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つながりの強いひと
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白鳥庫吉
国内外に広く知られた、東洋史学者であり文学博士である。
千九郎と白鳥の交流は古く、約30年に及ぶ。学者として、友人として、共に敬愛する関係にあった。... |
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物集高見
物集高見(もずめたかみ、弘化4年5月28日(1847年7月10日)-昭和3年(1928年)6月23日)は豊後国(大分県)出身の国学者。 |
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那珂通世
東洋学事始 那珂通世とその時代 窪寺紘一/著 出版社名 : 平凡社 出版年月 : 2009年2月 ISBNコード : 978-4-582-83426-0
( 4-582-83426-4 ) 税... |
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井上光貞
日本の歴史学者。東京大学名誉教授。国立歴史民俗博物館初代館長。紫綬褒章受賞者。文学博士。専門は日本古代史(上代日本史)。井上馨の孫に当たる。 |
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光武帝
光武帝(こうぶてい、前6年-57年)は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた... |
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坪井九馬三
歴史学者、東京帝国大学教授。大坂生まれ。1881年東京大学文学部政治理財学科卒、1885年同理学部応用化学科卒、在学中から文科大学で史学を講義し、1886年講... |
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森本六爾
『考古学の鬼』という異名とともに有数の知名度を誇る人物である。鳥居龍蔵の数少ない後継者の一人である。フランスに渡航していた時、林芙美子と面識を持っ... |
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直木孝次郎
直木孝次郎古代を語る 13 奈良の都 直木孝次郎古代を語る 13 直木孝次郎/著 出版社名 : 吉川弘文館 出版年月 : 2009年10月 ISBNコード : 978-4-6... |
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亀井南冥
江戸時代の儒学者で、医者、教育者。筑前国姪浜(現在の福岡市)に生れる。諱は魯、字は道載、通称は主水、南冥はその号である。亀門学の祖。 |
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梅原末治
日本の東洋考古学者。京都大学名誉教授。日本考古学の基礎を築いた巨人。文学博士(京都帝国大学、1939年)。大阪府南河内郡古市村(現羽曳野市)出身。子息は、... |
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小林行雄
日本の考古学者。京都大学名誉教授。文学博士、日本学士院恩賜賞受賞者。 |
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家永三郎
タイトル イエナガ サブロウ 家永三郎 イチ レキシ ガクシャ ノ アユミ 一歴史学者の歩み ニンゲン ノ キロク 人間の記録 人名 イエナガ サブロウ 家永 三郎/著 出版... |
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新村出
日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。 |
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梅根悟
日本の教育学者。専門は西洋教育史。福岡県生まれ。東京教育大学名誉教授・和光大学初代学長。 |
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山海経
本 > 小説・エッセイ > 文芸評論 > 文芸評論(日本) > 『山海経』の比較的研究 笠間叢書 365 『山海経』の比較的研究 著者 : 松田稔 (著) ... |
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和辻哲郎
『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られる日本の哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家。その倫理学の体系は、和辻倫理学と呼ばれる。日本的な思想と西... |
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岡倉由三郎
岡倉由三郎(おかくらよしさぶろう) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] (1868―1936) 英語 学者、英文学者。横浜に生まれる。 岡倉天心 の弟。5歳のとき東京... |
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神保小虎
神保小虎(じんぼことら) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] (1867―1924) 地質・鉱物学者。江戸の生まれ。1887年(明治20) 帝国大学 地質学科を卒業し、南... |
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大瀬甚太郎
大瀬甚太郎(おおせじんたろう) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] (1865―1944) 教育学者。 加賀国 (石川県)金沢に生まれる。1889年(明治22)東京 帝国... |
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プロフィール
- 三宅米吉とは
- 和歌山・東京修学時代
- 中等学校教員時代
- 欧米留学・金港堂時代
- 高等師範学校・帝国博物館時代
- 著作
- 参考文献
- 関連サイト
三宅米吉(みやけよねきち、1860年7月1日(万延元年5月13日)-1929年(昭和4年)11月11日)は、近代日本の歴史学者。号は昭軒。紀伊国和歌山城下出身。慶應義塾に学んだ後、新潟学校、千葉師範学校、東京師範学校に勤務。に大手教科書出版社・ 金港堂に入社し、同社の支援よる欧米留学を経て、教科書や雑誌の編集に従事。以降は高等師範学校、東京高等師範学校教授および帝国博物館、東京帝室博物館の要職を長く務めた。には考古学会を創設し会長、文学博士となり、晩年は東京高等師範 学校長、東京帝室博物館総長、宮中顧問官、帝国学士院会員も務めた。また、高師校長時代は東京文理科大学設 ...
