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つながりの強いひと
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一条兼良
室町時代の公卿・古典学者。名は一般にはかねらと読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関... |
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本居宣長
江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵、自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたこ... |
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黒川道祐
江戸時代初期の医者であり、歴史家である。 |
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尋尊
室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。父は一条兼良。母は中御門宣俊の娘。興福寺180世別当。大乗院第20代門跡。永享10年(1438年)室町幕府か... |
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徳川忠長
江戸時代初期の駿府藩主。江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の三男。母は浅井長政の娘で正室の江。同母兄に第3代将軍・徳川家光。極位極官が従二位権大納言で、領... |
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徳川秀忠
安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府第2代征夷大将軍。 |
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宗祇
室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾(いのお/いいお)というが定かではない。生国は、紀伊とも近江とも言われている。 |
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藤原定家
鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中... |
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保科正之
江戸時代の大名。会津松平家初代、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。 |
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ヨハネス・ブラームス
19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者である。バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)と共に、ドイツ音楽における「三大B」とも称される。ハンブ... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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インノケンティウス10世
ローマ教皇(在位:1644年-1655年)。本名はジョバンニ・バッティスタ・パンフィリ(GiovanniBattistaPamphili)。前教皇の方針を確認し、ジャンセニスムを弾... |
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ロバート・ブラウニング
イギリスの詩人。詩人エリザベス・ブラウニングの夫であり、彫刻家ロバート・バレット・ブラウニングの父。正規の学校教育を受ける機会はわずかであった。184... |
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伊勢貞丈
江戸時代中期の旗本(幕臣)・有職故実研究家。江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。父は伊勢貞益、兄に貞陳。子に娘(伊勢貞敦室)。幼名は万助、通称は兵庫、平蔵... |
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北畠親房
北畠親房(きたばたけちかふさ、正応6年1月29日(1293年3月8日)-正平9年/文和3年5月10日(1354年6月1日))。南北朝時代の公卿。著書『神皇正統記』で名高い。 |
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後深草天皇
鎌倉時代の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日)-正元元年11月26日(1259年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 |
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後嵯峨天皇
鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日)-寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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ウォルター・クライスラー
アメリカン・ロコモティブ社(アメリカ機関会社:ALCO)が自動車業界への参入を決定したときに始まる。当時、ALCO社は多様化の一環として自動車製造に参入し... |
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高村光太郎
日本の詩人・彫刻家。東京府下谷区(現在は東京都台東区)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。本職は彫刻家・画家であるが、今日では『道程』、『智... |
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プロフィール
一條教房の墓 (四万十市中村丸ノ内) ■ 教房は応永30年(1423)一條兼良の長子として生まれました。大臣を経て長禄2年(1458)関白となり寛正4年(1463)その職を辞しました。
■ 応仁の乱で京都を離れた教房は幡多の荘園の回復のため応仁2年((1468)10月中村に下向。最も京に似る中村に御所を置き、京に擬して四神相応の土佐の主都にふさわしいまち造りを進める一方、京文化の移入をはかるなど、その功績は極めて大きいものでした。
■ 土佐一條氏の開祖で、在国13年文明12年(1480)10月5日、58才で没しました。 玉姫の墓 (四万十市中村新町) ■ 玉姫は土佐一條氏ニ代房冬の夫人で、式部卿伏見宮邦高親王の王女です。大永元年(1521)6月一條房冬に嫁ぎ、三代房基の母となりました。
■ 天文10年(1541)房冬の死後落飾して仏門に帰依せられ ... もっと見る
一條教房の墓 (四万十市中村丸ノ内) ■ 教房は応永30年(1423)一條兼良の長子として生まれました。大臣を経て長禄2年(1458)関白となり寛正4年(1463)その職を辞しました。
■ 応仁の乱で京都を離れた教房は幡多の荘園の回復のため応仁2年((1468)10月中村に下向。最も京に似る中村に御所を置き、京に擬して四神相応の土佐の主都にふさわしいまち造りを進める一方、京文化の移入をはかるなど、その功績は極めて大きいものでした。
■ 土佐一條氏の開祖で、在国13年文明12年(1480)10月5日、58才で没しました。 玉姫の墓 (四万十市中村新町) ■ 玉姫は土佐一條氏ニ代房冬の夫人で、式部卿伏見宮邦高親王の王女です。大永元年(1521)6月一條房冬に嫁ぎ、三代房基の母となりました。
■ 天文10年(1541)房冬の死後落飾して仏門に帰依せられますが、天文16年(1547)8月22日病死。墓は新町3丁目の常照寺跡にありますが、寺は明治維新の廃仏棄釈で廃寺となりました。 一條神社 (四万十市中村本町) 一條神社 (四万十市中村本町) ■ 一條神社は、文久2年(1862)、中村御所跡の小森山山頂にあった一條家御廟所跡に、土佐一條氏の遺徳を偲ぶ有志によって建立されました。土佐一條氏は前関白一條教房に始まり、以後4代、中村の文化、経済の発展に力をそそぎました。この神社には教房の父、兼良を始め、土佐一條氏歴代の霊を祀っています。
■ 市民には、「いちじょこさん」と親しまれ、毎年11月に行われる大祭は、土佐の三大祭の一つに数えられています。現在の社殿は、昭和19年(1944)の建立です。 不破八幡宮 (四万十市不破) ■ 不破八幡宮は、今より520年前一條公が応仁の乱を避け荘園経営のため中村に開府のとき、幡多の総鎮守として、また一條家守護神として山城国石清水八幡宮を勧請したもので、正八幡、広幡八幡といわれます。
■ 神社祭典にはいろいろあり、当時盛んに行われた「嫁かつぎ」等の風習を矯正するため八幡宮と一宮神社結婚式を祭典神事にて行っています。こうして神事を通じて庶民大衆の生活指導を行ったものであるといわれています。 御化粧の井戸 (一條神社内) 御化粧の井戸 (一條神社内) ■ 一條家が使ったと伝えられる7つの井戸の内、現存する唯一の井戸です。女官、侍女たちがお化粧のために使用したので「お化粧の井戸」と呼ばれるようになったと伝えられています。井戸の枠は、一枚岩をくりぬいたもので当時の一條家の権勢を物語っています。
■ 一條神社にそのままの形で残っており、水深は約5mで、井戸水は今日まで枯れたことがありません。 咲かずの藤 (一條神社参道藤棚) ■ 土佐一條氏は邸内に藤見の館「藤遊亭」を建て、家紋でもある藤をこよなく愛したと伝えられています。土佐一條氏第四代当主一條兼定は、長宗我部氏に追われ、館を離れるにあたり、「植え置きし 庭の藤が枝 心あらば 来む春ばかり 咲くな匂ふな」と歌を残して去り、この藤はその後約三百年間花をつけませんでした。
■ しかし、文久元年(1867)、この藤が見事に咲きほころび、このことが翌年の一條神社建立の発端となりました。 戻る
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