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プロフィール
- レオ・シラードとは
- 業績・活動
- エントロピーと生物学
- 核物理学への傾注
- アイデアと特許
- 開かれた策略
- 核軍備管理
- 生い立ち
- 兵役と敗戦
- ベルリン学生時代
- ナチスの台頭
- 病床からの活動
- 関連サイト
レオ・シラード(LeoSzilard,発音: ハンガリー名:,1898年2月11日–1964年5月30日)は、原子爆弾開発などに関わったハンガリー生まれのアメリカのユダヤ系物理学者・分子生物学者である。カナ表記ではしばしばジラードとされている場合がある。シラードはアインシュタインを通じたルーズベルト大統領への進言によって原子爆弾開発のきっかけを作った人物として知られる。原爆開発の開始に大きな役割を演じたにも関わらず、第二次世界大戦末期には日本への無警告の原爆投下を阻止しようとして活動した点をもって、「良識派」と見なされる事が多い反面、科学史研究家の中には、
業績・活動
| シラードの興味の対象は幅広く、また彼の波乱に富んだ生涯と切り離せないものである。 |
| 熱統計力学、原子核物理学、分子生物学の科学的研究のみならず、先進の物理的アイデアに基づいた多くの特許や、社会活動団体の設立、さらには小説の執筆にまで及ぶ。 |
| 一方、その根底にある、独立した個人の創造性への信念と人道主義的な世界救済の思想とは生涯変わることがなかった。 |
エントロピーと生物学
| シラードの科学的研究対象は熱統計力学に始まり分子生物学に終わった。 |
| 1922年の博士論文と、その半年後に書かれた論文はエントロピー増大則(熱力学第二法則)に関するものであり、特に後者はこの法則と矛盾するように見えるために長らく熱力学を悩ませていた難題であるマクスウェルの悪魔を扱っていた原論文:{{citepaper。 |
| シラードは、このマクスウェルの悪魔の議論に、より一般に生命それ自体への理解へとつながるものを見ていた。 |
| それが得られるような物理学と生物学をつなぐ一般的理論では、統計力学がいう平衡状態が混沌ではなく、むしろ力学を越えて高次の秩序へ向かうものを意味するものとなるだろうと考えたLanouette(1992)p.65.。 |
| シラードの論文集に序文を寄せた分子生物学者ジャック・モノーは、シラードが「心の中ではいつでも生物学者であった」とし、シラードの生物学への転向をこうした「マクスウェルの悪魔の熱力学についての初期の研究への回帰」であったのではないかとしているMonod,Jacques(1972)''Foreword,''inFeldandSzilard(1972)pp.xvi–xvii.邦訳:ウィアート他(1982)pp.vi–vii.引用部は原文より訳出。 |
核物理学への傾注
| こうした生物物理学への志向にもかからわず、時代的制約によって壮年期のシラードの研究はほぼ原子核物理学へと向けられた。 |
| 1933年、ドイツを逃れてほどなく、中性子による核連鎖反応の可能性に思い至り、以降核物理学の研究に没頭する。 |
| しかし、このシラードのひらめきは核分裂の発見に6年先立つものであったため、その前半は不安定な身分の中での孤独な研究に身を投じることとなった。 |
| 1934年、浴槽で思索に耽っていたとき、中性子捕獲した後の核反応生成物を分離する方法を思いつき、シラード=チャルマーズ効果(Szilard-Chalmerseffect)を発見している原論文:{{citejournal。 |
| 1939年にウラン原子核の核分裂が発見され、シラードの懸念が一転して物理学の中心的話題となると、エンリコ・フェルミらやフレデリック・ジョリオ=キュリーらと平行して核分裂実験で二次中性子の放出を確認した。 |
| 第二次世界大戦中、研究は極秘の原子爆弾開発計画であるマンハッタン計画として政治の世界へと飲み込まれることとなった。 |
| マンハッタン計画初期には、フェルミらに協力して世界初の原子炉シカゴ・パイル1号を実現に導いたが、計画を指導した陸軍との確執が深まるとともに政治的な活動に深く関わっていった。 |
| 戦後、核開発競争の時代となってからも、こうした核管理問題に関する政治的活動に積極的に携わった。 |
アイデアと特許
| シラードは、立場や環境に束縛されない独立した個人でいることによって、人の創造性が最大限に発揮できるものと考えていた。 |
| 幼少期から多くの新奇なアイデアの創出や発明に熱中したが、学位を得るとともに、固定した学問的地位を得るよりも、多くの同僚研究者の間を「知的放浪者」としてせわしなくめぐり様々な忠告を行うのを習慣としたLanouette(1992)p.92.。 |
| こうした行いからベルリン時代には「最高指導者」()とあだ名され、厚かましいものと煙たがられた一方で、思いもよらない有用なアイデアを与えることもあった。 |
| 一方、多様な研究者との会話から生まれてきたアイデアは、数多くの特許という形で残された。 |
| 博士号を得た直後の1923年、カイザー・ヴィルヘルム研究所でX線回折の研究を行っていたハーマン・マーク(HermanF.Mark)後にアメリカに移住。 |
| 英語式の読みに従う。 |
| を尋ねた後、シラードはX線センサー素子に関して初の特許を申請しているLanouette(1992)pp.77,90–92.。 |