和歌山・東京修学時代
| 1860年(万延元年)、和歌山藩士・三宅栄充の長男として紀伊国和歌山城下に出まれた。 |
| 7歳で藩校学習館に入り、3年ほど漢籍を学んだ後、民政局参事草野政信の教えを受けた。 |
| 1872年(明治5年)、宮内大監の職にあった父を追って上京し、慶應義塾正則部に入学。 |
| 義塾では成績優秀で、5年制の正則部で飛び級を重ね、在学2年ほどで第5学年に進んだが、この時、学則改正により正則と変則が合併されたため、少年には難解な政治学、経済学が学科の中心となった。 |
| 不平を覚えた三宅は同級の尾崎行雄とともに別の学級の設置を訴えたが、一二の学生のための特設はできないとして転校を促され、尾崎とともに退学するに至る。 |
中等学校教員時代
| 1876年(明治9年)、父の新潟裁判所転任にともなって新潟に移り、7月に官立新潟英学校英語教員心得の職を得た。 |
| 翌年3月、新潟英学校が県立新潟学校英語教場に改組された際には同校百工化学教場助手となり、次いで英語教場訳読教師、舎中監事を兼任した。 |
| 百工化学教場では教諭中川謙二郎の元で物理学、化学などを実習し、科学的実験・研究法を学んでいる。 |
| 同校での教え子には、後に東京師範学校や金港堂で同僚となる新保磐次、歴史・地理学者となる吉田東吾、工学博士となる近藤虎五郎らがいた栗原古城「三宅米吉君」61頁。 |
| 東京では結局、草野政信宅に寄寓し、旧藩主である紀州徳川家の家扶上田章に漢文を学びながら同家の蔵書(後の南葵文庫)を借覧する機会を得ることになった。 |
| ここで和漢の史籍を目にしたことがきっかけで、三宅は科学的な日本史研究の必要を覚え、歴史学者の道を歩むことになる。 |
| 1880年(明治13年)3月、新潟学校時代の校長で千葉師範学校長となっていた小杉恒太郎の招きを受けて同校教師となり、間もなく千葉中学校教師、および両校の舎中幹事を兼任した。 |
| 千葉中学校では主に物理と化学を教授し、教え子の中には、後に歴史学者となる白鳥庫吉、外務大臣を務める石井菊次郎、京都府知事となる木内重四郎がいたこの三人は大学予備門入学後も、東京に転任していた三宅の元に同居して教えを受けている。 |
| 斎藤斐章「文学博士三宅米吉先生小伝」(大塚史学会編『三宅博士古稀祝賀記念論文集』)9頁、白鳥庫吉「三宅米吉君小伝」(秋元正親編『文学博士三宅米吉君東京高等師範学校在職二十五年祝賀記念誌』)6頁。 |
| 翌1881年(明治14年)3月、慶應義塾時代の教員で東京師範学校長補の職にあった高嶺秀夫に招かれて同校雇教員に転じ、次いで助教諭となった。 |
| 同校では歴史と英語を担任し、附属小学校でも物理と化学を教えたという。 |
欧米留学・金港堂時代
| 金港堂編集所取締役となり、雑誌『都の花』『文』等を創刊。 |
| 明治15年(1882年)の夏、中上川彦次郎らとともに、発音式仮名遣いを主張して「いろはくわい」(いろは会)を組織。 |
| 言文一致の先駆的運動となり、二葉亭四迷らの小説や、新聞の社説などで使われ始め、その後の文章表記方法に影響を与えた。 |
| 明治18年(1885年)には、「方言取調仲間」を設立し、その趣意書に「我が日本の国語」という表現を用いた。 |
| 日本国における「国語」という言葉は、この時に初めて作られたものと言われている。 |
| その後、全国共通の標準語として「国語」を制定し、教科書編纂研究のため米国・英国に遊学。 |
高等師範学校・帝国博物館時代
| 帝国大学講師を経て文学博士に。 |
| 国語教育、歴史教育に尽力した。 |
| 同僚に那珂通世などが居る。 |
| 明治28年(1895年)東京高等師範学校の教授に就任帝国博物館学芸委員となり、我が国最初の考古学会を創設、明治25年(1892年)に、志賀島で発見されていた金印の文字「漢委奴国王」を「漢の倭の奴の国王」と読む論文を『史学雑誌』に発表し、新説の読み方を論証した。 |
| この学説は通説となり、現在の教科書にもこの読み方が取り上げられている。 |
著作
| 後藤牧太、三宅米吉同著『簡易器械理化学実験法』普及舎、1885年10月巻一。 |
