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松永久秀
戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永弾正(まつながだんじょう)の別名でも知られている。出身地は山城国とも播磨国ともいわれる。父は不... |
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足利義輝
室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年-1565年)。父は第12代将軍の足利義晴。なお、第10代将軍足利義稙の養子となった阿波公方... |
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戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南近江の守護大名・戦国大名。観音寺城主。 |
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戦国時代の武将。三好氏の一族。通称は孫四郎、別名として長縁ともいう。後に北斎と号す。法号は宗功。官位は従四位下日向守。三好三人衆の1人で、その筆頭格... |
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室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の四男毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。... |
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細川氏綱
戦国時代前期の武将で、室町幕府最後の管領。細川尹賢の子で、父の盟友でもあった細川高国の養子。摂津守護。 |
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三好義継
河内の戦国大名。三好氏本家の事実上、最後の当主である。 |
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遊佐長教
戦国時代の武将。河内畠山氏の重臣で河内守護代。若江城主。父は遊佐河内守順盛。室は十河一存の娘など。子に三好長慶正室、遊佐信教など。 |
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三好長治
戦国時代から安土桃山時代にかけての阿波国の大名。 |
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木沢長政
戦国時代の武将。河内、山城南部の守護代。官位は従五位下左京亮。河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。木沢右近、木沢又八郎は一族と思われる。 |
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三好之長
戦国時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏の流れを汲む小笠原氏の庶流にあたる。諱の之長は、阿波の守護・細川成之の... |
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三好政長
戦国時代の武将。三好氏の一族。三好勝時の次男で、勝長の弟。通称は神五郎、官位は越後守。後に出家し半隠軒宗三と称す。子に政勝、娘(池田信正室)。従甥... |
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プロフィール
- 三好長慶とは
- 細川家臣時代
- 三好政権の興亡
- 三好政権の衰退
- 最期
- 官職位階履歴
- 人物
- 参考文献
- 関連作品
- 関連項目
- 関連サイト
三好長慶(みよしちょうけい/みよしながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津守護代、相伴衆。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。 三好元長の嫡男で、 三好之長の曾孫。 三好義賢、 安宅冬康、 十河一存、 野口冬長の兄。 三好義興の父。通称は孫次郎、官位は従四位下筑前守、後に修理大夫。史料では「三筑」の略称で彼の名が多く残っている。諱の長慶は「ちょうけい」と有職読みされることが ...
細川家臣時代
| 大永2年(1522年)2月13日、三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれる。 |
| 父・元長は細川晴元配下の有力な重臣で、阿波国や山城国に勢力を誇っていたが、天文元年(1532年)に元長の勢力を恐れた晴元は一向一揆の力を借りて、元長を殺害してしまった。 |
| この時長慶は、河内守護代であった木沢長政の仲介や、幼少であるという理由から許されて晴元に従うことになる。 |
| 享禄・天文の乱では天文2年(1533年)6月に一向一揆と晴元の和睦の仲介人となっている。 |
| 長慶は父や曽祖父以上に智勇に優れた名将であった。 |
| 天文8年(1539年)には父の遺領を受けられなかったことに不満を持って、2500の兵を率いて上洛し、力によってそれを手に入れることに成功した。 |
| この時、12代将軍足利義晴は長慶を恐れて近江に逃走し、晴元は六角定頼に長慶との和睦を仲介してもらうほどであったという。 |
| これにより長慶は摂津守護代、越水城主となった。 |
| その後、長慶は細川氏の重臣として忠実に働き、木沢長政(太平寺の戦い)や遊佐長教らの敵勢力を次々と打ち破っていき、応仁の乱収束後に細川氏の最有力重臣にまでのし上がった。 |
| そして、天文17年(1548年)、細川晴元と敵対していた細川氏綱側に寝返って、翌天文18年(1549年)に晴元と13代将軍・足利義輝を近江に追放し、同族ながら敵対していた三好政長を討った(江口の戦い)。 |
| これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。 |
三好政権の興亡
| 長慶の政権は幕府を滅ぼすのではなく、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿内を支配した。 |
| また、管領の細川氏綱をも監視下において実権をほぼ剥奪した。 |
