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プロフィール
- ロナウジーニョとは
- 名前・愛称
- 家族
- グレミオ
- パリ・サンジェルマンFC
- FCバルセロナ
- ACミラン
- CRフラメンゴ
- 代表
- 関連サイト
ロナウジーニョ(Ronaldinho)こと、 ロナウド・デ・アシス・モレイラ(RonaldodeAssísMoreira、1980年3月21日-)は、ブラジル出身のサッカー選手。CRフラメンゴ所属。ブラジル代表である。ポジションはフォワード(セカンドトップ、左ウイング)、ミッドフィールダー(トップ下)。愛称はガウーショ。ホナウジーニョと表記される事もある。
名前・愛称
| Ronaldinhoは、日本ではロナウジーニョと主に表記・呼称される。 |
| 出身地であるポルト・アレグレなどの南部では、R発音は昔のポルトガル語発音であるラ行も多いが、現在ブラジルではリオなどの北部を中心として広い範囲でブラジルポルトガル語からR発音はハ行で読むのがほぼ一般的になりつつある。 |
| したがって日本でもホナウジーニョというネイティブに近い表記・呼称もある。 |
| この為、表記や読みを完全に統一することは難しくなっている。 |
| また、RonaldinhoとはRonaldoに縮小辞inhoがついた愛称形で「小さなロナウド」というニックネームである。 |
| セレソン選出当時に既にロナウド(ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ)がおり、彼がロナウジーニョと呼ばれていた。 |
| 後から入ったロナウド(ロナウド・デ・アシス・モレイラ)もロナウジーニョと呼ばれたが、ホナウド=ホナウジーニョと区別するために、ブラジル南部出身である事から彼はガウーショとも呼ばれることになる。 |
| ガウーショとは南米のカウボーイを意味し、ブラジル国内では南部地域、とりわけリオグランデ・ド・スル州とサンタカタリナ州出身の男性(気質)を強調する際に用いられる語である(戦争の時にガウチョが活躍したため)。 |
| 現在、ブラジルではロナウドはロナウジーニョもしくはFenômeno(フェノーメノ、天変地異、転じて「怪物」)、ロナウジーニョをGaúcho(ガウーショ、ロナウジーニョ・ガウーショ)と呼び区別している。 |
| なお、このようにブラジル人を本名で呼ばず、愛称で呼ぶことが多いのは、母親と父親の名前の両方を受け継ぎ、名前が非常に長くなること、またロナウドのように同じ名前が非常に多いことによる。 |
家族
| ロナウジーニョの代理人である、実兄のロベルトは、1999年にアシスという登録名でコンサドーレ札幌に在籍していた。 |
| 幼いころに父親を亡くしたため、ロベルトが父親代わりになっていた。 |
| 元々は貧しい家庭環境だったが、兄のロベルトがグレミオとプロ契約したことで、6歳の時にプール付きの豪邸に移り住んでいる。 |
| ロナウジーニョの回想のなかの「家の中で椅子や犬を相手にドリブルの練習をしていた」という話からも、広々とした家に住んでいたことが窺える。 |
グレミオ
| ロナウジーニョはグレミオの下部組織でサッカーを始め、1998年のコパ・リベルタドーレスでトップチームデビューしたRadnedge,Keir,"ThepricelessprinceofBarcelona",''WorldSoccer'',January2005,pp.8–9。 |
| 2001年にはイングランドのアーセナルFCがロナウジーニョとの契約に興味を示したが、彼はEU圏外選手であり、イギリスの労働許可証の取得条件を満たさなかったため、この移籍話は破談となった。 |
| 同年にはスコティッシュ・プレミアリーグのセント・ミレンFCにレンタル移籍することを検討したが、偽造パスポート事件に巻き込まれたために取りやめとなった。 |
パリ・サンジェルマンFC
| ;2001-02シーズン。 |
| 2001年、フランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンFCと5年契約を結んだ。 |
| 移籍金は500万ユーロ。 |
| パリ到着後、背番号21を与えられ、ブラジル代表のアロイジオ(AloísioJosédaSilva)、ミケル・アルテタ、ジェイジェイ・オコチャなどが在籍する攻撃陣の一員に加わった。 |
