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つながりの強いひと
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藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
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一条天皇
平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 |
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後一条天皇
平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月24日)-長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。 |
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冷泉天皇
日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘中宮安子。円融天皇の同母兄。 |
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後朱雀天皇
平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日)-寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 |
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後冷泉天皇
日本の第70代天皇(在位:1045年-1068年)。父後朱雀天皇。母藤原道長女藤原嬉子。諱を親仁(ちかひと)という。紫式部の娘大弐三位が乳母である。 |
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藤原兼家
母
平安時代の公卿。従一位摂政・関白・太政大臣に昇る。藤原北家流の藤原師輔の3男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』... |
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藤原道隆
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は従一位・摂政関白内大臣。中関白(なかのかんぱく)と称する。花山天皇退位事件で... |
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花山天皇
日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。かつては華山天皇とも表記されていた。 |
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藤原超子
母
藤原兼家の長女。母は藤原中正の娘時姫。冷泉天皇女御、三条天皇生母。同母兄弟に道隆・道兼・道長、東三条院詮子。 |
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倉本一宏
日本の歴史学者。専門は日本古代政治史、古記録学。国際日本文化研究センター(日文研)教授、総合研究大学院大学(総研大)文化科学研究科国際日本研究専攻... |
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藤原道兼
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。同母の兄弟姉妹に道長、詮子らがいる。官位は正二位・関白・右大臣。贈正一位・太政大臣... |
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敦明親王
第67代三条天皇の第一皇子、母は藤原済時の女・皇后藤原娍子。 |
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白河天皇
第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日)-応徳3年11月26日(1087年1月5日))。諱を貞仁(さだひと)という。 |
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禎子内親王
第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は有職読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。母は... |
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藤原妍子
摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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藤原彰子
第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院といい、のち大女院などとよばれた。女房に『... |
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敦康親王
敦康親王(あつやすしんのう、長保元年11月7日(999年12月17日)-寛仁2年12月17日(1019年1月25日))は平安時代中期の皇族。第66代一条天皇の第1皇子、母は... |
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堀河天皇
堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日)-嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年... |
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プロフィール
- 三条天皇とは
- 系譜
- 略歴
- 和歌
- 后妃・皇子女
- 諡号・追号・異名
- 在位中の元号
- 陵墓・霊廟
- 関連項目
- 参考文献
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日)-寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ/いやさだ)。享年42。在位は寛弘8年6月13日(1011年7月16日)から長和5年1月29日(1016年3月10日)まで。
系譜
| 冷泉天皇の第二皇子。 |
| 母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇后宮超子。 |
| 七歳で母を失い、父・冷泉上皇は精神病を患っていたため、その後見は薄弱であった。 |
| 外祖父兼家に容姿が酷似して立派であったといい、兼家の鍾愛を受けて育ったことが『大鏡』に見える。 |
略歴
| 寛和2年(986年)7月16日、二重の従弟一条天皇(当時七歳)の即位にともない、兼家の後押しで皇太子となる。 |
| 冷泉・円融天皇両系の迭立に基づく立太子であったが、東宮の方が天皇より4歳年上の11歳であったため、「さかさの儲けの君」といわれた。 |
| しかし、兼家は、冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが、円融との不仲、冷泉に三人の親王を儲けていたことから、冷泉系を重要視していた可能性が指摘されている倉本一宏『三条天皇』より。 |
| 外舅にあたる道隆・道兼・道長三兄弟が先後して政権を掌握し、それぞれ一条天皇のもとで後宮政策を布いたため、三条天皇は25年という長い東宮時代を経て、36歳でようやく一条帝の譲りを受けて即位。 |
| 皇太子には藤原道長女彰子腹の敦成親王(後一条天皇)が立った。 |
| 外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠いていたが、道長の次女・中宮妍子がいながら東宮の時からの后・済時女藤原娍子を皇后にしたこと、妍子との間には女児をしか儲けられなかったことにより、道長と三条天皇の関係は決定的なものとなった倉本一宏『三条天皇』より。 |
| 道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った仙丹の服用直後に、視力を失ったといわれる。 |
| 仙丹は、中国で古代より不老不死の妙薬とされていたが、毒物の硫化水銀・硫化砒素を大量に含んでいた。 |
| 更に内裏の火災三条天皇は即位後に新造の内裏(ただし、実際には一条天皇の寛弘3年(1006年)に建てられてそのまま未使用であった内裏)に入ったものの、長和3年(1014年)・翌4年(1015年)と相次いで焼失した。 |
| や病状の悪化もあり、三条天皇は第一皇子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い退位した。 |
| 翌寛仁元年(1017)4月に出家し、程なく42歳で没した。 |
| 三条天皇の死後、その長子敦明親王は道長に無言の圧迫を掛けられ、ついに自ら東宮を辞退する挙に出た。 |
| このことにより冷泉・円融両系の両統迭立に終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰したが、三条天皇の血統もまた皇女禎子内親王を通じて以後の天皇家へ受け継がれていくことになる。 |
和歌
| 退位の際に詠んだとされる歌が小倉百人一首に採られている。 |
| 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 三条院。 |
諡号・追号・異名
| 後院(譲位後の居所)の名称によって「三条院」と追号された。 |
| 大正以後、「院」の号は廃止され、「三条天皇」とされる。 |
在位中の元号
| 寛弘:(1011年6月13日)-1012年12月25日。 |
| 長和:1012年12月25日-(1016年1月29日)。 |
陵墓・霊廟
| 陵墓は京都市北区衣笠西尊上院町、大文字山の東麓にある北山陵(きたやまのみささぎ)。 |
| 衣笠鏡石町に火葬塚がある(一条天皇火葬塚と同所)。 |
関連項目
| 桓算(『大鏡』に登場する天皇の眼病の原因となった怨霊)。 |
参考文献
| 倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば―』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2010年。 |
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三条天皇さんについてのひとこと紹介
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