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ヘンリー・フォード
アメリカ合衆国出身の企業家、自動車会社フォード・モーターの創設者である。 |
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プロフィール
- ロバート・マクナマラとは
- 概要
- 学生時代
- ビジネススクール時代
- 陸軍時代
- ウィズ・キッズ
- フォード時代
- 国防長官時代
- 対共産陣営
- 核戦略
- 国防省の改革・核戦略の転換など
- PPBS
- 軍事介入増強
- 失策の末の辞任
- 評価
- その他
- 関連サイト
ロバート・ストレンジ・マクナマラ(、1916年6月9日-2009年7月6日)は、アメリカの実業家、政治家。1961年から1968年までアメリカ合衆国国防長官。1968年から1981年まで世界銀行総裁。
概要
| 米国国防長官としてケネディ、ジョンソンの両政権の約8年間、米国の安全保障の中心であった。 |
| 統計専門家として空軍創設時に重大な役割を果たし、巨大組織運営の専門家として認められた。 |
| 戦後フォード自動車を立て直した後、国防長官に就任。 |
| 自分の配下の優秀な人材を各部署に配属し、費用対効果比に基づく改革を推し進め、核戦略を文民指導にするために努力した。 |
| ベトナム戦争拡大に関わったが、虚偽の統計データに欺されていたことに気付くと内部でベトナム戦争からの撤退を図った。 |
| 晩年ベトナム戦争やキューバ危機における自らの行動の失敗を一部認めた。 |
学生時代
| 父は、靴卸の商店で販売マネージャーをしていた。 |
| 1937年、カリフォルニア大学バークレー校で経済学を専攻、副専攻として数学と哲学を学ぶ。 |
| 卒業後、1939年にハーバード大学のビジネススクールでMBAを取得した。 |
ビジネススクール時代
| その後、サンフランシスコのプライス・ウォーターハウス社で会計職を得るが、1940年8月には、ハーバード大学へ戻り、ビジネススクールで教鞭をとるようになる。 |
| そこで、企業経営に用いる数値解析手法を陸軍航空軍将校に教えていた。 |
陸軍時代
| その関係で、戦争が激化した1943年には、陸軍航空隊に入隊。 |
| そこで、戦略爆撃の解析および立案の仕事に従事する。 |
| 1945年、ヨーロッパでドイツの敗北が決定的になった時、陸軍航空軍はヨーロッパ戦線で余っていたB-17を極東に転用し、日本への戦略爆撃に使用するという提案がなされた。 |
| しかし、マクナマラをはじめとするビジネススクール出身者は、徹底的に分析、B-17を転用するより廃棄して、ボーイングB-29を大量生産して投入する方がコスト面で効率的であると強く主張した。 |
| 彼らの主張が通ってB-29が対日戦略爆撃に大量投入された結果、大きな戦果を上げることとなったが、東京大空襲における無差別爆撃の必要性については上官であるカーチス・ルメイに抗議している。 |
| 3年間の軍役の後、中佐として除隊。 |
ウィズ・キッズ
| 彼はロバート・ロベットのもとで働いた伝説的天才若者集団ウィズ・キッズ(WhizKids(Ford))11人の中心人物であった。 |
| 代表は初期のコングロマリットであるリットン・インダストリーズ会長となるチャールズ・B・ソーントンである。 |
| まだ全員20代であり比較的低い位階(佐官)にもかかわらず空軍全般の管理を行い、特にB-29の生産計画と進行は見事だとされた。 |
| 戦争中4年の経験は通常約25年分の経験をメンバーにもたらした。 |
| 従って彼はエスタブリッシュメント(ロベット)と軍部(空軍)によって国防の専門家として認められていた。 |
| 1947年の国防総省の設立にも関わっていたとされる。 |
| 戦後、若すぎて通常畑では下層からはい上がらなければならないことを嫌って、チームは経営不振にあえいでいたフォード自動車に売り込み、最高幹部幹部候補生として採用された。 |
| 彼らは赤字続きの会社を建て直し、黒字会社に変えた。 |
