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つながりの強いひと
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プロフィール
- レオシュ・ヤナーチェクとは
- 少年時代(1854年 - 1868年)
- 王立師範学校時代(1869年 - 1874年)
- プラハに滞在(1874年 - 1875年)
- ブルノへ戻る(1875年 - 1879年)
- ライプツィヒ・ウィーンに滞在(1879年10月 - 1880年)
- 再びブルノへ戻る(1880年 - 1916年)
- プラハでの『イェヌーファ』上演(1916年)
- カミラ・シュテスロヴァーとの出会い(1917年 - 1928年)
- 死(1928年)
- モラヴィア音楽の特徴とヤナーチェク
- 民俗音楽のインパクト
- ヤナーチェクの受容史
- 関連サイト
レオシュ・ヤナーチェク(,,1854年7月3日-1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。モラヴィア地方の 民俗音楽研究から生み出された、発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの作品を残した。そのオペラ作品は死後、1950年代にオーストラリアの指揮者 チャールズ・マッケラスの尽力により中部 ヨーロッパの外に出、1970年代以降広く世に知られるようになった。
少年時代(1854年 - 1868年)
| left|150px|thumb|故郷フクヴァルディに建つ代表作『利口な女狐の物語』をモチーフとしたモニュメント。 |
| 1854年7月3日、モラヴィア北部の;''ホーホヴァルト'':現在のチェコ共和国北東部にあたり、当時はオーストリア帝国領であった。 |
| フクヴァルディの村がある丘の麓に位置する隣村プシーボルは、同時期に活動した心理学者ジークムント・フロイトの出身地である。 |
| という村で、父イルジーと母アマリアの10番目の子供(14人兄弟)として誕生したホースブルグ1985、28頁。 |
| 祖父と父はともに教師で、音楽家でもあったホースブルグ1985、26-28頁。 |
| 11歳のとき、ヤナーチェクの音楽的素養を見抜いていた父イルジーホースブルグ1985、30頁。 |
| の意向によってモラヴィアの首都ブルノにあるアウグスティノ会修道院ブルノのアウグスティノ修道院でヤナーチェクが生活していたころ、同じ修道院の修道士にモラヴィア出身のグレゴール・ヨハン・メンデルがいた。 |
| 彼が後世メンデルの法則として知られることになる論文を発表したのはヤナーチェクが修道院へやってきた翌年の1866年である。 |
| 現在ではこの修道院は遺伝の法則を発見したメンデルの修道院として有名であり、一部は現在メンデル博物館となっている。 |
| 付属の学校に入学し、同時に修道院の少年聖歌隊員となった。 |
| 聖歌隊の指揮者であったパヴェル・クシーシュコフスキーはヤナーチェクの父イルジーのもとで音楽の教育を受けた人物で、ベドルジハ・スメタナと同時期に活動したチェコ音楽における重要人物とされるホースブルグ1985、31-37頁。 |
| ヤナーチェクはおよそ4年の間、クシーシュコフスキーの指導を受けたホースブルグ1985、31頁。 |
| 1866年に父のイルジーが死去し、伯父のヤンの後見を受けることになったホースブルグ1985、37頁。 |
王立師範学校時代(1869年 - 1874年)
| 1869年、王立師範学校の教員養成科に入学。 |
| 音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。 |
| イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクのオペラ作品に登場人物に対する深い理解がうかがえることと心理学でよい成績を収めたこととの関連性を指摘している。 |
| 1872年、3年間の教科課程を終了したヤナーチェクは無給での教育実習を2年間課せられた。 |
