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つながりの強いひと
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大正天皇
日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。明治以降で初の一夫一妻制をとった天皇。 |
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寛仁親王
日本の皇族。三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第一男子。今上天皇の従弟、麻生太郎元内閣総理大臣の義弟にあたる。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お... |
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桂宮宜仁親王
日本の皇族。三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第二男子。今上天皇の従弟にあたる。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は桂(かつら)。勲等は大勲位... |
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日本の皇族。今上天皇の第一皇子。母は皇后美智子。御称号は浩宮(ひろのみや)。身位は皇太子、親王。皇室典範に定める敬称は殿下。お印は梓(あずさ)。勲... |
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日本の皇族。皇太子徳仁親王と同妃雅子の第一女子。今上天皇の孫にあたる。御称号は敬宮。身位は内親王。皇室典範における敬称は殿下。お印はゴヨウツツジ(... |
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日本の皇族。高円宮憲仁親王と同妃久子の第三女子。姉に承子女王、典子女王がいる。身位は女王。皇室典範における敬称は殿下。お印は葛(くず)。栄典は宝冠... |
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日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第三皇子。今上天皇の叔父にあたる。有栖川宮の祭祀を継承。妃は公爵徳川慶久の次女喜久子。御称号は光宮(てるのみや)。... |
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高木百合子
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日本の皇族で、三笠宮崇仁親王の妃。旧名、高木百合子(たかぎゆりこ)。身位は親王妃。皇室典範における敬称は殿下。お印は桐(きり)。2004年の高松宮妃喜... |
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悠仁親王
日本の皇族。秋篠宮文仁親王と同妃紀子の第一男子。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は高野槇。皇位継承順位第3位。今上天皇の孫にあたり、姉に... |
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日本の皇族。今上天皇の第二皇子。母は皇后美智子。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は栂。勲等は大勲位菊花大綬章。学位は博士(理学)(総合... |
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明仁
日本の第125代天皇(在位:1989年1月7日-)である。「現在の天皇」を意味する今上天皇とも呼ばれる。昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。御称... |
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典子女王
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憲仁親王妃久子
日本の皇族で、高円宮憲仁親王の妃。旧名は、鳥取久子(とっとりひさこ)。身位は親王妃。皇室典範における敬称は殿下。お印は扇(おうぎ)。勲等は勲一等。 |
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彬子女王
日本の皇族。寬仁親王と同妃信子の第一女子。身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。お印は雪(ゆき)。勲等は勲二等。学位はオックスフォード大学博士... |
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子内親王
鎌倉時代 の皇族、 女院 。 後堀河天皇 准母 、 皇后 宮。 院号 は 安嘉門院 。法名は正如覚。父は後高倉院 守貞親王 、母は 持明院基家 の女持明院陳子(北... |
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承子女王
日本の皇族。高円宮憲仁親王と同妃久子の第一女子。妹に典子女王、絢子女王がいる。身位は女王。皇室典範における敬称は殿下。お印は萩(はぎ)。栄典は宝冠... |
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プロフィール
- 三笠宮崇仁親王とは
- 略歴
- 子女
- 人物
- 逸話
- 「三笠宮双子説」をめぐって
- 単著
- 訳書
- 編著・監修書
- 敬称
- 関連サイト
