| ただ、「萬迴」という語だけは口にしていたので、よって彼の字とした。 |
| なおかつ、暑さ寒さの別なく、下賎な者を侮ることなく、金持ちたちには礼を尽くすことがなかった。 |
| 東へ西へと奔走するばかりで、それが終日やむということがなかった。 |
| その様は、ある時は笑いある時は泣き、ほぼ決まった容貌というものがなかった。 |
| 口角には常に泡を浮かべており、人々は皆奇異に感じていた。 |
| 華奢なことを好まず、言葉を発することも稀であったが、言葉を出せば、それは必ず予言の体をなしており、事実が起こってから明らかになるということがあった。 |
| 万廻が10歳の時、兄が辺境の守備に派遣されたが、長い間安否が不明になってしまった。 |
| 母親は非常に憂えて、斎を設けて福を祈った。 |
| 万廻がたちまち母に「兄は大丈夫、とてもよくわかる。 |
| どうして憂えているの?」と言った。 |
| その晩、万廻の姿が見えなくなったが、すぐに戻り、兄の書信を持って来て「大丈夫だった」と言った。 |
| 問い質しても何も答えなかったが、その後、兄が戻って言うには、その日に万廻がやって来て、餅を置いて帰ったということが判明し、家中が大いに驚いた。 |
| それより人々の万廻に対する見方が一変し、その名声が朝廷にまで聞こえるようになった。 |
| 中宗皇帝は謁見して尊崇し、神龍2年(706年)に勅して、特に万廻を一人だけ得度させることを認めた。 |
| 高宗の末年以来、武則天は内道場に入れて尊崇した。 |
| 閿郷の興国寺には石塔があったが、万廻の入内後、光を放つようになった。 |
| ただ、万廻の所作は相変わらず不明なものであったが、言葉を出せば必ずその根拠となることがあった。 |
| 勅して法雲公の号を賜った。 |
| その先、則天は酷吏を用いて恐怖政治を行なっていた。 |
| 宰相の崔玄暐の身辺にも危険が迫った時、その母の盧氏が玄暐に「万廻をお迎えするのです。 |
| この僧は宝誌の流であり、その挙措を見れば、自らの禍福を知ることができるのです」と言い、家に迎えさせた。 |
| 結果、家の中から予言書を得ることができ、それを焼いた。 |
| そのお蔭で、家宅捜索にあっても何も見つからず、酷吏たちが使うワナを未然に防ぐことができた。 |
| 僧伽という僧が西域より渡来した時、中宗が万廻に何者かと問うと、「観音の化身です」と答えた。 |
| あるいは、玄奘三蔵がインドの石蔵寺で空房と空席があるのを見て、その僧房の大徳に聞くと、「その僧は法事を欠いたことで罰せられて東方におり、震旦国(中国)の閿郷にいる、萬迴がその人である」と答えた。 |
| 中国に戻った玄奘が万廻宅を訪ねたところ、その母が知らしてもいないのに、僧を迎える準備をして待っていた。 |
| といった類の話が知られている。 |
| 即位前の玄宗皇帝がお忍びで万廻の所を訪ねると、万廻は何度もその背を撫でて「五十年天子自愛、以後は知らぬ」と言った。 |
| それより50年後とは、安史の乱に当たる。 |
| 巷には、万廻に仮託した「小万廻」が現れ、市里を惑わしたが、多くの者が誅殺された。 |
| 万廻の没後、徐彦伯が碑を造り、閿郷の玉澗西路に建てた。 |
| その没年に関しては、『宋高僧伝』の本伝には記述が無いが、『太平広記』に引用されている『談賓録』と『両京記』の2書には、「景雲中に卒す」とある。 |
| 『六学僧伝』では「景龍2年(708年)に卒す」とあり、『仏祖歴代通載』には「景隆元年に卒す」とあるが、ここでは、『景徳伝灯録』巻27の記述によって記している。 |