| 松阪市立鎌田中学校卒業。 |
| 小学校の頃はベルトを買う金もなく、母の腰巻のひもで代用していたというほどの貧窮家庭に育った。 |
| 在学中に父を亡くし益々貧困に喘いだ為、力士を志した。 |
| 中学卒業後は一度は就職したが相撲取りの夢を諦め切れず、出羽海部屋に入門し、1963年7月場所で初土俵を踏んだ。 |
| 入門後は二番出世で序二段に13場所もとどまるなど出世は遅く、非力で体格にも恵まれていなかったため期待されていなかった。 |
| それでも1967年9月場所に三段目優勝を果たしてからは幕下に定着して周囲にも期待されるようになった。 |
| 1969年3月場所には十両に昇進、同年9月場所には新入幕を果たした。 |
| 入幕から6場所で小結に昇進して2横綱(大鵬・玉の海)を破り、8勝7敗と勝ち越して初の三賞(殊勲賞)を受賞した。 |
| その後概ね幕内上位に定着し、1971年11月場所に小結で11勝を挙げて技能賞を獲得してからは、長谷川・貴ノ花・輪島・魁傑(現放駒)らとともに大関候補とされるようになった。 |
| また、角界の将来を担うと考えられた若手を「三角大福」にあやかって「貴輪三魁(きりんさんかい)」と呼ぶこともあった。 |
| しかし、1972年後半から肝臓病が悪化し、1974年は入幕した1969年を除いて初めて1年間平幕で過ごした。 |
| その間、1974年9月場所11日目の前頭6枚目二子岳戦で引分を記録した。 |
| この一番以後、幕内の取組で引分は出ていない。 |
| それでも1975年には回復して1月場所には平幕の地位で北の湖、輪島の両横綱を破り殊勲賞、翌3月場所にも輪島を破って連続で殊勲賞を受賞し関脇に復帰した。 |
| 関脇で勝ち越しを続け、11月場所では綱取りの貴ノ花や横綱北の湖を破って13勝2敗で初めての幕内優勝を果たし、大関の座をつかんだ。 |
| だが、新大関の1976年1月場所中に左足首を捻挫。 |
| それがもとで3月・5月と2場所連続で途中休場、3場所後の7月場所に関脇へ転落してしまった。 |
| しかし翌9月場所、関脇の地位で10勝を挙げ、1場所で大関に復帰を果たした。 |
| 1969年7月場所に「大関の地位で、2場所連続負け越した場合は関脇へ降格。 |
| その降格直後の場所で、10勝以上の勝ち星を挙げれば大関復帰」という制度が出来ていたが、その最初の適用例だった。 |
| 大関復活後も連敗癖を露呈してしばらくの間は2桁勝利すら挙げられず、2度の大関角番を経験するなど苦しい土俵が続いた。 |
| それでも肝臓病の症状が改善した1978年ごろからは二桁勝利が増えて本来の力を出し始めた。 |
| 1979年3月場所から10勝、13勝と続き、7月場所で14勝の優勝同点(輪島と優勝決定戦)の成績を挙げ横綱に推挙され、ワンチャンスで最高位をつかんだ。 |
| 現在まで、大関陥落経験のある力士が横綱に昇進した唯一の例である。 |
| また、大関時代の勝率5割9分4厘は、戦後に横綱に昇進した力士としては最も低い勝率だった。 |
| 昇進2、3場所目に連続優勝を果たすがその後は怪我・病気などで休場が多く、15日皆勤したのは4場所のみであった。 |
| 1980年11月場所限りで現役を引退した後は年寄・山科を経て武蔵川を襲名し、出羽海部屋から分家独立して武蔵川部屋を興した。 |
| 部屋の指導者としては横綱武蔵丸(現・振分)のほか武双山(現・藤島)・出島(現・大鳴戸)・雅山の三大関を送り出した。 |
| 外国出身力士に元学生横綱と、序ノ口からの叩き上げの日本人力士でなかった点では今ひとつ評価が低いものの(他に三役力士として、共に小結の垣添=学生相撲出身・現役=、和歌乃山=「花の六三組」・退職=の叩き上げ力士も育成)、一時期は角界最多数の関取を擁し一時代を築いた。 |
| 協会員としては役員待遇、監事、理事とステップアップをする。 |
| 2002年の理事選では投票で湊親方(元小結・豊山)と9票で並ぶが、決選投票で湊親方を破る形で当選している。 |
| 2006年2月より事業部長を務めていた。 |
| その後角界に不祥事が相次ぎ、大相撲力士大麻問題の処理を巡って北の湖理事長が辞任したことを受け、2008年9月8日に第10代理事長に就任した。 |
| なお2007年6月16日には、2002年の北の富士(現・NHK相撲解説者)以来5年ぶり史上8人目となる還暦土俵入りを、東京・台場のホテルグランパシフィックメリディアン(現ホテルグランパシフィック・ル・ダイバ)で行った。 |
| その際に太刀持ちを務めた力士は出島、露払いを務めた力士は雅山であり、それぞれ大関まで進んだ部屋の現役力士だった。 |
| 2010年に起きた大相撲野球賭博問題を受けて設置された特別調査委員会からは、弟子の普天王が野球賭博に関与し謹慎となり、その責任を取り(名古屋場所千秋楽)7月4日から7月25日、までの謹慎を勧告され、それを受け入れた為、7月4日理事長代行として村山弘義を立てている朝日新聞 2010年6月22日、6月29日、7月5日。 |
| 7月19日には高血圧で既に1週間前より入院していたことが判明し朝日新聞 2010年7月20日、その後も胃癌の手術を受けるなど復帰の見通しがたたず、8月5日に復帰するまで村山がそのまま代行を続投した朝日新聞 2010年7月26日武蔵川理事長が「辞意」一転、復帰宣言読売新聞2010年8月5日。 |
| 8月12日午前に開かれた臨時理事会で正式に理事長辞任を表明し、後任には放駒輝門が選出された相撲協会:「放駒」新理事長に就任「武蔵川」辞任毎日jpm・毎日新聞2010年8月12日。 |
| 2010年9月30日に年寄名跡は交換せずに藤島親方に部屋を継承する形で、武蔵川部屋は藤島部屋と新たに名称が変更され、武蔵川は部屋の最高指導者の座からは退いた。 |