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つながりの強いひと
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細川晴元
室町時代末期(戦国時代)の武将・戦国大名。細川氏本家京兆家当主。父は細川澄元、母は清泰院。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄・本願寺法... |
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三好長慶
戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津守護代、相伴衆。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流... |
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細川高国
戦国時代の武将、大名。室町幕府管領、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏庶流である野州家の生まれであったが、本家を追い落として自ら権力を握った... |
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三好之長
戦国時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏の流れを汲む小笠原氏の庶流にあたる。諱の之長は、阿波の守護・細川成之の... |
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木沢長政
戦国時代の武将。河内、山城南部の守護代。官位は従五位下左京亮。河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。木沢右近、木沢又八郎は一族と思われる。 |
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足利義晴
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年-1546年)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪。 |
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松永久秀
戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永弾正(まつながだんじょう)の別名でも知られている。出身地は山城国とも播磨国ともいわれる。父は不... |
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足利義維
室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男。第10代将軍・足利義稙の養子。第14代将軍・足利義栄の実父。堺公方・平島公方と呼ばれた。生母は斯波氏。 |
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三好義賢
戦国時代の武将。三好長慶の弟にあたる。別名、実休(じっきゅう)ともいう。 |
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畠山義堯
戦国時代の武将、守護大名。河内・山城の守護で室町幕府管領。畠山総州家5代目。大永6年(1526年)、一時的とはいえ室町幕府管領となる。その後、義兄弟でも... |
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三好政長
戦国時代の武将。三好氏の一族。三好勝時の次男で、勝長の弟。通称は神五郎、官位は越後守。後に出家し半隠軒宗三と称す。子に政勝、娘(池田信正室)。従甥... |
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浦上村宗
浦上村宗は備前・美作・播磨の戦国大名。浦上宗助の子(則宗の実子とする家系図も)。 |
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柳本賢治
戦国時代の武将。弾正忠を称する。波多野秀長の子で、波多野稙通は兄、香西元盛は弟に当たる。細川高国の家臣で弟の香西元盛が摂津分郡守護の細川尹賢に殺害... |
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三好長秀
戦国時代(室町時代後期)の武将。細川氏の重臣。 |
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顕如
戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺第十一世。妻(裏方)は三条公頼の三女の如春尼。子に教如・顕尊・准如がいる。 |
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証如
戦国時代の浄土真宗の僧。本願寺第10世法主。本願寺第8世法主蓮如の曾孫。 |
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三好康長
戦国時代の武将。三好長秀の子で、元長の弟。別名に康慶。笑巌(笑岩)(しょうがん)の号で知られる。 |
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波多野稙通
戦国時代の武将。丹波の国人波多野氏当主。波多野秀長の子。柳本賢治、香西元盛は弟。子に波多野晴通。波多野秀忠とは同一人物か?西丹波を支配する一国人に... |
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プロフィール
- 三好元長とは
- 出自
- 挙兵、政権奪取
- 退去、再び畿内へ
- 主君との対立
- 最期
- 死後
- 参考文献
- 関連項目
三好元長(みよしもとなが)は、戦国時代の阿波国の武将。
挙兵、政権奪取
| 永正17年(1520年)、三好氏の総帥であった之長は細川高国に敗れた際に処刑されており、その世子であった長秀はそれ以前に戦死していた。 |
| このため、之長の直系であった元長が三好氏の新たな総帥となったものの、高国への反撃に出られぬまま阿波において細川澄元の遺児六郎(後の晴元)と共に逼塞していた。 |
| 将軍に返り咲かせた足利義稙との仲違いに陥ろうとも、新将軍に足利義晴を据える事で磐石を保とうとした高国の独裁政権は、大永6年(1526年)7月に細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺した事から綻びを見せた。 |