| 同じく1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に就任。 |
| 留守がちであったクシーシュコフスキーにかわって活動を取り仕切った。 |
| 指導を受けた生徒の一人によると、ヤナーチェクは「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」というホースブルグ1985、37-38頁。 |
| 1873年、スヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任。 |
| イーアン・ホースブルグによるとスヴァトプルク合唱協会は主に織工によって構成されており、「居酒屋に集まる労働者の歌唱クラブの域をあまり出なかったが、ヤナーチェクの熱意のおかげでその水準はかなり高まった」ホースブルグ1985、38頁。 |
| イーアン・ホースブルグは、合唱協会の指揮者を務めたことと、『耕作』や『はかない愛』といった初期作品のいくつかが無伴奏男声合唱のための作品であることとの関連性を指摘している。 |
| 1874年、2年間の教育実習を終え最終試験に合格したヤナーチェクは王立師範学校を卒業。 |
| この時ヤナーチェクが取得したのは「チェック語が話される学校で地理と歴史を教える資格」であり、音楽を教える資格ではなかったヤナーチェクが音楽の正教員としての資格を得たのは1890年5月のことであるホースブルグ1985、53頁。 |
| 出典が不明確なためコメントアウトします/パヴェル・クシーシュコフスキーはブルノ・ベセダというアマチュア音楽家グループの中心人物としてモラヴィアの民俗音楽の豊かさを認識させる運動を行っていた音楽家で、その後のヤナーチェクの音楽に対して影響を及ぼした。 |
プラハに滞在(1874年 - 1875年)
| ヤナーチェクは師範学校長エミリアン・シュルツにプラハのオルガン学校教師とオルガニストを養成する学校。 |
| オーケストラの楽員と歌手を養成するための学校である音楽院と並んで、当時のプラハにおける音楽家養成機関であった(ホースブルグ1985、42頁)。 |
| で学ぶことを勧められ、1年間の休暇が与えられた。 |
| 出願に際し、師であるクシーシュコフスキーは以下のような推薦状を書いた。 |
| プラハ滞在中、ヤナーチェクはアントニン・ドヴォルザークと出会って親交を深め、その音楽を深く愛するようになったホースブルグ1985、44-45頁。 |
| ヤナーチェクは後に生まれた2人の子供に、ロシア式の名をつけている。 |
| 1918年に完成した交響的狂詩曲『タラス・ブーリバ』は「ロシア人をスラヴ民族の救済者であり指導者であるとみなす国家的情熱」が反映された作品とされるホースブルグ1985、191-192頁。 |
| ヤナーチェクの最後のオペラ作品である『死の家より』はフョードル・ドストエフスキーの小説『死の家の記録』を、1921年初演のオペラ『カーチャ・カバノヴァー』はアレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『嵐』をもとに制作されており、他に実行には移せなかったもののレフ・トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』、『生ける屍』を題材にしたオペラの制作を計画していた粟津1986、76-77頁。 |
| 、1909年にブルノのロシア文化サークルの会長を務めた粟津1986、77頁。 |
| 文芸評論家の粟津則雄は、ロシアの作曲家を除けばヤナーチェクほど「ロシアの文化や文学と強く結びついた作曲家はちょっとほかに思いつかない」と述べている。 |
| 粟津は、ヤナーチェクの親ロシア的な心情には政治的な動機はまったくなく、「ロシアとかチェコといった区別を超え、それらをともに包んだ汎スラヴ的なものへの夢想」によるものであった分析している。 |
| ヤナーチェクは教会音楽を中心としたオルガン学校の教育課程を「きわめて優れている」成績で修了ホースブルグ1985、45-46頁。 |
| 1875年の夏をズノロヴィの叔父のもとで過ごした後、ブルノに戻ったホースブルグ1985、46頁。 |