| 天文21年(1552年)1月、六角氏の仲介で敵対していた細川晴元・足利義輝らと有利な条件(長慶は幕府相判衆となり、晴元は氏綱に家督を譲って隠居)で和睦した。 |
| ところが天文22年(1553年)から再び両者と争い、永禄元年(1558年)に京都霊山の戦いで足利・細川軍を破ったことを機会に義輝と和睦し、自らは幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。 |
| ただし、逆説的にはこれは三好家が幕府権力の掣肘に伏する事に他ならず、山城一国の統治権を将軍家に返還するに留まらず、幕府に替わって発行していた長慶名の裁許状もこの年を境に途絶え、中央政権たる体裁を失うという政治的な敗北は明らかであった。 |
| これ以降は堺の経済力を握り、有能な弟達に軍を預けて、河内や大和国、丹波国に転戦して、畿内に一大政権を築き上げたと言ってもそれは幕府隷下の地方権力に留まる結果を齎したのである。 |
三好政権の衰退
| 細川晴元と公然たる対立関係に突入して以来、摂津を拠点とした長慶の権勢は、河内を拠点とする守護大名・畠山家の実権を握る守護代・遊佐長教との姻戚関係によって支えられるところが極めて大きかった。 |
| だが遊佐長教は天文20年(1550年)、三好家の台頭を疎んじた将軍足利義輝によるものとされる暗殺の犠牲者となってしまう。 |
| この長教の死を契機に河内畠山氏は三好政権のくびきを脱し、独自路線を取るようになって三好政権との対立路線を進むこととなった。 |
| 永禄3年(1560年)、長慶は畠山氏と安見宗房の処遇を巡って最終的な決裂に至り、同年11月13日には畠山高政の居城高屋城を攻め落としてこれを紀伊国に逐う。 |
| だが体制を建て直した畠山高政は領国の河内と紀伊の諸将を纏め上げ、六角義賢と連携し逆襲に乗り出した(久米田の戦い)。 |
| この結果、三好家は永禄4年(1561年)に細川晴之(細川晴元の次男)を名目上の盟主とする畠山高政・六角義賢の同盟軍に破れ、一時的ながら京都を明け渡す。 |
| この後、教興寺の戦いを経て畠山・六角勢力は再び三好家の影響力に置かれる事となるが、山城を失い幕府への直接的な支配力を減じた三好政権の後退は明らかであった。 |
| さらに永禄4年(1561年)と翌5年(1562年)にかけて一存や義賢という2人の弟を失い、永禄6年(1563年)の嫡男・義興という相次ぐ一族の死を経て、晩年の長慶は徐々に心身に異常を来すに至った。 |
| これにより、長慶の個人的手腕に依存する所の大きかった三好政権の勢力は大きく衰え、実権を家宰の松永久秀に操られるようになった。 |
最期
| 永禄7年(1564年)5月、弟・安宅冬康を誅殺した直後、前年から病がちだった事もあり、自身も後を追うように7月4日に河内飯盛山城下の屋敷において病死した(病死ではなく謀殺説もある。 |
| 犯人は、死後に台頭した松永久秀や三好三人衆の中の誰かではないか、との憶測を呼んだためで、俗説もしくは後世の作家の創作だとも考えられている。 |
| 喪は秘され、葬儀はその死から3年後に行なわれた。 |
| 嫡男の義興が前年に早世したため、甥で十河一存の息子である三好義継が養子として後を継いだ(一説に冬康を討ったショックから、6月に家督を義継に譲って隠居したともされる)。 |
官職位階履歴
| 年月日不詳-筑前守に任官。 |
| 年月日不詳-従五位下に叙す。 |
| 天文22年(1552年)2月28日-従四位下に昇叙。 |
| 永禄3年(1560年)1月21日-修理大夫に転任。 |
人物
| 長慶は織田信長と同じく堺の経済力に目をつけたり、朝廷との関係を重んじてたびたび連歌会を開くなど、豊かな教養人でもあった。 |
| しかし、信長と違って幕府を滅ぼして上に立つのではなく、その影となって実権を掌握するということに、長慶の信長との違いを感じることができる。 |
| 長慶は父・三好元長の菩提を弔うため、弘治3年(1557年)、臨済宗大徳寺派の寺院、龍興山南宗寺を長慶の尊敬する大徳寺90世大林宗套を開山として創建した。 |
| 茶人の武野紹鴎、千利休が修行し、沢庵和尚が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。 |
| 長慶は常に「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている。 |
| 長慶存命中から、松永久秀らによって足利義輝暗殺(永禄の変)は計画されていたが、長慶はその計画に最後まで反対したという。 |
| 優秀な弟たちにそれぞれの分国を支配させることで国人をまとめ上げ、最盛期には畿内と四国にかけての9カ国を支配下に置く戦国大名であった。 |
| 教養や文化に優れた長慶であったが、教養人の面のみを論う人もいた。 |
| それに対し「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」と見事な和歌で反論している。 |
参考文献
| 長江正一,『三好長慶』新装版、吉川弘文館,1989.5,9,277p.--(人物叢書/日本歴史学会編集)、ISBN4-642-05154-6(:新装版)。 |
関連作品
| 徳永真一郎『妖雲―戦国下剋上・三好長慶の生涯』(青樹社)。 |
| 徳永真一郎『三好長慶』(光文社時代小説文庫、のち学陽書房人物文庫2010年5月)。 |
| 今谷明『戦国三好一族―天下に号令した戦国大名』 洋泉社〈MC新書〉、2007年4月、ISBN978-4-86248-135-1。 |
| 『天と地と』(1969年、NHK大河ドラマ、演:梅野泰靖)。 |
| 『信長KINGOFZIPANGU』(1992年、NHK大河ドラマ、演:中丸新将)。 |
関連項目
| 戦国時代の人物一覧。 |
| 第二枝吉城の戦い。 |
| 滝山城(摂津国)。 |
| 山下城(摂津国)。 |
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1532年
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元長の勢力を恐れた晴元は一向一揆の力を借り... |
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1539年
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父の遺領を受けられなかったことに不満を持っ... |
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