ケニヤッタと口論になったこともあった。 |
| 1937年1月に再びケニヤに渡り、ナイロビ近くのキアンバに拠点を置いた。 |
| メアリーは発掘中に肺炎にかかり、瀕死になってナイロビの病院へかつぎ込まれ、母親が呼ばれた。 |
| しかし予想に反してメアリーは回復し、ンゴロ川洞窟などで発掘を再開した。 |
| リーキーは以前より多くの補助金を得られるようになり、彼の発見は再び新聞に載るようになった。 |
| キクユ族と移民との間の緊張が高まると、リーキーは仲介者として飛び回った。 |
| 彼はケニヤが「白人の国だったことはない」と発言して移民の怒りを買った。 |
| 1939年9月にイギリスが対独戦に参戦するとケニヤ政府はリーキーを情報部員として徴兵した。 |
| リーキーの最初の任務はイタリア軍の侵攻に抵抗するエチオピアのゲリラを支援することであった。 |
| メアリーはリーキーが無給の名誉館長であったコリンドン記念博物館(現ケニヤ国立博物館)で働いた。 |
| 1942年までにイタリアの脅威は一掃されたが、日本軍が偵察のために現れ始めた。 |
| 1945年には警察業務での収入がほとんど無くなっていたが、今やリーキーには多くの研究職が提供されようとしていた。 |
| ここでメアリーは完全なプロコンスル化石を発見した。 |