ブルノへ戻る(1875年 - 1879年)
| ブルノに戻ったヤナーチェクは師範学校の臨時教員となり、アウグスティノ会修道院聖歌隊とスヴァトプルク合唱協会の指揮を再開した。 |
| 新たにブルノ・クラブ合唱協会聖歌隊ヤナーチェクは、男性のみで編成されていたブルノ・クラブ合唱協会聖歌隊を混声合唱団に変え、オーケストラの楽員を養成するためのヴァイオリン学校の設立を提案した(ホースブルグ1985、47頁)。 |
| の指揮者にも就任し、多忙となったため1876年10月にスヴァトプルク合唱協会の指揮者を辞任したホースブルグ1985、46-47頁。 |
| ブルノに戻ったヤナーチェクが手掛けた作品には男声合唱曲の『まことの愛』、『沈んだ花環』のほか、初の器楽作品である『管弦合奏のための組曲』、メロドラマ『死』などがあるホースブルグ1985、47-48頁。 |
| イーアン・ホースブルグはこの時期のヤナーチェクを「平凡な成行きで作曲と編曲にも手を染めた有能な教会音楽家以上の存在であることを暗示するものは、まだそこにはいっさいなかった」と評しているホースブルグ1985、48頁。 |
ライプツィヒ・ウィーンに滞在(1879年10月 - 1880年)
| やがてヤナーチェクは「基本的な音楽技能を向上させたい」と思うようになり、1879年10月、王立師範学校長エミリアン・シュルツの勧めでライプツィヒの音楽院に入学した。 |
| この時ヤナーチェクはシュルツの娘、ズデンカ・シュルゾヴァーと交際していたホースブルグ1985、48-51頁。 |
| 音楽院でのヤナーチェクの評価は「『並はずれた才能に恵まれ、まじめで勤勉で』、『きわめて有能で知的で』あり、「まれにみる真剣さ」で勉強に熱中している」というものであったホースブルグ1985、51頁。 |
| が、ヤナーチェクは授業の内容に満足できず、1880年2月末にウィーンへ移ったホースブルグ1985、50-51頁。 |
| フランスでカミーユ・サン=サーンスに学ぶことを勧める者もいたが、恋人ズデンカの反対に遭い断念した(ホースブルグ1985、50-51頁)。 |
| イーアン・ホースブルグによると5か月間のライプツィヒ滞在中にヤナーチェクはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フランツ・シューベルト、ロベルト・シューマンの音楽に接しており、この時期に作曲された作品からはその影響がうかがえる。 |
| ウィーン滞在中、ヤナーチェクは2つのコンクールに『ヴァイオリン・ソナタ』を出品したが「あまりにも保守的」であるとして高い評価を得ることはできず、一方音楽院の授業ヤナーチェクはグスタフ・マーラーの師にあたるフランツ・クレンの指導を受けている(ホースブルグ1985、51頁)。 |
| -->ライプツィヒ、ウィーンでの滞在を通してヤナーチェクは、「正規の教育を受ける必要はもはやないという事実を痛感した」。 |
再びブルノへ戻る(1880年 - 1916年)
| ウィーンからブルノへ戻った後ズデンカと婚約し、1881年7月13日に結婚。 |
| 翌1882年8月に娘のオルガが誕生したが、直後にヤナーチェクが母アマリアとの同居を望んだことに反発したズテンカが娘を連れて2年間実家に戻るなど、当初から夫婦関係は不安定であったホースブルグ1985、52-53頁。 |
| ヤナーチェクのもとへ戻ったズテンカは長男ヴラディミールを出産したがヴラディミールは猩紅熱にかかり、1890年11月に2歳半で死去したホースブルグ1985、53頁。 |
| 出典が不明確なためコメントアウト/ブルノに帰ってから後のヤナーチェクは民族主義運動に共感し、ドイツ語での会話を拒否するようになっている。 |
| 1882年9月、ヤナーチェクはブルノにオルガン学校(現在のヤナーチェク音楽院)を設立した。 |
| アウグスティノ会修道院聖歌隊の指揮者にも復帰し、さらに1884年11月に音楽雑誌『ブデブニー・リスティ』を創刊、編集者を務めたホースブルグ1985、55-56頁。 |
| ヤナーチェクはブルノ・クラブ合唱協会内部から批判を浴び、1889年以降聖歌隊の指揮者と「若い歌手とヴァイオリニストのための学校」の運営責任者から退いたホースブルグ1985、48・56頁。 |
