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リヒャルト・ゾルゲ
ソ連軍のスパイである。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツ、日本の対ソ参戦の可能性等の... |
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井上勇
井上勇(いのうえいさむ、1901年4月30日-1985年)は日本の翻訳家、ジャーナリスト。 |
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徳田球一
日本の政治運動家、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代より戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記... |
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加藤周一
加藤周一(かとうしゅういち、1919年(大正8年)9月19日-2008年(平成20年)12月5日)は日本の評論家。医学博士。専門は内科学、血液学。上智大学教授、エー... |
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日本の政治家、文芸評論家。戦前の非合法政党時代からの日本共産党の活動家であり、戦後、1958年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した。... |
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日本の小説家。愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。血液型はA型。東京大学文学部フランス文学科卒。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受... |
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高木修
高木 修 たかぎ しゅう (造形作家) Shu TAKAGI 高松次郎『塾』修了 哲学者市川浩先生に師事 主なグループ展 1971年 「第2回国際彫刻展」箱根彫刻の森美術館 1... |
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丹下健三
丹下健三(たんげけんぞう、1913年(大正2年)9月4日-2005年(平成17年)3月22日)は日本の建築家、都市計画家。「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家とし... |
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久野収
日本の哲学者・評論家。大阪府堺市生まれ。1934年京都帝国大学文学部哲学科卒業。体系だった著作や、いわゆる「主著」と呼ばれるものがないものの、多くの評... |
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藤山愛一郎
藤山愛一郎(ふじやまあいいちろう、1897年5月22日-1985年2月22日)は日本の政治家・実業家。元外務大臣・経済企画庁長官。藤山コンツェルン二代目。 |
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大岡昇平
日本の小説家・評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。 |
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尾崎秀実
尾崎秀実(おざきほつみ、4月29日-11月7日)は日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。近衛文麿... |
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梶原一騎
日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は、高森朝樹(たかもりあさき)。高森朝雄(たかもりあさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題... |
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藤岡琢也
日本の俳優、声優。兵庫県姫路市生まれ。身長165cm、体重71kg。血液型はO型。兵庫県立姫路西高等学校卒業、関西学院大学文学部中退。 |
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梅棹忠夫
日本の生態学者、民族学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授。理学博士(京都大学、1961年)。 |
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菅野昭正
日本の文芸評論家・フランス文学者。東京大学名誉教授・日本芸術院会員。読売文学賞、伊藤整文学賞選考委員。 |
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プロフィール
- ロベール・ギランとは
- 特派員
- 日本へ
- 「アジア通」
- 死去
- 日本史との関わり
- ゾルゲ事件
- 共産党員釈放
- 叙勲
- 著書
- 関連項目
ロベール・ギラン(RobertGuillain1908年9月4日-1998年12月29日)はフランスのジャーナリストで、アジア、特に日本通として知られる。
特派員
| フランスのパリで生まれたギランは、大学卒業後に1934年にフランスのアヴァス通信社(その後のAFP通信社)に入社した。 |
| 入社後は本社勤務を行い、その後ロンドンへ特派員として駐在し、さらにその後日中戦争最中の中華民国の上海に派遣された。 |
日本へ
| 1938年には東京特派員(支局長)として日本へ派遣され、日中戦争下の日本国内において活発な特派員活動を行った。 |
