| 両親はともにアメリカ合衆国への移民であった。 |
| 2歳の時に家族と共にミズーリ州セントルイスへ移り住む。 |
| 1933年9月-16歳でミズーリ州セントルイスのハリー・クック・アリーナでジョン・アンダーソンとプロレスデビュー戦、引き分けた。 |
| 1936年-ミズーリ州セントルイスのジムにてエド"ストラングラー"ルイス(後年専属マネージャーへ)と出会う。 |
| 1937年12月29日-エベレット・マーシャルを破り、21歳でMWA世界ヘビー級王者となった(ミズーリ州セントルイス)。 |
| 1938年1月25日AWAの世界王者認定。 |
| 1939年2月23日-ミズーリ州セントルイス(あるいはコロラド州デンバー)でエベレット・マーシャルを破り、NWA世界ヘビー級王者(旧NWA)となった。 |
| 1939年6月23日または7月19日-テキサス州ヒューストンでブロンコ・ナグルスキーに敗れNWA王座から陥落。 |
| 1943年-アメリカ合衆国陸軍に入隊、体育教官となった。 |
| テキサス州ヒューストン駐屯地で約4年間過ごした。 |
| 1946年9月11日-カナダ・モントリオールでボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。 |
| 1947年2月20日-同地でボビー・マナゴフに敗れ王座陥落。 |
| 1947年4月16日-同地でボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。 |
| 1947年11月26日-同地でユーボン・ロバートに敗れ同王座から陥落。 |
| 1947年4月25日-セントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンを破り、NWA世界ヘビー級王座を獲得。 |
| 1947年11月21日-セントルイスでビル・ロンソンに敗れNWA世界ヘビー級王座から陥落。 |
| 1948年7月20日-ビル・ロンソンを破り旧NWA世界ヘビー級第23代王者(NWA通算で第38代王者)となった。 |
| 1949年11月-新NWAによる王座の正当化により、第38代王者(新NWA第2代王者)と認定された。 |
| 過去獲得したものも第23、26、36代(旧NWAでは8、11、21代)として認定された。 |
| 1955年5月22日-レオ・ノメリーニに反則で敗れ、テーズの連勝記録がとまる。 |
| 記録は引き分けをはさんで936連勝。 |
| なお、タイトルのほうは反則負けのため王座移動はなし。 |
| 1956年3月-ホイッパー・ビリー・ワトソンに敗れ第38代NWA王座から陥落。 |
| 1957年10月-日本プロレスに初訪日。 |
| 力道山とNWA世界ヘビー級選手権で2度にわたり名勝負を繰り広げた。 |
| 1957年11月14日-トロントでディック・ハットンに敗れNWA世界ヘビー級王者から陥落。 |
| 1958年6月-世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、NWA本部からインターナショナルヘビー級初代王者に認定された。 |
| 1958年8月27日-力道山に敗れてインターナショナルヘビー級王座から陥落した。 |
| 1966年2月28日-日本プロレスに特別参加で訪日し、ジャイアント馬場の持つインターナショナルヘビー級王座に挑戦。 |
| 結果は馬場が2度目の防衛に成功。 |
| テーズから2ピンフォール取っての防衛は馬場の大きな勲章となった。 |
| 1967年6月-初代TWWA世界ヘビー級王者に認定された。 |
| 1968年1月-国際プロレス(当時はTBSプロレス)に訪日し、グレート草津のTWWA世界王座の挑戦を受けるが、1本目で実力を見破り、バックドロップで草津を失神させる。 |
| 2本目は棄権、テーズが防衛に成功。 |
| 草津をスターに仕立てようとするTBSの目論みは失敗に終わった。 |
| 1973年10月-新日本プロレスに初登場、カール・ゴッチと組んでアントニオ猪木・坂口征二と「世界最強タッグ戦」を行う。 |
| なお、この年テーズ57歳、ゴッチ49歳であり、この年齢で「世界最強タッグ」の看板に説得力を持たせることが出来たあたり、当時のテーズの名声をうかがい知ることが出来る。 |
| 1975年10月-新日本プロレスに訪日し、アントニオ猪木の持つNWF世界ヘビー級王座に挑戦する。 |
| 1976年8月15日-前年に旗揚げされたUWAから、初代UWA世界ヘビー級王者に認定された。 |
| 1978年8月-エル・カネックに敗れUWA王座陥落。 |
| 1981年1月-国際プロレスで開催されたテーズ杯争奪戦に特別レフェリーとして来日。 |
| 1983年4月-全日本プロレスに訪日し、ルー・テーズ杯決勝戦(越中詩郎vs.三沢光晴)のレフェリーを務めた。 |
| 全日本にはこの時期数回来日し、ジャンボ鶴田にバックドロップを伝授している。 |
| 1985年9月19日-新日本プロレスに訪日し、IWGPヘビー級選手権試合:アントニオ猪木VS藤波辰巳戦(東京都体育館)の特別レフェリーを務めた。 |
| 1986年-右臀部を手術する。 |
| 以後レスラーとしてはセミリタイヤ状態となった。 |
| 1990年12月26日-日本での最後の試合。 |
| 蝶野正洋と対戦し敗れる。 |
| この「試合の出来に納得が出来ず」、その後現役を引退。 |
| 2002年3月9日-妻チャーリーとともに訪日。 |
| U.W.F.スネークピットジャパン代表の宮戸優光の結婚式に出席。 |
| 2002年4月28日-フロリダ州オーランドの病院で心臓バイパス手術を受けたが、肺炎を併発させて心臓疾患にかかり死去。 |