| 2001年8月4日のAJオセール戦(1-1)で途中出場してリーグ戦デビューし、2001-02シーズン前半戦は先発出場と途中出場を交互に繰り返した。 |
| 10月13日のオリンピック・リヨン戦(2-2)では途中出場し、79分に移籍後初得点となる同点弾をペナルティキックで決めた。 |
| ウィンターブレーク後のASモナコ戦(1-2)、スタッド・レンヌFC戦(2-1)、RCランス戦(1-1)、FCロリアン戦(5-0)では4試合連続得点を記録し、2002年3月16日のトロワAC戦(3-1)では残留争いに苦しむ相手から1試合2得点を記録した。 |
| 4月27日のFCメス戦(2-0)でシーズン最後のゴールを挙げ、移籍初年度のリーグ戦は9得点でシーズンを終えた。 |
| 同シーズンはクープ・ドゥ・ラ・リーグでもチームに大きな影響を与え、ラウンド16のEAギャンガン戦ではハーフタイムに途中出場して後半だけで2得点を挙げた。 |
| チームは準決勝に進出し、準決勝でFCジロンダン・ボルドーに敗れた。 |
| プレーでは移籍初年度から健闘したが、「サッカーよりもパリでの夜遊びで注目を集め、ブラジルでの休暇から予定通りに帰国しない」と主張するルイス・フェルナンデス監督との確執によって台無しとなった。 |
| ;2002-03シーズン。 |
| 2002年夏には背番号を10に変更し、2002-03シーズンに臨んだ。 |
| 2年目のシーズンは1年目と比較して失望の残るシーズンであったが、それでも見事な成績を残した。 |
| 2002年10月26日、オリンピック・マルセイユとのル・クラスィク(3-1)で2得点を挙げた。 |
| 最初の得点は直接フリーキックによるもので、カーブしたボールは壁の横を通り抜けてベドラン・リュンジュ(VedranRunje)が守るゴールに吸い込まれた。 |
| スタッド・ヴェロドロームで行われたアウェー戦でも得点し、3-0で快勝した。 |
| クープ・ドゥ・フランス準決勝のFCジロンダン・ボルドー戦(2-0)では2得点を挙げ、再び称賛を集めた。 |
| 22分に先制点を決め、81分にはGKウルリッヒ・ラメが適切なポジション取りをしていたのにもかかわらず、頭を抜くチップシュートを決めて試合を締めくくった。 |
| これらの活躍で、パリ・サンジェルマンFCの観客にスタンディング・オベーションを贈られた。 |
| クラブにとって不幸なことに、決勝のAJオセール戦(1-2)ではロナウジーニョ自身もチームも本来の調子を出せず、ロスタイムのジャン=アラン・ブームソンの得点に屈した。 |
| 2002-03シーズンのリーグ戦は11位と失望の順位に終わり、欧州カップ戦出場権を逃したことで、ロナウジーニョは他クラブへの移籍希望を明らかにした。 |
FCバルセロナ
| ;2003-04シーズン。 |
| 当初、FCバルセロナのジョアン・ラポルタ会長はデヴィッド・ベッカムの獲得を公約していたが、ベッカムはレアル・マドリードに移籍したため、FCバルセロナはロナウジーニョの獲得争いに参加し、マンチェスター・ユナイテッドFCよりも高額な3000万ユーロのオファーを提示して獲得に成功した。 |
| アメリカのワシントンにあるロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムで行われたACミランとの親善試合でデビューし、その試合で1得点を挙げて2-0で勝利した。 |
| 2003-04シーズン前半戦には負傷離脱していた時期もあったが、復帰後はチームをリーグ戦2位に導いた。 |
| ;2004-05シーズン。 |
| 2004年12月20日にはFIFA最優秀選手賞を受賞し、2004-05シーズンには移籍後初のリーグ優勝を果たした。 |
| 2005年3月8日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦・チェルシーFC戦セカンドレグ(2-4)では2得点を挙げたが、2試合合計4-5で敗退が決まった。 |
| ;2005-06シーズン。 |
| 2005年9月にはFIFPro年間ベストイレブンとFIFPro年間最優秀選手賞を受賞し、同年にはUEFA年間最優秀選手賞も受賞した。 |
| さらに、FIFA最優秀選手賞の投票では956点を集め、2位のフランク・ランパード(306点)に3倍以上の大差をつけて2年連続で受賞した。 |