| 謂れの無い上意討ちに元盛の2人の兄波多野稙通、柳本賢治が丹波で造反するも、高国の政権は鎮定できぬほど軍事力の弱さを露呈したのである。 |
| これを好機と捉えた元長達は、同年10月に阿波で挙兵。 |
| 足利義維(義晴の兄弟)を擁して高国軍に挑む主君・六郎を助けて、畿内まで進軍して越年。 |
| 高国に造反した波多野軍との合流を果たすと、翌7年(1527年)3月には官軍(細川高国と足利義晴の連合軍)と激突し、これを撃破(桂川原の戦い)。 |
| 官軍を近江へ追い落とし、立場を逆転させた。 |
| さらに、遁走により政治機能を喪失した高国政権に替わるべく堺公方(堺大樹)の樹立に貢献。 |
| 六郎による新たな畿内支配体制を確立させるべく、大いに尽力した。 |
退去、再び畿内へ
| 大永8年(1528年)7月、それまでの功績により山城守護代に任じられた。 |
| しかし、享禄2年(1529年)には新たに同僚となった柳本賢治らと折り合いを悪くした為、阿波に逼塞する。 |
| その間、再起を期す高国には伊勢の婿・北畠晴具の他に、ようやく播磨守護代浦上村宗が応じ、挙兵。 |
| 中央進出のための地固めとして、播磨国内の各地を転戦、勝利を重ねた。 |
| 柳本賢治は迎撃に播磨へ向かうも、享禄3年(1530年)6月に急死(暗殺とも)、高国と浦上の連合軍には8月に摂津への侵攻を許すなど、六郎達堺公方派は旗色が悪くなり、ついには薬師寺国盛のような高国軍に降伏する者が現れるなど、窮地に追い込まれつつあった。 |
| 享禄4年(1531年)2月、六郎の懇願によって復帰するも、事態は逼迫していた。 |
| 播磨からの転戦に次ぐ転戦で、破竹の進撃を見せてきた高国と浦上の連合軍には手を焼かされ続け、翌3月には堺公方派で河内からの新参・木沢長政が京の防備を放棄し、撤退。 |
| 高国軍は難無く京都奪還を果たしているのである。 |
| 高国軍は目障りな堺公方を討滅すべく、摂津南部へ進軍。 |
| これに対し、阿波からの増派軍8000を得て、高国軍の先鋒に打撃を与えた堺公方派であった。 |
| しかし、増派軍を加えたとはいえ、堺に鎮座する足利義維を守るための戦力を半数以上も割かねばならぬ為、純粋に高国軍と対峙するには少なく、元長の手腕に依存するところが大きかった(中嶋の戦い)。 |
| 戦局は、高国軍の出鼻を挫いたために警戒され、戦線の膠着化を招いた。 |
| そして同年6月、高国軍の増援として現れた赤松政祐の裏切りにより事態は進展。 |
| 呆気ないほどの大勝で高国軍を壊滅させた(大物崩れ)。 |
主君との対立
| 仇敵・高国の討滅という目標を達成した堺公方派ではあったが、その内部では以後の方針を巡って不協和音が生じだした。 |
| 原因は六郎にあった。 |
| 現職の義晴から将軍職を剥奪し、自分達が擁する義維を新将軍に据えさえすれば、六郎の堺幕府は公認されるという中で、あろうことか義晴将軍との和睦を推し進めようとしたのである。 |
| せっかく苦労して築いてきた堺幕府の放棄にも等しい六郎の決断には、河内の畠山義堯(六郎の義兄弟)と共に断固反対したが、聞き容れてもらえなかったばかりか、かえって大きな溝をつくってしまう。 |
| これまでの大功が災いしたのか、六郎からはその存在を次第に危険視されてゆく。 |
| しかも、六郎の配下としての有望な地位を狙う木沢長政や、元長の失脚を願う一門の三好政長(宗三)らの暗躍もあって、その溝は一段と深まった。 |
| 更に、元長自身も失策を犯していた。 |
| 京都三条城には対立していた柳本賢治の子甚次郎が籠もっていたが、享禄5年(1532年)1月22日に元長は阿波軍を率いて甚次郎を討ち取ったため、六郎の怒りを恐れて出家、海運と号した。 |
| 六郎の従弟の阿波守護細川持隆は六郎と元長の間を取り持とうとしたが成功せず、主従関係は悪化していった。 |
| やがて、木沢長政の存在で立場を悪くしていった元長は、同じく長政の下克上を警戒する畠山義堯(長政の主筋)と結託。 |
| 義堯による上意討ちを支援する形で、同年8月には長政の居城・飯盛山城を攻囲した。 |
| 高国討滅から僅か2ヶ月という堺公方派の内輪揉めであったが、長政を擁護しようとする六郎からの撤兵要請もあって、1度は兵を退けた。 |
| しかし、長政の野心を危ぶんだ畠山義堯によって、翌5年(1532年)5月、飯盛山城を再攻囲。 |
| 元長も遅れて支援に加わった。 |
| この時も主筋の六郎が長政を擁護する姿勢を見せていたが、それにも構わず飯盛山城の包囲し続けた為、長政の命運は尽きかけた。 |
最期
| 木沢長政討滅が時間の問題となっていた翌6月15日。 |
| 攻囲軍が一転、窮地に陥った。 |
| 突如として数万の一向一揆軍によって、背後から襲撃されたのである。 |
| 攻囲軍は瞬く間に追い散らされ、元長も命からがら堺の顕本寺(法華宗)まで逃げ戻った。 |
| 一方、追撃の手を緩めぬ一揆軍に観念したのか、同月17日に畠山義堯は自害した。 |
| 自力での攻囲軍排除を不可能と判断した六郎や長政達は、かねてからの一向宗と法華宗の宗教対立を利用。 |
| 山科本願寺(本願寺10世証如)から了承を得て、一揆軍に支援を仰いだのである。 |
| この時の一揆軍にとって、飯盛山城の攻囲軍を追い散らす事よりも、一向宗にとっての仏敵討滅が目的であった。 |
| すなわち、一向宗に敵対する法華宗の庇護者であった元長の討滅である。 |
| 畠山義堯は言わば、巻き添えをくったようなものである。 |
| 同月20日、顕本寺を取り囲んだ頃には一向一揆軍は一段と膨れ上がっており(総勢10万とも言われる)、足利義維を逃がすのに精一杯だった。 |
| 主君から見限られた上に、勝ち戦を大敗北に貶められた元長は自害して果てた。 |
死後
| こうして無念の最期を遂げてしまった元長であるが、彼の子である三好長慶、三好義賢、安宅冬康、十河一存らはいずれも名将で、彼の息子達によって三好氏は大きく飛躍。 |
| 政権を掌握するほどの最盛期を築くに至るのであった。 |
| 死後から20年余、長慶によって堺には元長の菩提を弔う南宗寺が建立された。 |
参考文献
| 今谷明『戦国三好一族―天下に号令した戦国大名』洋泉社(MC新書)、2007年。 |
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1520年
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三好氏の総帥であった之長は細川高国に敗れた... |
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1526年
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細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺した事から綻... |
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