| 『シャールカ』が完成したのはゼイエルが1901年に死去し、その作品がチェコ・アカデミーに遺贈された後のことであるホースブルグ1985、57-60頁。 |
| 1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、バルトシュに協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行うようになったホースブルグ1985、61頁。 |
| 作業を進める中でヤナーチェクは民俗音楽の技法に魅せられていき、民俗音楽を採集することにとどまらず編集・刊行し、さらには自らの器楽作品に活用するようになったホースブルグ1985、66頁。 |
| ヤナーチェクはモラヴィアの民謡にとくに強い関心を抱いたホースブルグ1985、68頁。 |
| ヤナーチェクはフランティシェク・バルトシュと共同で『モラヴィア民謡の花束』、『モラヴィア民謡新集成』を編集しており、後者には2000以上の民謡が収録されている(赤塚2008、190-191頁)。 |
| 1889年から1890年にかけて作曲された『ラシュスコ舞曲』は、編曲・採集を除き、民俗音楽の影響がうかがえる初の作品とされるホースブルグ1985、73頁。 |
| イーアン・ホースブルグは「『物語の始まり』の重要性は、「その質がどうあれ、ここでヤナーチェクが音楽の点でも題材の点でも『シャールカ』のロマン主義を断固として放棄したことである」と評しているホースブルグ1985、79頁。 |
| イーアン・ホースブルグによると、1894年完成の序曲『嫉妬』、1896年完成の宗教曲『主よ、我らをあわれみたまえ』、1898年完成のカンタータ『アマールス』、1901年完成の宗教曲『主の祈り』といった作品にそのような傾向がはっきりと認められホースブルグ1985、82頁。 |
| 『イェヌーファ』はガブリエラ・プライソヴァーによる戯曲『彼女の養女』の翻案を基にした作品で、この戯曲はモラヴィアの村を舞台とし、さらにモラヴィア方言で書かれている点に特徴があったホースブルグ1985、95-97頁。 |
| イーアン・ホースブルグは当時のヤナーチェクについて、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていたのだった」ホースブルグ1985、9頁。 |
| 、「オペラ劇場やコンサートホールでの手ごわい競争者というよりも、民俗学者としての知識を身につけている二流の地方の作曲家であるという見方がプラハではなおも一般的であった」ホースブルグ1985、115頁。 |
| 1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し一人の労働者が死亡する事件が起こると、ヤナーチェクは猛烈に怒り『ピアノソナタ「1905年10月1日街頭にて」』を作曲した。 |
プラハでの『イェヌーファ』上演(1916年)
| 1887年、ヤナーチェクはコヴァルジョヴィツのオペラ『花嫁』を「威嚇的な暗さと絶望的な悲鳴にみち、短剣が振り回されるいわゆる音楽」、「不安定な和音と動揺する聴感覚をそなえた序曲は、音楽的才能-かなり耳を悪くしてしまう才能-を証明している」と酷評していたホースブルグ1985、112頁。 |
| プラハ国民劇場での上演はイーアン・ホースブルグ曰く「度肝を抜くような大成功」で、その後ウィーン、ケルン、フランクフルト、リュブリャナ、ポズナニ、リヴォフ、バーゼル、ベルリン1924年のベルリンでの上演を観たヤナーチェクは、エーリヒ・クライバーの指揮を絶賛している(ホースブルグ1985、265-266頁)。 |
カミラ・シュテスロヴァーとの出会い(1917年 - 1928年)
| カミラの存在は晩年の活動に多大な影響を与えたと考えられており、たとえば『消えた男の日記』は若者がゼフカという名のジプシーに恋をする連作歌曲であるが、ヤナーチェクはカミラに対し「『日記』を作曲しているあいだ、あなたのことしか考えませんでした。 |
死(1928年)
| 8月12日の夜、ヤナーチェクは肺炎によりオストラヴァで息を引き取り、同月15日にブルノで公葬が執り行われたホースブルグ1985、337頁。 |