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年(大正4年)12月2日-)は、日本の皇族、歴史学者(古代オリエント史専攻)。 大正天皇と 貞明皇后の第四皇子。 今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位は 親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は若杉(わかすぎ)。勲等は大勲位。皇位継承順位第5位。現在存命中の皇族の中では最年長者であり、「三笠長老」の敬称を奉られることもある。「 三笠宮」の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁 親王
略歴
| 1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の末子として誕生。 |
| 高松宮宣仁親王から10歳も年下(昭和天皇とは14歳の年の差)の末っ子のため、大正天皇と貞明皇后の意向で3人の兄宮と違って御所で育てられた。 |
| 学習院初等科・中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(48期)を卒業。 |
| 士官学校在学中の1935年(昭和10年)の成年式に伴い、三笠宮の宮号を賜り、同時に大勲位に叙せられる。 |
| 習志野の陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校を卒業する。 |
| 陸軍士官学校時代には、辻政信が願い出て教育を担当した。 |
| 辻とは後に同じ支那派遣軍で勤務している。 |
| 1941年(昭和16年)10月22日、高木正得子爵の二女百合子と結婚。 |
| 寬仁親王ら三男二女をもうけた。 |
| 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後、1943年(昭和18年)1月から翌1944年(昭和19年)1月まで、コードネーム「若杉参謀大尉」(姓は印にちなんで作られた)として南京の支那派遣軍総司令部に勤務。 |
| 総司令部は着任に際して部隊内に通達を出し、勤務中の待遇及び食堂での食事の際の礼遇について周知している。 |
| 若杉の正体は秘匿されていたため、部内にはかなり後期まで、若杉参謀が三笠宮であることを知らない者も多かった。 |
| 支那派遣軍勤務中には、中国語のエキスパートであった通訳の木村辰男から中国語と中国事情を学んでいる。 |
| その後、大本営参謀に転出。 |
| 帰国後、戦争終結を模索し、同僚の津野田知重少佐らと共に東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條英機暗殺、主戦派数百名大量粛清などその過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報。 |
| 津野田らは逮捕され、クーデター計画は未遂に終わった。 |
| 成功時には支那派遣軍総司令官の職に就く予定であったと言われる(津野田事件)。 |
| 事件への関与は明白であったが不問に付され、1944年(昭和19年)9月、願い出て陸軍機甲本部付に左遷、陸軍少佐で終戦を迎える。 |
| 津野田はじめ他の将校も軽い処分で済まされた。 |
| こうした経緯があったためか、1945年(昭和20年)4月に長兄・昭和天皇に対面を願い出た時には「何を言うつもりなのかな」と天皇が不安がったとも言われる。 |
| 戦後の1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部の研究生となり、歴史学を学んだ(専攻はオリエント史)。 |
| 1955年(昭和30年)東京女子大学で講師として教育に当たったほか、青山学院大学、天理大学、拓殖大学でも教壇に立ち、日本オリエント学会の会長も務めた。 |
| また、紀元節に関しては、科学的根拠に欠けるとして復活に批判的であった。 |
| 1991年(平成3年)にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年(平成6年)6月にはロンドン大学東洋・アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。 |
| 戦後、民心の荒廃を憂い、国民にレクリエーションが必要との考えから、百合子妃と共にダンスの普及にも力を入れた。 |
| 2011年(平成23年)現在、今上天皇の叔父、すなわち昭和天皇・香淳皇后の兄弟姉妹の中で存命しているのは香淳皇后の弟である東伏見慈洽と三笠宮のみである。 |
子女
| 第1女子-甯子内親王(やすこ:1944年(昭和19年)-)-近衛忠煇夫人。 |
| 第1男子-寬仁親王(ともひと:1946年(昭和21年)-)。 |
| 第2男子1948年(昭和23年)2月11日宮内府告示第3号「崇仁親王妃百合子殿下御分娩親王御誕生」-宜仁親王(よしひと:1948年(昭和23年)-)-桂宮。 |
| 第2女子1951年(昭和26年)10月23日宮内庁告示第11号「内親王御誕生の件」-容子内親王(まさこ:1951年(昭和26年)-)-裏千家家元・千宗室夫人。 |
| 第3男子1954年(昭和29年)12月29日宮内庁告示第8号「崇仁親王妃百合子殿下親王御出産」-憲仁親王(のりひと:1954年(昭和29年)-2002年(平成14年)-高円宮。 |
| 高松宮と秩父宮は子供がいないまま生涯を閉じたのに対し、三笠宮は昭和天皇同様に多くの子供に恵まれた。 |
| しかし敗戦後は、昭和天皇と内廷皇族はともかく、三笠宮家は財産が最も少ない中でたくさんの子を育てざるを得ない、かなり厳しい戦後を生き抜く事となった。 |
| 昭和期には三笠宮家が多数の親王を擁していたことから、皇族の人数と皇室費の増加が懸念され、皇族の範囲を狭める形での皇室典範改正が検討されたことがある。 |
| しかし、いずれの親王も男子には恵まれず、現行制度では将来的に三笠宮の系譜は絶える見込みである。 |
| 孫が9人、曾孫は3人いる。 |
| 存命の皇族の中で曾孫がいるのは三笠宮夫妻のみ。 |
人物
| 幼少時より文才を認められ、「童謡の宮さま」と呼ばれた。 |
| また1957年(昭和32年)に百合子妃と共に『句集初雪』(新樹社、著名は三笠宮若杉・ゆかり)を出した。 |
| 日本レクリエーション協会総裁として、『レクリエーション随想録』(非売品、1998年)を出している。 |