フォード時代
| 1946年に、当時経営難にあった世界第2位の自動車会社であるフォード・モーターに入社。 |
| 経営分析の経営計画の立案に従事する。 |
| 第二次世界大戦における特需の終焉と、ヘンリー・フォード亡き後に低迷したフォード社の業績を立て直した原動力の1人と目され、フォード社で頭角を現した彼は、1960年11月9日に社長に就任。 |
| これは、フォード家以外から初めてのことであった。 |
| なお、当時の部下の1人がその後フォード社の社長とクライスラー社の会長を務めたリー・アイアコッカである。 |
国防長官時代
| 1960年の大統領選挙に勝利したジョン・F・ケネディは、前任のアイゼンハワーより国防政策の能力が欠けていると思われていた。 |
| ケネディは、ロバート・ロベットに国防長官への就任を要請する。 |
| しかしロベットは、推薦を辞退。 |
| 代わりに、マクナマラを推薦する。 |
| ケネディは義弟のサージェント・シュライバーを使って、フォード社の社長になってまだ5週間しか経過していなかったマクナマラとコンタクトを取った。 |
| 結局、マクナマラは、フォード社社長を辞任し国防長官就任を受諾した。 |
| マクナマラは、国防に関する最新知識をあまり持ち合わせていなかったが、直ぐにそれらの勉強を始め、瞬く間に自身の役割を把握、積極的な活動を始める。 |
| マクナマラは、国防情報局(DIA)と国防調達庁(DSA)を設立した。 |
| 1961年3月28日に行われたケネディ大統領の議会への最初の一般教書演説に、マクナマラは国防政策の改革を盛り込むように提案。 |
| その骨子は、十分な戦略兵器の配備で、アメリカおよび同盟国への核攻撃を思いとどまらせる。 |
| また先制攻撃も辞さないとした。 |
| しかしケネディはそれを拒否する。 |
| ケネディは、米軍は文民統制下に常に置かれるべきで、国防体制は、不合理な戦争や偶発的戦争の勃発の危険性を減らす方向で行かなければならないと考えていた。 |
対共産陣営
| ケネディ政権は、共産陣営の「民族解放戦争」に対して正面からの戦争は避けつつも、政権転覆やゲリラ戦術に訴えて対抗していくことを前面に押し出した。 |
| 1962年の年次報告でマクナマラは、「軍事面の強化では狙撃・待伏せ・強襲の戦闘力強化。 |
| 政治面では恐怖感・強奪・暗殺」と述べた。 |
| 実際に、アメリカ軍にこれらの訓練をつんだ特殊部隊を増強し、当時混迷を増していた南ベトナムには、「軍事顧問団」と称するアメリカ軍の部隊の増強を続けた。 |
| また、ベルリン危機の1961年から通常兵力の増強も行い、1961年に280万8千人だった兵力を、辞任時の1968年には、355万人までに増やしている。 |
核戦略
| 彼の核政策の要は、いかにNATOを核の脅威から守るかであった。 |
| マクナマラの目的は、西側のアメリカ同盟国への核攻撃がアメリカからソ連への報復攻撃につながることをモスクワに確信させることにあり、ソビエトが都市への核攻撃をできないようにする施策を望んでいた。 |
| 彼はアナーバーでのスピーチで「大規模な攻撃が行われても直ぐに報復可能な核備蓄を行うべきである」と述べた。 |
| 彼はこの戦略を実現するため、兵器と補給システムの革新と拡張を促進した。 |
| また、1966年までに当時旧型のタイタンIやアトラスミサイルを廃止し、後継の大陸間弾道ミサイル(ICBM)ミニットマンと潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)ポラリスの配備を加速した。 |
| マクナマラ在任中、54基のタイタンIIと1,000基のミニットマンを陸上配備し、また41隻の原子力潜水艦に656基のポラリス配備を行った。 |
国防省の改革・核戦略の転換など
| 彼は、アイゼンハワー政権の核戦略を転換させた。 |
| 前政権は大量核報復戦略を当然とするアーサー・ラドフォード海軍大将やカーティス・ルメイ空軍大将などが動かしていた。 |
