55234
55595
682792
%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%BD%A6
%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%BD%A6
%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%BD%A6
%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%BD%A6
%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%BD%A6
0
|
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
三島彌太郎
父
三島彌太郎(みしまやたろう 慶應3年4月1日(1867年5月4日)-大正8年(1919年)3月7日)は鹿児島県出身の日本の銀行家。子爵。三島通庸の長男であり、三島彌... |
|
|
三島通庸
父
日本の武士・薩摩藩士、内務官僚。正三位勲二等子爵。通称は弥兵衛。県令時代は、住民の反対を押し切り強引に土木工事を進める手法から、「土木県令」や「鬼... |
|
|
泉谷祐勝
泉谷祐勝(いずみたにすけかつ、1882年(明治15年)3月-1967年(昭和42年)2月3日)は日本のアマチュア野球選手。黎明期の早稲田大学野球部の中心選手であり... |
|
|
金栗四三
日本のマラソン選手、師範学校教師、熊本県初代教育委員長である。箱根駅伝の開催に尽力し、日本に高地トレーニングを導入するなど日本マラソン界の発展に大... |
|
|
ラルフ・クレイグ
アメリカ合衆国の陸上競技選手。短距離の選手として1912年ストックホルムオリンピックに出場し、100m、200mの2冠を達成した選手である。 |
|
|
横田順彌
作家(SF作家)・明治文化史研究家。愛称は「ヨコジュン」。「横田順弥」と表記されることもある。真木じゅん名義による著書もある。 |
|
|
押川春浪
押川春浪(おしかわしゅんろう、1876年(明治9年)3月21日-1914年(大正3年)11月16日)は日本の作家、SF作家、冒険小説家。本名は方存(まさあり)。 |
|
|
中沢臨川
中沢臨川(なかざわりんせん、1878年(明治11年)10月28日-1920年(大正9年)8月9日)は日本の文芸評論家、電気工学者。本名は重雄。海軍大将の塩沢幸一は実弟。 |
|
|
獅子内謹一郎
獅子内謹一郎(ししうちきんいちろう、1884年(明治17年)3月25日-1941年(昭和16年)10月29日)は日本のアマチュア野球選手。早稲田大学野球部の中心選手だ... |
|
|
嘉納治五郎
嘉納治五郎(かのうじごろう、万延元年10月28日(1860年12月9日)-1938年(昭和13年)5月4日)は明治から昭和にかけての柔道家、教育者である。講道館柔道の... |
|
|
三島通陽
日本の小説家・劇作家・演劇評論家。子爵。貴族院議員・参議院議員。文部政務次官。東京麻布生まれ、学習院卒業。ペンネームに三島章道(みしましょうどう)... |
|
|
大森兵蔵
大森兵蔵(おおもりひょうぞう、1876年3月14日-1913年1月13日)は元YMCA体育教授。岡山県出身。バスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人物で... |
|
|
四条隆謌
四条隆謌(しじょうたかうた、文政11年9月9日(1828年10月17日)-明治31年(1898年)11月24日)は江戸時代末期から明治時代にかけての日本の華族、陸軍軍人。... |
|
|
井上準之助
日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。山本、浜口内閣で大蔵大臣を歴任。貴族院議員。生家の井上酒造は、200年の歴史を持つ酒蔵である。 |
|
|
安部磯雄
日本の社会主義者。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日... |
|
|
押川清
押川清(おしかわきよし、1881年(明治14年)1月1日-1944年(昭和19年)3月18日)は日本のアマチュア野球選手。早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初... |
|
|
高橋是清
日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任:1921年(大正10年)11月13日-1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次(わき... |
|
|
橋戸信
日本のアマチュア野球選手(遊撃手、投手)、新聞記者。ペンネームは「橋戸頑鉄」(はしどがんてつ)。日本初のプロ野球球団である「日本運動協会」の創設や... |
|
|
吉岡信敬
吉岡信敬(よしおかしんけい、1885年(明治18年)9月1日-1940年(昭和15年)12月7日)は日本の応援団員。早稲田大学の応援隊長として「虎鬚彌次将軍」の通称... |
|
|
大村一蔵
大村一蔵(おおむらいちぞう、1884年(明治17年)2月15日-1944年(昭和19年)1月29日)は日本の鉱山技師。石油調査・研究を専門とし、帝国石油副総裁や日本地... |
|
|
プロフィール
三島弥彦(みしまやひこ、1886年(明治19年)2月23日-1954年(昭和29年)2月1日)は明治期の陸上選手。日本初のオリンピック代表選手として1912年開催のストックホルムオリンピックに参加した。名前は「彌彦」とも書かれる。父は警視総監の 三島通庸、兄は銀行家の 三島彌太郎。
経歴
| 東京府麹町区(現・東京都千代田区)出身。 |
| 2歳のとき父を失う。 |
| 学習院を経て東京帝国大学(現・東京大学)法科に進学。 |
