| 1939年、16歳の時に浪曲師・南篠文若(なんじょうふみわか)としてデビュー。 |
| 1944年に陸軍入隊し、満州に渡る。 |
| 敗戦を満州で迎える。 |
| 敗戦後ハバロフスクの捕虜収容所に送られ、その後約4年間のシベリア抑留生活を過ごす。 |
| 帰国直後は共産主義に洗脳されていたと述べている。 |
| 晩年、自らこの時期についてテレビなどで語ることがあった。 |
| 三波は、「国際法を無視し、捕虜の人権を蹂躙した国家的犯罪。 |
| 更にソ連は謝罪も賠償も全くしていない」と非難していた。 |
| 後に日本を守る国民会議(現・日本会議)の代表委員となるなど、反共主義運動を展開。 |
| 1949年9月、帰国。 |
| 浪曲師として復帰し、活躍した。 |
| 1957年6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。 |
| 1958年、第9回NHK紅白歌合戦に初出場。 |
| 1960年からは歌手としては初の、歌手が座長の大劇場の1か月公演を行う。 |
| 以来、1月は名古屋・御園座、3月は大阪・新歌舞伎座、8月は東京・歌舞伎座の公演を20年連続で定例月に公演した。 |
| その中でも歌舞伎の殿堂である東京の歌舞伎座の1か月の公演は三波以外の歌手は行っておらず、特筆に値することである。 |
| デビューから数年は神戸芸能社の傘下で仕事をした。 |
| しかし、三波はその筋といわれる方面との付き合いをまったくしなかった。 |
| 日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」を歌ったことで1970年、リベリアで発行された日本万国博覧会を記念した切手に登場した。 |
| 日本の芸能人が海外の切手に登場したのはこれが初めてのことであった。 |
| その間、三波春夫名義で『おまんた囃子』の作詞作曲を手掛けて1975年に発表、また北村桃児(きたむら・とうじ)の筆名を用いて『元禄名槍譜俵星玄蕃』等の長編歌謡浪曲を発表するなど、一歌手に留まらぬ精力的な創作活動を展開している。 |
| 1986年の第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録の29年連続29回目の出場を果たす。 |
| しかし翌1987年の第38回NHK紅白歌合戦へは、紅組歌手の最多出場者だった島倉千代子と共に、出場辞退を宣言した。 |
| その3年後、1989年の第40回NHK紅白歌合戦には、3年ぶり30回目の復帰出場第一部・「昭和の紅白」コーナー出演。 |
| 披露曲は「東京五輪音頭」となる。 |
| 1992年、シングル『ハウスおまんた囃子』でハウス・サウンドを導入。 |
| "HARUOINDANCEBEAT"なるライヴ・イヴェントでは電気グルーヴと共演。 |
| シングル『ジャン・ナイト・じゃん』(フジテレビ系深夜アニメ『スーパーヅガン』ED曲)ではラップにも挑戦して話題となるなど、ジャンルに囚われない精力的な音楽活動を展開した。 |
| この『ジャン・ナイト・じゃん』ではで若年層にもファンが拡大し、演歌歌手ながらジュリアナ東京でもライブを開催した。 |
| 1994年1月に前立腺癌と診断された。 |
| この時、三波はたじろぎもせずに「仕事をしながら病気と闘っていきましょう」と家族に語ったという。 |
| これ以後、三波は2時間25分の組曲アルバム『平家物語』の制作や永六輔作詞の『明日咲くつぼみに』を歌い、また富士山をテーマにした曲を新潟出身のソングライターである新井満に依頼するなど、精力的に新境地を開く音楽活動を続けて行った。 |
| 芸能界きっての読書家として知られ、更に日本史に造詣が深かった三波は長年に亘る自らの研究を基にした歴史関係の文筆・著作活動も積極的に行い、また自らのシベリア抑留体験も語るようになった。 |
| 1999年12月31日、第50回NHK紅白歌合戦へ10年ぶり31回目の出場を果たすが、この回が生涯最後の紅白出演となった。 |
| この時に歌った『元禄名槍譜俵星玄蕃』は、60年にも及ぶ三波春夫の歌芸の集大成とも言われる。 |
| 亡くなる半年程前の2000年11月に故郷の越路町の町制記念イベントで舞台に立ち、渾身の力を振り絞って歌声を披露した。 |
| これが現役歌手としての最後の舞台となった。 |
| 2001年4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去 |
| 幸せでした」]日刊スポーツ2001年訃報特集。 |
| 娘・美夕紀が翌年12月に早期発見の為の前立腺特異抗原(PSA)検査受診を呼びかける「三波春夫PSAネットワーク」を立ち上げる契機になる。 |
| 辞世の句と受け取れる「逝く空に桜の花があれば佳し」という句を残している。 |
| 戒名は「大乗院法音謡導日春居士」。 |
| 墓所は東京都杉並区の妙法寺。 |
| 三波の死後、出身地の新潟県から「新潟県民栄誉賞」が贈られた(授与式は2001年4月29日、新潟スタジアム杮落としイベントに合わせて行われた)。 |
| 生前に発表した楽曲数は1,058曲、シングル盤の総売上は2,510万枚を記録した。 |
| 歌謡浪曲を競い合った時代の一人である。 |