| 2005年11月19日、レアル・マドリードとのエル・クラシコ(3-0)では2得点を挙げた。 |
| 勝利を決定づける2点目を決めると、アウェーでのダービーマッチにもかかわらずレアル・マドリードのファンからスタンディング・オベーションが贈られた。 |
| 2006年1月には3年連続でUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。 |
| UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝・SLベンフィカ戦セカンドレグでは先制点を決めた。 |
| 準決勝のACミラン戦ファーストレグではリュドヴィク・ジュリの決勝点をアシストし、2試合合計1-0で決勝に駒を進めた。 |
| 5月26日に行われた決勝ではアーセナルFCを2-1で下して優勝を果たした。 |
| 決勝の2週間前にはセルタ・デ・ビーゴに1-0で勝利してリーガ・エスパニョーラ2連覇を決めており、キャリア初の2冠を達成した。 |
| 2006年11月25日のビジャレアルCF戦では2度目となるオーバーヘッドキックでの得点を決め、FCバルセロナでのリーグ戦得点数が50点に達した。 |
| このビジャレアル戦での得点は少年時代から夢見ていたゴールであると後に語っている。 |
| 12月にはFIFAクラブワールドカップに出場し、準決勝のクラブ・アメリカ戦(4-0)では1得点1アシストの活躍を見せたが、決勝のSCインテルナシオナル戦(0-1)に敗れて準優勝に終わった。 |
| SCインテルナシオナル戦の翌日にはFIFA最優秀選手賞が発表されたが、2006FIFAワールドカップで優勝したイタリア代表のキャプテンであるファビオ・カンナヴァーロ、準優勝のフランス代表のキャプテンであるジネディーヌ・ジダンに次ぐ3位に終わった。 |
| 2007年1月、最多となる29万票以上を集めてUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに3年連続で選出された。 |
| エル・クラシコ(3-3)で負傷し、3月13日のチャリティマッチには出場できなかった。 |
| しかし、2007-08シーズンは全体的に負傷に苦しめられ、4月3日には右足の筋肉断裂により一足早くシーズンを終えた。 |
| 5月19日、ラポルタ会長は「ロナウジーニョは新たなチャレンジを必要としている」と発言し、トップ選手としてやっていくためには移籍が必要であると主張した。 |
| 6月6日、マンチェスター・シティFCのタクシン・シナワットオーナーはロナウジーニョの獲得に興味を示した。 |
| 6月28日、ロナウジーニョとリオネル・メッシはベネズエラで開催された人種差別撲滅のための親善試合でそれぞれのチームのキャプテンを務め、試合は7-7の引き分けに終わった。 |
| 彼は2得点2アシストを記録したが、この試合がFCバルセロナの選手としての最後の試合となった。 |
| 2010年のジョアン・ガンペール杯前日、FCバルセロナのファンと選手たちに対して「FCバルセロナでの5年間が最高の時期であった」とする手紙を公開した。 |
ACミラン
| 2008年7月、ロナウジーニョはマンチェスター・シティからの移籍金2550万ポンドのオファーを拒否し、イタリア・セリエAのACミランと3年契約を結んだ。 |
| 年俸は約510万ポンド(650万ユーロ)であり、移籍金は約1450万ポンド(1850万ユーロ)と考えられている。 |
| 9月28日、インテルとのミラノ・ダービー(1-0)で初得点を挙げた。 |
| 11月6日、UEFAカップグループリーグのSCブラガ戦では93分に決勝点を挙げた。 |
| 翌週の1月17日に行われたシエナ戦(4-0)では、1点目をペナルティキック、2点目をコーナーキックからのヘディングシュート、3点目を20ヤードの距離からのミドルシュートで決め、移籍後初のハットトリックを達成した。 |
| 1月16日には移籍後初めてのUEFAチャンピオンズリーグの試合となるマンチェスター・ユナイテッド戦に出場し、序盤に得点してリードを得たが、ポール・スコールズとウェイン・ルーニー(2点)に得点を許して最終的に2-3で敗れた。 |
| 4月13日、カターニア戦(2-2)でマルコ・ボリエッロの得点をアシストし、アシスト数はリーグトップの14に達した。 |