| 成人男性の平均身長が155cm前後だった時代に170cmを超える長身を誇り、学習院時代には野球部でエース兼主将、ボート部でも一軍選手になっており、東大時代にはスキー術を修め、この他に柔道は二段、乗馬と相撲も行い、またスケートも大会に出場する程度には上手いなど、スポーツに対する造詣浅からぬ青春時代を過ごした。 |
| また、プレイヤーとしてだけではなく、審判も早慶戦で多く務めている。 |
| 1911年(明治44年)、陸上競技に夢中になりつつあった頃、スウェーデンのストックホルムで開かれる第5回国際オリンピック大会代表を決める「オリムピク大會予選競技会」が羽田運動場で挙行されることになり、審判委員として来場するよう要請があった。 |
| 要請には答えなかったが、このようなイベントがあることを知り、元々スポーツが大好きであったから、来場のうえ外野で学友と観戦しようと決め込んでいた。 |
| ところが、後に本人が語るところによれば「生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。 |
| 久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やうという」という考えで飛び入り参加し、100m、400m、800mの各短距離徒競走で第一位、200mで第二位を獲得。 |
| 予選会では、立高跳び優勝の後藤欣一、立幅跳び優勝の泉谷祐勝、走幅跳び優勝の霜田守三などの選手もいたが、選手団をストックホルムまで送る予算の都合などもあり、マラソンおよび10000mに出場が予定された金栗四三と三島の二人が選手に選ばれる。 |
| 以後毎週土曜日、金栗と二人してアメリカ大使館書記官キルエソンに師事して、陸上競技の様々な技法、心得を学び、例えば400mは予選競技会時の59秒30が50秒台にまで縮まった。 |
| しかし彼は「『かけっこ』如きで洋行してよいものか」という自己内部の迷妄、欧米人のスポーツショーに官立学校の生徒が派遣されると誤解した文部省の無理解に苦しめられるが、学友や帝大総長の励ましに後押しされ、卒業試験延期をも決して、五輪出場の意を固めた(卒業式は大会期間中に予定されていた)。 |
| 1912年(明治45年)5月16日、家族や、三島が所属していたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」や野球試合で縁のある慶應義塾野球部のOB会である「東京倶楽部」のメンバーらが見送るなか、新橋駅(現・汐留貨物駅跡)からストックホルムへと旅立った。 |
| 1912年(明治45年)7月6日、旗手として開会式に登場。 |
| 出場選手わずか2名のため、行列人数が非常に少なく蕭条の観があったが、かえって群集の同情をひいた、と日本人記者は報じている。 |
| 当日午後いよいよ短距離予選に出場したが、最初の100m予選でいきなりトップに1秒以上の差をつけられ敗退。 |
| スウェーデンではキルエソンの助言を得ることもできないため、すっかり意気消沈してしまい、金栗四三に「金栗君。 |
| 日本人にはやはり短距離は無理なようだ」と語った。 |
| つづく200m予選は英米独3選手に敗れ最下位。 |
| 400m予選は100m、200mで金メダルを取ったラルフ・クレイグ(アメリカ)が他選手に謙譲して棄権したこともあり、見事準決勝進出の権利を得たが、「右足の痛み激しきが為」棄権してしまった。 |
| 近年の資料では「精神的肉体的困憊のため」あるいは「勝機無しと見たため」を理由に掲げるものの方が多い。 |
| 金栗の競技も終えると、嘉納団長、金栗と語らって4年後のベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式を待たずに出国、次大会開催国であるドイツに向かった。 |
| ここでオリンピック会場などの視察をした後、砲丸や槍などの日本ではまだ知られていないスポーツ用品を買い込んで、翌年2月7日に帰国。 |
| そのベルリン大会が第一次世界大戦で中止となり、8年間の中絶を経て1920年(大正9年)アントワープ大会が開催されたが、このころ既にオリンピックに出場できるような肉体を失っていたためか、予選にも姿を見せなかった。 |
| 1913年(大正2年)、帝大を卒業して兄・彌太郎のいる横浜正金銀行に入行。 |
| 青島支店支配人を経、1939年(昭和14年)本店に戻り検査人に就任している。 |
| 大学卒業以降はスポーツ界から全く退いており、1954年(昭和29年)2月1日、東京都目黒区で死去するまで、メディアに登場したことがほとんどない。 |
人物
| 育ちのためか、性格はスポーツマンにしてはおっとりしていた。 |
| 天狗倶楽部の中心人物であった小説家の押川春浪は、「三島君は大の楽天家である。 |
| 暢気な先生である。 |
| 度量の大きい、些事に無頓着なあくまでも鷹揚な人である」と評している。 |
| また、多方面に通じたスポーツマンであったことから学生や若者からの人気は高く、雑誌『冒険世界』が行った「痛快男子十傑投票」という読者投稿企画では、運動家部門で1位に選ばれている。 |
参考文献
| 『武侠世界第3号』武侠世界社 。 |
| 池井優『オリンピックの政治史』丸善ライブラリー。 |
| 日本体育学会『近代日本体育史』浅見文林堂。 |
| 朝日新聞社『朝日新聞100年にみるスポーツ人物誌』朝日新聞出版。 |
| 毎日新聞社『明治毎日ニュース事典』毎日コミュニケーションズ。 |
| 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝元気と正義の男たち』朝日ソノラマ1993年。 |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
三島弥彦さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|