| 三宅米吉著『 |
| 三宅米吉、新保磐次合著『理科初歩』金港堂、1887年9月有用ノ礦物、1887年10月有用ノ植物・化学ニ係ル事柄、1887年11月総論。 |
| 三宅米吉、新保磐次同著『高等日本読本』金港堂、1888年。 |
| 金港堂編輯所編輯『小学校用作文書』金港堂、1890年5月。 |
| 東京帝室博物館編『 |
| 孔子祭典会編纂『諸名家孔子観』博文館、1910年4月。 |
| 三宅米吉編、中山久四郎増補『聖堂略志』斯文会、1935年4月。 |
| 中山久四郎編『日本教育史基本文献・史料叢書57聖堂略志』大空社、1998年12月 ISBN4872366573。 |
| 石黒魯平編輯『御即位ト大嘗祭』石黒魯平、1916年4月。 |
| 高嶺秀夫先生記念事業会著『高嶺秀夫先生伝』培風館、1921年12月。 |
| 高嶺秀夫先生記念事業会編『明治教育古典叢書第1期10高嶺秀夫先生伝』国書刊行会、1980年11月。 |
| 高嶺秀夫先生記念事業会著『伝記叢書5高嶺秀夫先生伝』大空社、1987年9月。 |
| 三宅米吉、津田敬武著『勉誠社文庫9極楽願往生歌』勉誠社、1976年10月。 |
| 三宅米吉評註『 |
| 三宅米吉著『 |
| 文学博士三宅米吉著述集刊行会編纂『文学博士三宅米吉著述集』文学博士三宅米吉著述集刊行会、1929年10月。 |
参考文献
| 山本武利、有山輝雄監修『新聞史資料集成明治期篇第4巻新聞記者論2』ゆまに書房、1995年5月、ISBN489668916X。 |
| 栗原古城「三宅米吉君」(『教育界』第9巻第1号、金港堂書籍、1909年11月)。 |
| 秋元正親編『文学博士三宅米吉君東京高等師範学校在職二十五年祝賀記念誌』茗渓会、1913年12月。 |
| 大塚史学会編『三宅博士古稀祝賀記念論文集』岡書院、1929年10月。 |
| 『斯文』第11編第12号、斯文会、1929年12月。 |
| 吉田弥平編『文学博士三宅米吉先生追悼録』茗渓会・大塚学友会・大塚史学会、1930年2月。 |
| 東京文理科大学、東京高等師範学校共編『創立六十年』東京文理科大学、1931年10月。 |
| 『考古学』第3巻第6号、東京考古学会、1932年11月。 |
| 「三宅先生追憶録」(『史潮』第70号、大塚会、1959年11月)。 |
| 三宅米吉先生追悼の会編『三宅先生三十年祭追憶誌』三宅米吉先生追悼の会、1959年12月。 |
| 小沢栄一著『近代日本史学史の研究 明治編』吉川弘文館、1968年2月。 |
| 木代修一「学史上における三宅米吉の業績」(木代修一編『日本考古学選集1三宅米吉集』築地書館、1974年3月)。 |
| 森田俊男「解説 三宅米吉論」(森田俊男編『世界教育学選集79三宅米吉教育論集』明治図書出版、1974年5月)。 |
| 「三宅米吉」(鈴木博雄著『東京教育大学百年史』日本図書文化協会、1978年7月)。 |
| 森田俊男著『開闢ノコトハ通常歴史ヨリ逐イダスベシ』民衆社、1981年6月。 |
| 築山治三郎著『三宅米吉その人と学問』図書文化社、1983年4月、ISBN4810031020。 |
| 唐沢富太郎「三宅米吉:博学にして人格崇高な高等師範学校長」、同「三宅米吉:日本の歴史研究、考古学の開拓者」(唐沢富太郎編著『図説教育人物事典:日本教育史のなかの教育者群像 中巻』ぎょうせい、1984年4月)。 |
| 「三宅米吉」(斉藤忠著『考古学史の人びと』第一書房、1985年11月)。 |
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1860年
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三宅 米吉(みやけ よねきち、(万延元年5月1... |
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「方言取調仲間」を設立し、その趣意書に 「... |
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