| 大正8年(1919年)、万年東一の父が東京の親戚の事業を手伝うことになり、万年一家は上京した。 |
| 同年、万年東一の父が手伝った事業は失敗し、万年東一の父は裁判所の書記官に任官した。 |
| 万年一家は、京王線の沿線に住んだ。 |
| 大正13年(1924年)4月、万年東一は、東洋商業学校(後の東洋高等学校)に進学した。 |
| 万年東一は、京王線の線路伝いに歩いて新宿に出ていたが、途中で会った不良と喧嘩を繰り返した。 |
| 昭和2年(1927年)4月、万年東一は、東京高等工商学校(後の芝浦工業大学)に進学した。 |
| その後、万年東一は、東京高等工商学校のボクシング部に所属した。 |
| その後、万年東一は、大和拳闘倶楽部その後「国光拳闘倶楽部」と改称。 |
| 後の中村ジムを創設した。 |
| 新宿渋谷の不良の頭目・万年東一、万年の舎弟で恵比寿の不良の頭目・田村安太郎、万年の舎弟で中目黒の不良の頭目・小池農夫雄が、大和拳闘倶楽部を主宰した。 |
| 昭和5年(1930年)ごろ、大和拳闘倶楽部には、小林光也(通称は小光。 |
| 「人斬り小光」、「村雨の光」とも呼ばれた)、斉藤光也(通称は大光。 |
| 「ジャジャ馬の光」とも呼ばれた)、慶應義塾大学学生の宮崎秋夫(通称は小桜の秋)、日本大学水泳部の学生の内富義之、元トラック運転手の八重野勝雄(通称はオートンの勝)、幽霊の政、抜剣の文、花魁の政、フランス政、小桜の茂、小桜の謙が集まり、万年東一の舎弟となった。 |
| このころ、万年東一の愚連隊が形成された。 |
| 万年一派は、小池農夫雄の新婚所帯場所だった中目黒の「アサクラアパート」を本拠として、他の愚連隊と喧嘩を繰り返した。 |
| 同年7月10日、警視庁は、麻雀屋の新設を禁止した。 |
| 万年東一は、新しい麻雀屋を開拓できなくなった。 |
| 同年11月24日、警視庁は、エロ演芸取締規則を、各警察署に通知した。 |
| 盛り場の快楽を求める万年東一ら愚連隊には、打撃を与えた。 |
| 昭和6年(1931年)、万年東一は、東京高等工学校を卒業し、明治大学に入学した。 |
| 昭和7年(1932年)、万年東一は、明治大学を中退した。 |
| 同年、万年東一は、父から金を借りて、玩具製造会社とタクシー会社を立ち上げた。 |
| 万年東一の玩具製造会社とタクシー会社は、従業員に金を持ち逃げされて、倒産した。 |
| 以後、万年東一は「銭儲けはやめる」と決意した。 |
| 昭和8年(1933年)1月21日、警視庁は、バー・カフェ・喫茶店などを対象に、特殊飲食店営業取締規制を発布した。 |
| 万年東一ら愚連隊は、溜まり場を失った。 |
| 同年、万年東一は、四代目小金井一家・平松兼三郎総長(通称は台湾兼、水車兼、ブル兼)から「万年東一を跡目養子にしたい」という申し出を受けたが、断った。 |
| 平松兼三郎は、横浜の博徒一家の代貸で、東洋拳闘協会会長・鈴木武雄を跡目養子にし、万年東一に、鈴木のボディガードを依頼した。 |
| 万年東一は、ボディガード役を了承した。 |
| 同年秋、万年東一一派は、新宿2丁目の六間道路から四谷方面に入ったアパート「文化ハウス」の2階に拠点を移した。 |
| 万年東一は、舎弟たちに1日3回の喧嘩を目標とさせた。 |
| 昭和9年(1934年)、新宿の愚連隊の首領・山崎松男(通称は爆弾マッチ)が、小金井一家に対して、賭場の開帳を要求した。 |
| 平松兼三郎は、山崎松男の行為を非難し、万年東一に「最近の愚連隊はうるさくていけないな」と語った。 |
| 万年東一は、山崎松男との対決を決断した。 |
| 同年8月2日『愚連隊伝説』洋泉社、1999年、ISBN4-89691-408-2のP.36では、「昭和9年(1934年)8月2日」と書かれているが、宮崎学『不逞者』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、1999年、ISBN4-87728-734-5のP.49では「昭和9年(1934年)8月2日もしくは同年8月13日」と書かれている夕方、新宿2丁目の六間道路の喫茶店「オーライ」にいた小林光也と斉藤光也が、カフェ「黒猫」前にいた山崎松男と山崎松男一派を発見した。 |
| 山崎松男たちは、鈴木武雄を取り囲み、因縁をつけていた。 |
| そのときは、雨が降っていた。 |
| 小林光也と斉藤光也は、「文化ハウス」に戻り、日本刀と短刀を持ち出して、カフェ「黒猫」前に行った。 |
| 斉藤光也が、日本刀で、山崎松男の左手首を切り落とした。 |
| 小林光也は、短刀で、山崎松男の舎弟1人の腹を刺した。 |
| 同日、万年東一、斉藤光也、小林光也は、淀橋警察署に自首した。 |
| 同年、右翼団体風雲倶楽部主宰者・千々波敬太郎が、大和拳闘倶楽部のマネージャーを通じて、万年東一に面会を求めてきた。 |
| 千々波敬太郎は、東京芝三田功運町で柔剣道の鍛錬場「光風塾」を経営していた。 |
| 万年東一は、千々波敬太郎と会談し、風雲倶楽部と提携した。 |