| 1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まった後も、フランスに帰国せず日本に留まり活動を続けた。 |
| その後1940年にフランスがドイツの占領下に入ったものの、親ドイツのヴィシー政権が設立され日本との間に良好な関係を保ったために、1941年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と戦争状態になった後も、「友好国の特派員」として日本で特派員活動を続けた。 |
| しかし、1944年8月の連合国軍によるフランス全土解放とヴィシー政権崩壊に伴う、シャルル・ド・ゴール将軍率いるフランス共和国臨時政府の設立と、これを受けて1945年3月9日に日本軍によって行われた仏領インドシナのフランス植民地政府に対する武力制圧(「明号作戦」)のの結果、フランスと日本は交戦状態に入ったため、日本の公安当局によって他のフランス人とともに長野県軽井沢に軟禁される。 |
「アジア通」
| 終戦直後に解放された後には、原爆投下後の広島や長崎の惨状、さらにGHQ指揮下における政党活動の再興などをレポートしつつ1946年まで日本に在住する。 |
| その後いったんフランスに戻ったものの、再度日本に戻り、ル・モンド紙の特派員として日本に在住を続けた。 |
| その後日本人女性と結婚し、日本を拠点にインドシナ戦争やベトナム戦争、文化大革命を取材するなど、「ヨーロッパ有数のアジア通のジャーナリスト」としてその名を知られるようになり、その生涯を通じてアジアの地でジャーナリスト活動を行う。 |
| だが、一方では著書"LaGuerreauJapon"(1947年)において、神道を中傷し、日本への空襲を正当化するなど戦時中の日本を誹謗するという二面性をかね備えていたことがレジスタンス出身の元パリ・マッチ特派員アルフレッド・スムラー( |
死去
| 晩年も日仏間を活発に行き来しつつ執筆活動を続け、多くの著書を残した。 |
| 1998年にパリの郊外の病院で死去した。 |
| ギランの死後、ギランも会長を務めていた日仏記者会は、自らが主催するジャーナリストに対する賞に、ギランの功績を称え「ロベール・ギラン賞」と命名した。 |
日本史との関わり
| 第二次世界大戦前夜から日本に拠点を置いて活躍していたギランは、戦前から戦後にかけて起きた日本史に残る大きな事件のいくつかに重要な脇役、もしくは当事者として登場している。 |
ゾルゲ事件
| 1941年に発覚した日本最大のスパイ事件「ゾルゲ事件」では、主犯のソ連のスパイでドイツの新聞社の特派員であったリヒャルト・ゾルゲのスパイ活動における助手のユーゴスラビア人の、ブランコ・ド・ヴーケリッチと同じアヴァス通信社にいた上、ギラン自身がゾルゲやその他の多くの関係者(その多くはヨーロッパ各国から派遣されたジャーナリストや外交官であった)と知り合いであったことから、関係者として事情聴取されている。 |
| ギランは、ゾルゲ事件の当事者や関係者と近しい関係にあったものの、祖国を侵略した「ドイツの記者」のカバーで活動していたゾルゲとは微妙な関係にあった上、ゾルゲの本当の祖国であるソ連、そして共産主義を嫌っていたため、事件に連座することはなかった。 |
| また、ゾルゲやド・ヴーケリッチが逮捕されるまで、彼らの真の姿を見破ることはできなかった。 |
| ただし、ギランはヴーケリッチの記者としての能力や人間性を高く評価しており、戦後ヴーケリッチが諜報団のメンバーであったことが疑う余地のない事実と知った後も「わたしのヴケリッチに対する気持は変らなかった。 |
| (中略)ヴケリッチへの友情に加えて、そのときわたしは、彼が身をもって証しをたてた勇気に讃嘆の念を覚えたのだった。 |
| たとえ、ヴケリッチのコミュニストとしての信条は絶対に受け入れられないということはあるにしてもだ」と記している『ゾルゲの時代』p175。 |
| ギランは本書を著した理由の一つに「これまで事件について書かれたもののなかで正当な評価を受けていないと考えられるブランコ・ド・ヴケリッチの復権を願った」ことを挙げている(p197-198)。 |
| あらゆる戦争を憎む」と苦悩した姿で告げられたことを記している『ゾルゲの時代』p48-52。 |
| ギランによると、ゾルゲと長い話し合いをしたのはこれが唯一の機会だった。 |
| ギランはゾルゲとその協力者について、「ゾルゲとその部下の諜報網は、ヒトラーの独裁に抗し、自由のために闘ったのだ。 |
| (中略)たしかに私は共産主義を嫌悪するが、共産主義者のゾルゲが自由の擁護者であったときもあるのは認めなければならない。 |
| さらにわたしは、ヴケリッチもゾルゲも、わたしを彼らの闘争の圏内にひき入れようとしたことは一度もなかったと明言できる。 |
| つまり、彼らがわたしにスパイ活動をさせようとしたり、共産主義に引き入れようとしたことはなかったのだ。 |
| (中略)彼らがスパイであり共産主義者であったことで、彼らの勇気と犠牲に対してわたしの抱いている讃嘆の念がかげったことはまったくなかった」と評価している『ゾルゲの時代』p112-113。 |
| ギランは、戦後になって自らとゾルゲ事件とのかかわりを自書で証言しているほか、日本経済新聞やNHK『歴史への招待』をはじめとする多くのメディアでも証言している。 |
共産党員釈放
| 1945年8月には、独自の取材ルートから、第二次世界大戦前に「思想犯」として逮捕、投獄されていた日本共産党のリーダーである徳田球一や志賀義雄が府中刑務所にいることを突き止め、連合国軍の将校のふりをしてニューズウィーク誌の記者らと府中刑務所に乗り込み、抵抗する看守らを尻目に刑務所内から自らの手で探し出し釈放することに貢献した。 |
著書
| 生涯を通じてアジア、特に日本についての著書を多く出している。 |
| 『第三の大国・日本』井上勇との共著、1969年。 |
| 『ゾルゲの時代』三保元(翻訳)中央公論社、1980年。 |
| 『アジア特電1937~1985―過激なる極東』矢島翠(翻訳)毎日新聞社、1986年。 |
| 『日本人と戦争』根本長兵衛・天野恒雄との共著朝日文庫、1990年。 |
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フランスのアヴァス通信社(その後のAFP通信... |
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東京特派員(支局長)として日本へ派遣され、... |
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