| それに密かに反対していたマックスウェル・テーラー陸軍大将を統合参謀本部議長にして、より穏健な立場に立ち、軍部を掌握した聡明な文官としての地位を確立した。 |
| 民主党勝利の大きな理由であった「ミサイル・ギャップ(ミサイルで米国はソ連に負けているという説)」は存在しないと国防長官就任直後に発言し物議を醸したように、彼は単純な核兵器拡張論者ではない。 |
| 当時前線司令官に一部任されていた核使用権限を大統領に集中し、文官側によるより柔軟で広範な判断をできる仕組みを作り上げた。 |
| 国防省に国防情報局を設置し、3軍の情報を集中し国防長官に情報が集まるようにした。 |
PPBS
| マクナマラは、システム分析の手法を広く導入した。 |
| 国防省の監査役のチャーリーズ・J・ヒッチとマクナマラは、国防に必要な要素を統計的に分析し、長期的かつ計画された国防予算の立案を行った。 |
| 「防衛システムの課題を国家としての必要性と妥当性から解決手段を分析する」・「軍事面の必要性とコストの分析を行う」・「政策決定に分析スタッフを積極的に活用する」・「軍事力とコストの両面からの軍備計画立案」・「データおよび分析結果を公開する」。 |
| マクナマラは、費用対効果の面で、B-52爆撃機の後継機として開発中であったXB-70の開発を中止した。 |
| 彼は、費用・効果・速度の面で、有人爆撃機は弾道ミサイルに及ばないと結論付けていた。 |
| 有人爆撃機は、操縦士のその場の判断による臨機応変の行動・柔軟な行動が可能という、ミサイルには無い利点を持っており、マクナマラの意見は一般論としては全面的に正解とは言えない。 |
| ただしXB-70に限って言えば、予めプログラムされた飛行コースしか飛べないこの機体は、有人爆撃機の弾道ミサイルに対する唯一の利点である柔軟性に欠けており、開発中止は正解であったと言える。 |
| 同様に、マクナマラは空中発射弾道ミサイル・スカイボルト(GAM-87)計画を1962年末に中止した。 |
| TFX計画は空軍の次期主力戦闘爆撃機、FADF計画は海軍の艦隊防空戦闘機の開発計画であり、空軍海軍両者とも要求仕様が全く異なるとして反対したのであるが、マクナマラは強引に計画を進めた。 |
| その結果完成したF-111は航空母艦での使用が不可能な大型機となってしまい、結局空軍機としてしか採用できず、無惨な失敗となって終わった。 |
| その後改めて開発されたF-14戦闘機は、専用の機体として開発された事でF-111よりも小型軽量化されている。 |
| 従ってこの機体の開発失敗は、元来の空軍の戦闘爆撃機としての要求仕様にも問題があり、マクナマラだけに失敗の責任を求める事はできない。 |
| またF-111は実際には空母への離着艦に成功しており、実際には海軍の小型軽量化の要求が過剰であったと言える。 |
| 軍人任せにするとコスト意識が希薄になったり、アフォーダビリテイ観念の欠落により必要数が揃わなくなりがちな軍事組織において、既に膨張し始めていた戦闘機の開発費用と調達コストを空軍・海軍共同開発によって削減・抑制しようとしたコンセプトは決して間違っていたとは言えない。 |
| 元々海軍の艦上機として設計開発されたF-4ファントムⅡを、空軍にもF-105サンダーチーフの代替機として採用させた事は、逆に結果として大成功となっている。 |
| 国防予算削減は、上院や下院からの激しい批判を受けた。 |
| 1つは、1961年4月に亡命キューバ人が主謀したピッグス湾事件である。 |
軍事介入増強
| ケネディ政権時代に始められたベトナム戦争は、マクナマラの大部分の時間とエネルギーを費やしたにもかかわらず、度重なる失策と方向転換によりアメリカに大きなダメージを与える結果となり、マクナマラの評判に大きく影を落とす結果になった。 |
| アメリカのトルーマンとアイゼンハワー政権は、1954年にフランスがベトナムから撤退して以降、資金援助と軍事アドバイスを中心に、南ベトナムの反共産政権へ協力してきたが、その規模は極めて限定的なものであった。 |
| しかしマクナマラが国防長官を務めたケネディ政権の期間中、南ベトナムに派遣されたアメリカの「軍事顧問団」の人数は、ケネディとマクナマラにより100人から約1万7千人に増加し、実質的には直接的な軍事介入に近い規模、内容になっていった。 |
