| 1918年10月16日、フランス領アルジェリア、ビルマンドレで生まれる。 |
| 1936年-1939年父の転勤に伴い、フランス、リヨンに転居。 |
| 王党派カトリックの影響を受ける。 |
| 1939年高等師範学校に合格。 |
| まもなく捕虜になり、以降5年間の虜囚生活を送る。 |
| 1945年5月、終戦により解放、モロッコ、カサブランカで家族に再会。 |
| 1946年1月、エレーヌ・ルゴシアン、別名リトマン(HélèneLegotien,''alias''Rytman)との出会い。 |
| 1946年復活祭の時期、ローマ法王ピウス12世と会見。 |
| 1946年10月、高等師範学校に復学。 |
| 1947年学位論文(DES)として、ヘーゲル論を提出。 |
| 1948年「教会の青年」グループと接触(Cf.「事実問題」)。 |
| 1948年8月、アグレガシオンに2位で合格。 |
| 1948年9月、高等師範学校の復習教師(Agrégé-répétiteur)として採用。 |
| 1948年11月、フランス共産党に入党。 |
| 1959年『モンテスキュー政治と歴史』を上梓。 |
| 1964年パリ精神分析協会を脱退したジャック・ラカンを、高等師範学校に招請する。 |
| 1965年『マルクスのために』『資本論を読む』を上梓。 |
| 1968年2月、イタリア共産党の雑誌『ウニタ』に、「革命の武器としての哲学」掲載。 |
| 1968年2月、フランス哲学会で「レーニンと哲学」講演。 |
| 1968年5月、五月革命勃発。 |
| 「バリケードの夜」 |
| 1968年秋、アラン・バディウと決裂。 |
| 1968年9月、エレーヌ・リトマンと同棲開始。 |
| 1968年11月、ジャン・イッポリット(fr.)追悼講演。 |
| メルロー=ポンティについて「生前から死んでいた」と述べ、スキャンダルに。 |
| 1972年7月25日-8月1日雑誌『フランス・ヌーヴェル』 |
| 『ジョン・ルイスへの回答』(cf.JohnLewis(en.))上梓。 |
| 1973年10-12月睡眠療法のため数次に渡る医療機関滞在。 |
| 1975年アミアン大学に、「業績にもとづく博士号」を申請、口頭試問を受ける(cf.『マキャベリの孤独』)。 |
| 試問では満場一致で博士号授与該当とされたものの、その後の国の委員会による「審査」で、落されてしまう。 |
| 1976年2-3月エレーヌ・リトマンと正式に結婚。 |
| 1976年2月6日二人でスペインを旅行、グラナダ大学などで講演(cf.『哲学について』)。 |
| 1976年3月『ポジシォン』上梓。 |
| 1976年4月「プロレタリア独裁」概念の放棄に反対して発言。 |
| 1976年6月論文「フロイト博士の発見」の執筆。 |
| 1978年にレオン・チェルトク(LeonChertock)に送ることになる文章である(cf.「トビリシ事件」)。 |
| 1976年9月『国際的かつ国際主義的雑誌』の発刊を希望。 |
| 1976年秋~冬『事実』[最初の自伝草稿]を執筆。 |
| 1976年10月ドミニク・ルクール(fr.)『ルイセンコプロレタリア科学の現実的歴史』序文。 |
| 「ポスト革命社会における権力と反対者たち」に関するヴェネツィアでのシンポジウムで報告(「ついにマルクス主義の危機!」)。 |
| 1976年12月ソルボンヌ哲学科共産主義学生同盟に請われ講演。 |
| 1977年5月『第22回大会』を上梓。 |
| 内容は1976年12月の講演。 |
| マスペロ社(fr.)『からの「延安叢書」(CahierYenan)の発刊の機会にアラン・バディウと再び接触。 |
| 1977年6月パリ政治学院で「マキャヴェリの孤独」講演。 |
| 1980年3月、パリ・フロイト派解散の会議に現れる(cf.『フロイトとラカン』)。 |
| 1980年11月、エレーヌを絞殺。 |
| 精神鑑定後、心神喪失による免訴となる。 |
| 1984年再度鑑定ののち、行政拘束を解かれる。 |
| 1988年メキシコから来たフィルナンダ・ナバロ |
| 1990年10月22日、心不全により死去。 |
| 彼の遺稿は、IMEC(現代出版史資料館)に寄贈され、以降、その一部が日の目を見ることになる。 |