| ルスカがそれを実際に製作したのと同じ1931年に単純な形式の電子顕微鏡の特許を申請しているが、デニス・ガボールハンガリー生まれ、後にイギリスに移住。 |
| 英語式の読みに従う。 |
| によればそのアイデアをシラードから初めて聞いたのはその4年前だったというLanouette(1992)pp.94–95.。 |
| これより前に、線形加速器さらにはサイクロトロン、ベータトロンに関する特許を相次いで出願しているドイツ特許:(線形加速器)Appl.No.S.89028.(サイクロトロン)Appl.No.S.89288.。 |
| サイクロトロンの特許出願はローレンスがそれを思いついた時期に数か月先立ち、やはりその実現の4年前であったLanouette(1992)p.101–102.Telegdi(2000)pp.26–27.。 |
| これらベルリン時代の発明の中で最も実現に近づいたものは冷蔵庫用の可動部のないポンプに関する一連の特許であった。 |
| このころの冷蔵庫は冷媒として有毒なガスを用いており、ポンプの可動部の隙間からガスが漏れ出して死亡する事故が度々起きていた。 |
| アインシュタインと親しい付き合いをしていたシラードは、こうした事件を受け、液体金属を外部から電磁誘導によって流動させるなど3種類の冷却装置の設計を共に行って連名で特許を取得したアインシュタインとシラードの冷蔵庫に関する特許:(液体金属ポンプ)ドイツ特許Pat.No.476812,イギリス特許Pat.No.303,065,FeldandSzilard(1972)pp.532–542.(ガス冷蔵庫の改良)アメリカ特許No.1,781,541,A.EinsteinandL.Szilard(1930-11-11)“Refrigeration”( |
| その一部はゼネラル・エレクトリック社のドイツ法人()で試作されたものの、騒音の低減が出来なかったことや経営状況の悪化のために実用化されることは無かったローズ(1993)上pp.16–17(原書:pp.20–21).Lanouette(1992)pp.83–84.Wigner(1992)pp.94–95.{{citejournal。 |
| その後イギリスでは初期の核連鎖反応のアイデアを特許とし、アメリカではエンリコ・フェルミとの黒鉛型原子炉に関する特許を残しているイギリス特許:(核変換)Pat.No.440,023,(連鎖反応)Pat.No.630,726,FeldandSzilard(1972)pp.622–651.アメリカ特許:(黒鉛型原子炉)Pat.No.2,708,656,FeldandSzilard(1972)pp.691–696,E.FermiandL.Szilard(1955-05-17)“Neutronicreactor”( |
| さらに使用済み核燃料に多くの新たな燃料を含む原子炉である増殖炉、微生物の連続培養装置であるケモスタット(chemostat)などを発案したLanouette(1992)pp.255–256,259,385–386.{{citejournal。 |
| シラードはこうした新たなアイデアを出すことには熱心だったものの、その後は興味を失うことが多く、こうした特許のうちで実現を試みたものは少なかった。 |
| またシラードの特許への嗜好を利己的で科学者らしくないと考える同僚も多かったが、シラードは彼が理想とした組織から独立した個人としているために必要なものだと考えていたLanouette(1992)pp.65,91.。 |
| しかし結果としてこうした発明の多くはシラードに利益をもたらしていないTelegdi(2000)p.25.。 |
開かれた策略
| シラードはまた、SF作家H・G・ウェルズの大ファンとして知られ、1920年代のベルリン在住時には彼の小説をドイツ語圏に紹介することに尽力した。 |
| 特にこの時期に発表されたウェルズの小冊子『開かれた策略』(''TheOpenConspiracy,''1928年)原文献:{{citebook。 |
| 実際1920年代半ば、ヴァイマル共和国の議会制民主主義の衰退を感知していたシラードは、その崩壊に備えて彼がブント(derBund)ブント(Bund)は英語のbond,bandに対応するドイツ語で、同志の集まり・同盟・連盟を表すものとして様々な組織に対し用いられた。 |
| と呼んだグループを組織しようとしていた。 |
| ブントは将来「過飽和溶液中の種結晶」となることを意識して、深い宗教的・科学的精神により結びつきその内に民主制を代表させた一種の組織的エリート集団である。 |
| この計画は科学者エリートが政治・社会に関わっていくというその後の彼のさまざまな社会活動の端緒となるものとなったローズ(1993)上pp.18–19(原書:pp.21–22).Bernstein(1987)p.xxv.ウィアート他(1982)pp.28–38(資料1).。 |
| 1939年、アインシュタインにルーズベルト大統領へ核開発を促す有名な書簡(アインシュタイン=シラードの手紙)を送ることを依頼したのをはじめ、シラードは他の科学者や有力者との接触によっていくつかの活動を影で支援した。 |