| 万年東一は、万年東一の若衆を光風塾に住み込ませ、鍛錬に参加させた。 |
| 小林光也、斉藤光也、宮崎秋夫らは、右翼活動に反対し、万年東一の元から去った。 |
| 最終的に、内富義之、八重野勝雄、山田勇吉の3人だけが、万年東一の元に残った。 |
| 同年12月21日、番町地方裁判所で、万年東一には懲役2年執行猶予3年の判決、斉藤光也には懲役5年の実刑判決、小林光也には懲役4年の実刑判決が下された。 |
| 同日、万年東一は、番町地方裁判所を出ると、平松兼三郎ら100人ほどの小金井一家の者から迎えられた。 |
| その後、新宿2丁目六間道路の料亭「鳥源」2階座敷で、平松兼三郎らとともに、万年東一の釈放祝いが行なわれた。 |
| 山崎松男は、コルト・レボルバー38口径を持って、「鳥源」に侵入し、2階への階段を上がるときに、万年東一の若衆に発見された。 |
| 山崎松男は、万年東一の若衆をコルトの銃把で殴り倒し、銃弾を1発発射した。 |
| 内富義之は、座敷の小火鉢を抱えた。 |
| 山崎松男は、階段を駆け上がり、八重野勝雄を銃撃した。 |
| 銃弾は、八重野勝雄の太腿に命中した。 |
| 内富義之は、小火鉢を山崎松男に投げつけ、命中させた。 |
| 山崎松男は、拳銃で2発乱射したが、柱と壁に当たっただけだった。 |
| 山崎松男は、平野兼三郎と万年東一を撃たずに、拳銃を捨てた。 |
| 数日後、新宿大木戸の料亭で、万年東一と山崎松男は和解した。 |
| 昭和13年(1938年)3月3日、安部磯雄襲撃事件が勃発した。 |
| 昭和14年(1939年)10月、召集されていた斉藤光也が、兵営から脱走した。 |
| 万年東一や小林光也は、一緒になって、斉藤光也を探した。 |
| 同月、斉藤光也は、熱海の袖ヶ浦の崖から、愛人とともに、投身自殺した。 |
| 同年11月、小林光也は、東北地方を回り、興行師の修行を始めた。 |
| その後、万年東一は、軍属となり、上海特務機関の一員として、上海に渡った。 |
| 昭和15年(1940年)秋、万年東一は、上海から東京に戻り、愚連隊に戻った。 |
| 万年東一は、新宿と銀座を拠点とした。 |
| 万年東一は、銀座4丁目教文館ビル1階の喫茶店「不二アイス」を愚連隊の溜まり場とした。 |
| また、新宿では、新宿4丁目の喫茶店「牡丹」(通称は地獄谷)が、万年東一の拠点となった後に、安藤昇と加納貢が新宿に進出すると、安藤と加納は喫茶店「牡丹」を拠点とした。 |
| このころ、万年東一は、銀座4丁目の喫茶店「ムーン」で働いていた睦美(後の万年夫人)と知り合った。 |
| このころから、万年東一は、東京中野の借家に住んだ。 |
| 昭和16年(1941年)12月、小林光也が新宿に戻った。 |
| 小林光也や安藤昇(後の安藤組組長)が、万年東一の出征を見送った。 |
| 同年、渋谷宇田川町の闇市の一画に、華僑総本部が作られた。 |
| その後、渋谷警察署署長・土田精(後の警察予備隊初代隊長)は、渋谷警察署署員に命じて、華僑総本部が闇市で販売している禁・統制品物資を没収し、不法建築家屋を取り壊した。 |
| 同年3月、東京下北沢の屋台で、下北沢の愚連隊「下北沢グループ」(首領は安藤昇と加納貢)の黒木健児と野田克己が、テキヤ三田組(組長は三田剛造。 |
| 同月、下北沢駅前で、下北沢グループが、三田組組員と喧嘩になり、加納貢、野田克己、黒木健児らが三田組組員を叩きのめした。 |
| それを知った三田剛造の舎弟・沢野哲也は、配下の三田組組員とともに、東北沢で、黒木健児と野田克己を襲った。 |
| 昭和22年(1947年)、万年東一の妻が肺結核で死亡した。 |
| 昭和23年(1948年)4月8日、東宝・渡辺銕蔵社長が、東宝砧の東宝撮影所従業員270人を突然解雇した。 |
| その後、万年東一は岡崎英城の紹介で、実業家の安藤明の用心棒を務めた。 |
| 昭和27年(1952年)、喫茶店「白十字」で、万年東一は、安藤昇に、落合一家・高橋岩太郎総長を紹介した。 |
| 昭和28年(1953年)、万年東一は、実業家の横井英樹から百貨店白木屋乗っ取りへの協力を依頼されて快諾した。 |
| 一時期、万年東一は、名古屋市のヤクザ・荒巻しゅうしゅうは偏が「王」で、旁が「秀」に匿ってもらった。 |
| その後、島崎栄治が、月刊住宅雑誌『マイハウス』(『マイハウス』は一般書店でも販売された)を発行し、企業から雑誌への広告料名目で多額の金を奪い取り、総会屋活動を始めた。 |
| 昭和43年(1968年)、松永高司が全日本女子プロレスを設立すると、万年東一は初代会長に就任した。 |
| 昭和44年(1969年)6月、万年東一は右翼団体「大日本一誠会」を結成した。 |
| 昭和49年(1974年)、万年東一は埼玉県所沢市の建売住宅を購入した。 |
| 昭和55年(1980年)、万年東一は、日本郵船から、株主総会で他の総会屋を抑えるように依頼された。 |
| 昭和60年(1985年)3月、万年東一は、所沢市の自宅で倒れ、救急車で所沢の病院に運ばれ、入院した。 |