| その後、南ベトナムの内政をめぐりケネディ政権と対立を続けた南ベトナムのゴ・ディン・ジェム大統領が1963年10月に暗殺され、さらにケネディも同年11月に暗殺された。 |
失策の末の辞任
| 1965年にジョンソン政権は、南ベトナムに置かれたアメリカ軍基地に対する南ベトナム解放民族戦線のゲリラ行動(アメリカ軍将校多数が殺害された)に対して、「北ベトナム軍の行動である」として北爆を開始した。 |
| マクナマラは、ケネディ政権時に国防長官としてベトナムへの軍事介入の拡大を行って以来、その後のジョンソン政権においても自らベトナムへの軍事介入の拡大を推し進めたが、後には自らが推し進めたベトナムへのアメリカ軍の戦力増強と、北ベトナムに対する北爆の強化で戦争に勝利できるかどうか懐疑的になりはじめていた。 |
| その後1968年11月29日にマクナマラの辞意と、世界銀行総裁への就任が発表される。 |
| 後年自らの著書において、ベトナム戦争を「北ベトナムの南部への侵略戦争」とする当時の自身の公式見解を覆し、「南ベトナム民衆による反乱・内戦であり、北ベトナム軍とその南の同盟者解放戦線による『人民戦争』であった」と位置づけている。 |
評価
| 一方で、1947年の国家安全保障法策定に関わったある議員は、マクナマラが国防省を去る時、「彼は、私たちが最初に提案した国防省のあるべき姿に一番近づける活動を行った」と述べている。 |
| 特に戦後の兵器開発に於いては、性能の優れた兵器は開発費が嵩み、単価が高くなって数が揃わなくなってしまう傾向が顕著になってきており、四軍や同盟国の類似の兵器開発計画を統合して重複する開発案件を整理して開発費を絞り、個別兵器の生産数を増やして量産効果を追求し「廉価で高性能」を追求する視点を導入した功績は大きい。 |
| しかし、現場の視点からすれば空軍の要求と海軍の要求には違いがあり、従来はそれぞれ特注の専用装備を支給されていたのに、共通装備の使用を求められ仕様要求に妥協を強いられた為に不満が生じるのは不可避であったし、基地のリストラを進めた彼の手法は冷酷に見えたであろう。 |
| しかしソ連にあってはGDP拡大に寄与しない国防費への過剰投資がソ連経済の成長率を押し下げ、遂には経済崩壊の原因となり、現状ロシアのGDPが中華人民共和国の1/3・日本の1/6の状態なのを見る限り(ミクロの視点では問題がありながらも)マクロの視点では大筋は正しく、旧来の軍の思考法から脱却できなかったソ連との明暗を別けたと見る意見もある。 |
その他
| デイヴィッド・ハルバースタムの『ベスト・アンド・ブライテスト』(1999年)で、ベトナム戦争を長期化・泥沼化させた張本人として描かれる。 |
| 清水多吉・石津朋之編『クラウゼヴィッツと「戦争論」』(彩流社、2008年)で、「戦争の中にゲーム理論やフォード流の経営管理システムを導入したことが、アメリカ軍の組織文化を破壊し、ベトナム戦争での敗戦を招いたこと」を述べている。 |
| フォード社から国防長官への転職の経緯を評して『彼が去った事はフォード社にとっては誠に幸いであった、しかしアメリカにとっては不幸の始まりであった』とアメリカの自動車評論家はNHK特集「自動車」のインタビューで述べている。 |
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1937年
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カリフォルニア大学バークレー校で経済学を専... |
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1940年
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ハーバード大学へ戻り、ビジネススクールで教... |
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