| イェーナに生まれ、祖父母の家の庭でサッカーを始めた。 |
| 故郷のFCカールツァイス・イェーナに入団し、1995年11月11日のハノーファー96戦で2.ブンデスリーガ(2部)デビューした。 |
| 正GKのマリオ・ノイマンが3試合で14失点したことからエベルハルト・フォーゲル監督はエンケにプレーするチャンスを与え、11月中に3試合に出場した。 |
| その後はノイマンが正GKに復帰し、エンケの出場機会はなかった。 |
| 1996年夏、ブンデスリーガ(1部)のボルシア・メンヒェングラートバッハに移籍し、最初の2シーズンは下部リーグに所属するU-23チームでプレーした。 |
| 1998-99シーズン開幕前に守護神のウーベ・カンプスが負傷したためにFriedelRausch新監督はエンケにデビューのチャンスを与え、1998年8月15日のシャルケ04戦でデビューして3-0と完封したが、すぐに控えGKに降格した。 |
| ボルシア・メンヒェングラートバッハが2.ブンデスリーガに降格したため、ドイツ人のユップ・ハインケスが監督を務めていたポルトガルのベンフィカに移籍した。 |
| 当時のベンフィカは混乱期にあり、在籍した3シーズンで監督が3回も代わった。 |
| クラブは財政的な問題を抱えており、選手への給料の遅配などもあった。 |
| リーグ戦は史上最低の6位に終わり、タイトルはひとつも獲得できなかった。 |
| それらの問題にもかかわらず、エンケは好プレーを続け、アーセナルFCやアトレティコ・マドリード、マンチェスター・ユナイテッドFCから関心が示された。 |
| 2002年6月にベンフィカとの契約が満了し、移籍金なしの3年契約でスペインの巨人FCバルセロナに移籍した。 |
| のちに彼はFCバルセロナのGKのことを「欧州でもっとも難しいGKのポジション」であると語っている。 |
| 在籍期間中は常にロベルト・ボナーノの控えGKであった。 |
| 2002年9月11日、コパ・デル・レイ3回戦のノベルダCF戦でデビューしたが、その試合で格下相手に敗れたことからチームメイトのフランク・デ・ブールに批判された。 |
| 2003年3月2日のCAオサスナ戦で最後の20分間だけ出場し、リーガ・エスパニョーラデビューを飾った。 |
| 欧州カップ戦にはクラブ・ブルッヘ戦とガラタサライ戦のUEFAチャンピオンズリーグ2試合に出場した。 |
| 2003年夏にルイス・ファン・ハール監督が退任してフランク・ライカールト監督が就任し、リュシュテュ・レチベルと入れ替わるようにしてドイツ人のクリストフ・ダウムが監督を務めていたフェネルバフチェにレンタル移籍した。 |
| しかし、2003年8月10日に行われたイスタンブルスポルとの1試合にしか出場できず、その試合も0-3で大敗した。 |
| ファンは試合中にライター、空き瓶、石などを投げ付け、敗戦の責任を押し付けた。 |
| このことから予定よりも早くスペインに戻ることとなった。 |
| 2003-04シーズンの冬にバルセロナに戻り、2004年1月にセグンダ・ディビシオン(2部)のCDテネリフェにレンタル移籍した。 |
| ここでは力強いプレーを見せ、ファンや他クラブから称賛された。 |
| 2004年7月、ブンデスリーガ(1部)のハノーファー96に移籍金なしの2年契約で移籍した。 |
| ここでは正GKに定着して成功を収め、キッカー誌の最優秀GKに選ばれた。 |
| より規模の大きいVfBシュトゥットガルトなどから注目を集めたが、2006年12月に2009-10シーズン終了後までの契約延長をしたことで他クラブへの移籍の可能性は消滅した。 |
| 2007-08シーズンにはチームメイトによって主将に選出され、2シーズンと少しの間主将を務めた。 |
| 2008-09シーズンは所属クラブが11位だったにもかかわらず、再びキッカー誌のベストイレブンに選出された。 |
| ハノーファー96では通算180試合に出場した。 |
| 最後に出場したのは2009年11月8日のハンブルガーSV戦で、この試合は1-1の引き分けだった。 |
| 2日後の11月10日に死去した。 |