CRフラメンゴ
| 2011年冬にはアメリカのロサンゼルス・ギャラクシー、ブラジルのSCコリンチャンスやSEパルメイラス、イングランドのブラックバーン・ローヴァーズFCなど様々なクラブがロナウジーニョに関心を示した。 |
| 特に幼少時代を過ごしたグレミオFPAから強い関心を示されたが、2011年1月11日にCRフラメンゴと2014年末までの契約を交わし |
| 2月6日のボアヴィスタSC(BoavistaSC)戦(3-2)で移籍後初得点を記録し、2月27日に行われたタッサ・グアナバラ(TaçaGuanabara)決勝の同一カード(1-0)では右足での直接フリーキックで決勝点を決め、トロフィー獲得に貢献した。 |
| CRフラメンゴにとっては19度目の同大会制覇であり、2ヶ月後にはリオ・グランデ・ド・スル州選手権(CampeonatoCarioca)とタッサ・リオ(TaçaRio)でも優勝を果たした。 |
代表
| 6月26日、コパ・アメリカ1999前最後の親善試合となったラトビア戦(3-0)でブラジル代表初出場を果たし、コパ・アメリカ1999中に代表初得点を記録した。 |
| コパ・アメリカが閉幕して1週間後にはFIFAコンフェデレーションズカップ1999に招集され、メキシコに3-4で敗れた決勝以外の全ての試合で得点した。 |
| 2002年には初めてのFIFAワールドカップとなる2002FIFAワールドカップの代表メンバーに選ばれ、コパ・アメリカ1999を共に制したロナウドやリバウドなどと共に脅威的な攻撃陣を構成した。 |
| 2004年、カルロス・アルベルト・パレイラ監督は代表の主力選手を休ませるため、ロナウジーニョをコパ・アメリカ2004のメンバーに加えず、メンバーの大部分を本来なら控えの立場の選手で構成した |
| 2006年にはドイツで開催されたワールドカップのメンバーに選ばれ、アドリアーノ、ロナウド、カカと共に構成されたマジック・カルテットの一員として全5試合に先発出場した。 |
| 準々決勝のフランス戦(0-1)では何もできず、ブラジル代表は枠内シュートを1本しか打てない体たらくで敗退が決まった。 |
| この代表チームはブラジル帰国後にファンやメディアの批判にさらされ、フランス戦の2日後の7月3日には、チャペコ(Chapecó)にあった7.5m(23フィート)ものグラスファイバーと樹脂製のロナウジーニョの彫像が過激なファンによって破壊された。 |
| 2007年3月24日のチリ戦(4-0)ではFIFAコンフェデレーションズカップ2005決勝以来となる得点(2得点)を決め、2年近くにも及んだ連続無得点期間を終わらせた。 |
| 10月にはエクアドルとの親善試合(5-0)を戦ったが、数人の選手たちとリオデジャネイロの高級ナイトクラブでパーティを催し、翌朝11時にナイトクラブを出たが、メディアを避けるために車のトランクに隠れて移動したとされる。 |
| FCバルセロナはチャンピオンズリーグの試合に彼を出場させたいとして、初めはブラジル代表への招集を拒否しようとしたが、ACミランへの移籍が合意に達したためにオリンピックへの出場が許された。 |
| コンディションを取り戻した後は、2010年5月11日に2010FIFAワールドカップのブラジル代表候補30人に選ばれ、自身も南アフリカ行きを熱望していたが |
| ジャーナリストの中には、ロナウジーニョ、アレシャンドレ・パト、アドリアーノ、ロナウドのような選手を選外とすることはブラジルの伝統的なプレースタイルであるJogaBonitoを放棄する兆しであると主張する者もいた。 |
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1980年
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ロナウジーニョ(Ronaldinho)こと、ロナウド... |
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1997年
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U-17ブラジル代表としてFIFA U-17ワールドカ... |
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