| 古代オリエント史、特にアナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、長らく東京女子大学などで古代オリエント史の講義を担当、「宮さま講師」と通称された日本オリエント学会編で、『オリエント学論集三笠宮殿下還暦記念』(講談社、1975年)と『オリエント学論集三笠宮殿下古稀記念』(小学館、1985年)が、大著で『三笠宮殿下米壽記念論集』(刀水書房、2004年)が刊行されている。 |
| 財団法人中近東文化センター(東京都三鷹市)の設立にも尽力。 |
| また同センター総裁として、トルコ共和国でのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を進め、近年は現地における常設の研究機関アナトリア考古学研究所の建設を進めている。 |
| 陸軍時代に支那派遣軍に在籍していた関係から、日中国交回復前夜には中国の招請を受けた。 |
| 語学にも堪能であり、流暢な中国語・ヘブライ語を操る。 |
| 学術関係の公務において他の皇族と同席する機会も多い。 |
| 『東方学回想VIII 学問の思い出〈3〉』(刀水書房、2000年)に、護雅夫・中根千枝ら5名と座談会で回想がある非売品で、作家陳舜臣と「歴史清談古代オリエント/中国日本東北」(河北新報社、1987年)がある。 |
逸話
| 浪花節を好み、戦前の宮邸には数百枚に及ぶ浪花節のレコードが秘蔵されていたという。 |
| このコレクションは空襲で焼失している。 |
| 軍隊時代は一般の将校とまったく同じ待遇をされることを喜び、軍隊生活を非常に楽しんだとされる。 |
| また日中戦争当時、進駐先で「皇軍が皇軍たり得ておらず、その名に反する行為(暴行略奪など)をしている、これでは現地民から尊敬などされるわけがない。 |
| 今の皇軍に必要なのは装備でも計画でもない、“反省”だ。 |
| 自らを顧み、自らを慎み、一挙一動が大御心に反していないかを自身に問うこと」と部下達を叱りつけた事もある。 |
| 居並ぶ一同は三笠宮の叱咤に言葉がなかったという小川哲雄『日中戦争秘話』原書房。 |
| 小川は当時陸軍将校、のち汪兆銘政権で軍事顧問兼経済顧問補佐官。 |
| 格子なき牢獄と皇室制度を批判と取れる発言をしたとされるが、長兄である昭和天皇に然るべき礼を尽くすこと、皇太子との身分差などについて十分理解したと発言したことがある。 |
| 日中国交回復前の1970年代前半には、結局実現しなかったが訪中が打診されたことがある。 |
| 戦後間もない頃、ブラジルに移民した日本人の間で、日本の敗戦を認めた「負け組」とそれを認めない「勝ち組」に分裂し、抗争問題に発展していた。 |
| 移民五十年祭を開く際も勝ち組は非協力的であったが、皇族である三笠宮が式典に出席するとわかると事態は一変、双方の協力体制が布かれ、以後和解に進んでいった。 |
「三笠宮双子説」をめぐって
| 河原敏明は、京都華族の山本實庸子爵の末子として育てられた奈良円照寺門跡山本静山尼(1916年-1995年)が、実は三笠宮とは双子の妹(絲子)だったと主張し、に『週刊大衆』に掲載された。 |
| 宮内庁側は無視していたが、1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となったため、同年1月20日、この説を全面的に否定する声明を発表した。 |
| 河原に対し、山本静山尼本人は直接「デマです」と否定し、また河原に有力証言者とされた末永雅雄は、証言そのものの存在を否定した1984年1月20日朝日新聞「"三笠宮さまは双子"説騒ぎ宮内庁、5年後の否定」。 |
| 河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関しては、近代以降も伏見宮家の敦子女王・知子女王姉妹(1907年生)が双子として生まれ、共に成長した事例があり、宮内庁も反証として挙げた。 |
| なお、三笠宮夫妻も後年になって、『母宮貞明皇后とその時代』(工藤美代子著書、中央公論新社)中のインタビューで双子説を否定した。 |
単著
| 『帝王と墓と民衆-オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』(カッパブックス:光文社、1956年)。 |
| 巻末に附載された「わが思い出の記」は、1956年までの自叙伝。 |
| 『乾燥の国-イラン・イラクの旅』(平凡社、1957年)。 |
| 『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)。 |
| 『古代エジプトの神々-その誕生と発展』(日本放送出版協会、1988年)。 |
| 『文明のあけぼの-古代オリエントの世界』(集英社、2002年)。 |
| 『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)。 |
訳書
| ジャック・フィネガン、三笠宮崇仁・赤司道雄・中沢洽樹訳『古代文化の光-ユダヤ教とクリスト教の考古学的背景』(岩波書店、1955年、増補版1966年)。 |
| ジャック・フィネガン、三笠宮崇仁訳『聖書年代学』(岩波書店、1967年)。 |
| ジャック・フィネガン、三笠宮崇仁訳『考古学から見た古代オリエント史』(岩波書店、1983年、復刊2004年)。 |
編著・監修書
| 三笠宮崇仁編『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)。 |
| 三笠宮崇仁編『生活の世界歴史1』(河出書房新社、のち河出文庫、1991年)。 |
| 岡田明子・小林登志子著、三笠宮崇仁監修『古代メソポタミアの神々-世界最古の「王と神の饗宴」』(集英社、2000年)。 |
敬称
| 敬称を用いる場合は、宮号の「三笠宮」に正式敬称の「殿下」を付けた「三笠宮殿下」が適切な呼び方である小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL「天皇論」』P75、小学館、2009年、ISBN978-4-09-389715-0。 |
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投票数
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三笠宮崇仁親王さんについてのひとこと紹介
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