| 同年2月19日に完成した『弦楽四重奏曲第2番』は、カミラへの愛が表現された最後の作品と考えられているホースブルグ1985、330-331頁。 |
モラヴィア音楽の特徴とヤナーチェク
| ヤナーチェクはフランチシェク・スシル、パヴェル・クシーシュコフスキーに続くモラヴィア主義、すなわちチェコの音楽学者J・ヴィスロウジルのいう「音楽素材や音楽様式、さらには音楽表現において、特にモラヴィアのフォークロアを作品の原型に据えながら、加えてモラヴィア地方特有の自然や社会環境、それに民俗文化とも密接に結びついた、いわゆる『機能音楽』」としての本質を守ろうとする動き」を担った音楽家であると評価されている内藤2002、147-149頁。 |
| 音楽についてもボヘミアの音楽が「単純な和声と規則的なリズムのパターンと調的構造」「厳格で規則正しい拍子」を有するのに対し、モラヴィア、とりわけワラキア、ラキアなどスロバキアに近い東部の音楽は規則性がなく、自由な旋律によって構成されるホースブルグ1985、62-64頁。 |
| 、「人間の心の動きの表れである話し言葉の抑揚を、言葉の意味と関連させて楽譜に写し取った」旋律(「旋律曲線」または「発話旋律」)を収集し、作曲の際の参考とするようになったホースブルグ1985、419-420頁。 |
| ヤナーチェクの楽曲の特徴は、旋律曲線または発話旋律を参考にした「少数の核となる動機の反復と変容から全体が植物が繁ってゆくような独自のパターンを確立している」点にあるといわれている相澤1992、461頁。 |
民俗音楽のインパクト
| スメタナとドヴォルザークは育った背景などの要因から、活用法には大きな違いがあるものの(詳しくはドヴォルザークの記事を参照)、民俗音楽の旋律やリズムを素材として扱い、それを既存の古典的な音楽語法に合わせて和声や構成を換骨奪胎していった点では共通している。 |
| 1886年以降に彼が行った、民謡の生まれた現場へ出かけてそれを採集して、自らの音楽語法として取り込む民俗学的なフィールド・ワークの手法は、その20年後にバルトークとコダーイがハンガリーやルーマニアで、さらにその15年後にポーランドでシマノフスキが始めている。 |
| ヤナーチェクの登場した19世紀後半、後期ロマン派の音楽は爛熟を極め、その和声の錯綜はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に至り、行き詰まっていた。 |
ヤナーチェクの受容史
| 前述のように、「二流の地方の作曲家」であり、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていた」ヤナーチェクの知名度は、1916年にオペラ『イェヌーファ』のプラハでの上演を成功させたことにより大きく広がった。 |
| 後、ローザ・ニューマーチの尽力によって1922年にロンドンのウィグモア・ホールで『消えた男の日記』が、1926年にはウィグモア・ホールで『弦楽四重奏曲第1番』など4曲が、1928年にロンドンのクイーンズ・ホールで『シンフォニエッタ』が、1928年にノリッチで『グラゴル・ミサ』が演奏・上演されたホースブルグ1985、292-298頁。 |
| アメリカでは1924年12月6日にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でオペラ『イェヌーファ』(ドイツ語訳)が上演された時、イギリスの批評家アーネスト・ニューマンはこの上演を「明らかに素人に毛が生えた程度の男の作品としか思えない音楽」と酷評し、他にも「多くの批評家がヤナーチェクのなじみのない様式に当惑」したホースブルグ1985、267-268頁。 |
| 相澤は1992年発行の著書『オペラの快楽』において、ヤナーチェクのオペラが広く世に知られるようになったのは1970年代以降であるが、チェコ語で書かれた9曲中「少なくとも5曲か6曲はこれから世界中のオペラハウスのレパートリーとして歓迎されるようになるでしょう」と述べている相澤1992、459-461頁。 |
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