| 1933年の経済学者ベヴァリッジらによる亡命学者受け入れのための学術支援評議会(AcademicAssistanceCouncil,AAC)の設立や、1963年の生物学者ジョナス・ソークによるソーク研究所の設立には、こうしたシラードの早期の働きかけがあったLanouette(1992)pp.118–119,398–400.。 |
| また、1960年には幾度かの書簡の交換をへて、訪米中のフルシチョフに面会し、米ソ間のホットラインの開設を提案しているBernstein(1987)pp.lvii–lviii.。 |
| しかしこうしたシラードの数多くのアイデアのうち実現に至ったものはむしろ少なかった。 |
| 1934年には日本の満州支配に抗議し、古典学者ギルバート・マレー(GilbertMurray)に呼びかけて、日本政府に政策転換の圧力をかけるため日本の学者との学術交流のボイコット運動を組織し、また翌年にはソ連政府が物理学者ピョートル・カピッツァの渡英を阻止したことに対して、ポール・ディラックとともにやはりソ連の学者に対する同様の呼びかけを行った。 |
| しかし、これらはいずれも所定の有力者の賛同を集められなかったため実行されていないBernstein(1987)p.xxvii.Lanouette(1992)pp.141–142,151.ウィアート他(1982)pp.47–49(資料5).。 |
| さらにシラードは、パグウォッシュ会議での儀礼的なやり取りに飽き足らず、新たなアイデアの創出と実効的な議論を求め両陣営の科学者や実務者による小規模で非公式な会議を度々企画したが、やはり実現に至ることはなかったBernstein(1987)pp.xlv–xlvi,lxii–lxiii.。 |
核軍備管理
| シラードはウェルズと同様に世界政府(worldgovernment)の実現や世界法の制定による戦争の廃絶を理想とした。 |
| シラードにとって冷戦期の問題は、全面核戦争を起こすことなく戦争を廃絶させる国家の上位組織を作り上げる道を見出せるかどうかということだったが、晩年までその見通しは暗いものと考えていた。 |
| シラードはその原因をナショナリズムと信頼の欠如とに見ていたBernstein(1987)pp.xl–xlii.。 |
| こうした理想の一方で、戦後の核開発競争に抗してなされたその時々の主張はプラグマティックで、またしばしば奇抜なものであった。 |
| シラードのアメリカ政治に対する分析は多元主義的なものであり、ニューレフトの急進主義や、理想主義的な平和主義、また政府のシンクタンクとも距離をとり、その信は飽くまで科学者コミュニティーの合理主義に置かれた。 |
| しかし、戦後の他の軍縮活動と同じく、いずれの活動も冷戦の大きな政治的力の前で決定的な役割を果たすものとはならなかったBernstein(1987)pp.xliv–xlvi,lvi,lxi–lxii,lxiv.。 |
| 1960年の論文『爆弾とともに生き、そして生き延びる方法』(Howtolivewiththebombandsurvive)では、核の手詰まり状態を予測し、許諾された脅威を定め、限定核戦争が勃発した場合の相互の都市への核攻撃におけるルール作りのようなものさえ案出したBernstein(1987)pp.xvii,lv.。 |
生い立ち
| 1898年、当時のオーストリア=ハンガリー帝国、ブダペストで土木技師の父ルイ・シュピッツ(LouisSpitz名-姓)スロヴァキア生まれ。 |
| 1914年7月、16歳のときに第一次世界大戦が始まると、すぐさまこの戦争がオーストリア=ハンガリーとドイツの同盟国側、および連合国の一翼のロシアの敗北によって終わらねばならないと周囲に公言していた。 |
兵役と敗戦
| 王立ヨージェフ工科大学()に入学した翌年の1917年9月に当時の制度に従い士官候補生として徴兵された。 |
ナチスの台頭
| ウィーンでは、滞在中の経済学者ウィリアム・ベヴァリッジに対し、亡命学者のための職業紹介所の設立をたきつけ、これはロンドンの「学術支援評議会」(AcademicAssistanceCouncil,AAC)AACの後身組織:{{citeweb。 |
病床からの活動
| 1960年にはアルバート・アインシュタイン賞(AlbertEinsteinAward)を、またウィグナーとともに平和のための原子力賞(AtomsforPeaceAward)を受賞し、さらにアメリカ人道主義協会(AmericanHumanistAssociation,AHA)によって「今年の人道主義者」(HumanistoftheYear)に選ばれたBernstein(1987)p.lv.FeldandSzilard(1972)p.15.{{citeweb。 |
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1898年
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当時のオーストリア=ハンガリー帝国、ブダペ... |
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1914年
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16歳のときに第一次世界大戦が始まると、すぐ... |
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