| その後もフィニョンはマイヨを守りきり、初出場で総合優勝の快挙を成し遂げた。 |
| 翌1984年、イノーがラ・ヴィ・クレールチームを立ち上げることとなり、ルノーを離れたことから、名実ともにフィニョンがルノーのエースとなった。 |
| フィニョンは同年のジロ・デ・イタリアでは最終ステージの個人タイムトライアルにおいて、フランチェスコ・モゼールに逆転され総合2位に終わった(後述するが、フィニョンは1989年のツールでも同様の形で逆転負けを喫することになる)が、イノーとの頂上対決となったツールではアルプス超えステージでイノーを圧倒し、最終的にイノーに10分以上の差をつけてツール2連覇を果たした。 |
| またこの年、フランス国内選手権も優勝したことから、{{要出典範囲|これからはフィニョンの黄金時代が到来するものと誰もが思った。 |
| ところが1985年、フィニョンはシーズン当初から膝の故障に悩まされ、ほとんどレースに出ることなくシーズンを終えた。 |
| イノーのダブルツール達成を戦うことなく許してしまったフィニョンは1986年、チームが解散したルノーからシステムUに移籍した。 |
| 同年はフレッシュ・ワロンヌを制す。 |
| そして意気揚々と挑んだツールにおいて、序盤はイノー、グレッグ・レモン擁するラ・ヴィ・クレール勢を圧倒した。 |
| ところが膝の古傷はまだ完全には治っていなかった。 |
| つまり{{要出典範囲|本来ならばこの年のツールも出場できる状態ではなかったのだが、イノーがこの年をもって引退することから、半ば強行出場したのである。 |
| しかしそのことが次第にステージを消化していくうちに露呈してしまう。 |
| ピレネー越えの最初のステージで、イノーは単独で再三アタックをかけ、完全にフィニョンを潰した。 |
| イノーのこのアタックに対し、明らかにレモンに対しての挑発行為ではないかという声も上がり、レモンもイノーの行動に不快感を寄せるが、イノーがこうした行動を取った要因として、{{要出典範囲|元チームメイトであり、しかも一時は自身の時代を終焉に追い込みかけたフィニョンをまずは潰すことが先決だと考えられたゆえの作戦だったと考えられる。 |
| しかしながら、{{要出典範囲|イノーが引退した後のロード界を牽引するのは、86年のツールを制したレモンではなくフィニョンであるという声は依然として大きかった。 |
| 1987年のツールでは序盤で大ブレーキを起こして早々に優勝争いから脱落。 |
| 途中でチームメイトのアシストに回る始末。 |
| 翌1988年はミラノ~サンレモを制し期待されるも、ツールでは昨年に引き続き序盤で大ブレーキとなり、途中リタイアしてしまった。 |
| しかし1989年、フィニョンは過去4年に亘る不甲斐ない実績を払拭するべく、シーズン序盤から大活躍。 |
| ミラノ~サンレモを連覇し、ロンド・ファン・ネーデルランドも制した。 |
| そして5年前に寸前のところで総合優勝を果たせなかったジロでは第14ステージからマリア・ローザを守りきって悲願の総合優勝を果たす。 |
| そして、{{要出典範囲|ダブルツール達成も大いに期待された。 |
| この年のツールでは、3年ぶりに出場したレモンが予想以上の活躍を見せ、序盤からマッチレースの様相を呈した。 |
| 個人タイムトライアルの区間ではレモンにマイヨを譲るものの、ピレネー、アルプスの山岳ステージではフィニョンが奪い返すといった形の繰り返しだった。 |
| そしてフィニョンは第20ステージを終えてレモンに50秒の差をつけていた。 |
| しかし最終ステージは個人タイムトライアル。 |
| 序盤からハイペースで飛ばすレモンに対し、フィニョンもそれなりの走りは見せるものの、レモンのスピードがあまりにも違いすぎた。 |
| 26分57秒で走り終えたレモンに対し、27分46秒でフィニッシュすればフィニョンの優勝だったが、フィニョンのタイムは27分55秒。 |
| 区間3位の成績と決して悪い成績ではなかったが、フィニョンはわずか8秒差をもってレモンの後塵を拝した。 |
| ちなみに、翌年からは最終ステージは半ば総合優勝者の凱旋パレードのような形に戻された。 |
| ひいては今日に至るまでこの形は崩れていない。 |
| {{要出典範囲|それくらい、フィニョンが最後の最後で敗退した悲劇が尾を引いているのである。 |
| しかしながらフィニョンはこの年、シーズン終盤のグランプリ・デ・ナシオンも制した。 |
| ツールでは残念な結果に終わったが、シーズン全体を振り返るとフィニョンにとって、{{要出典範囲|1989年はレースキャリアとして最良の年だったといえる。 |
| その後、フィニョンはカストラマ、ゲータレードと所属チームを変遷するも、1990年にデビュー年以来2度目となるクリテリウム・インテルナシオナルを優勝した以外にこれといって特筆すべき成績は収められず、1993年に引退した。 |
| システムUがタイムトライアル向けのエアロヘルメットを導入した際に、これを初めて着用した選手である。 |
| 当時システムUはそのアイデアの斬新さに、他のチームから「次はモーター駆動のマシンを持ち込むに違いない」とまで揶揄された。 |
| サイクルスポーツ2009年6月13日付記事 |
| 2010年7月19日、ツール・ド・フランスの第15ステージの表彰式では敢闘賞の特別表彰を受け、健在ぶりを見せていたが、その後2010年8月31日に死去した。 |