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つながりの強いひと
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上杉斉定
親
出羽米沢藩の第11代藩主。上杉勝熙(8代藩主・上杉重定の長男)の子。第10代藩主・上杉治広(重定の次男)の養嗣子。官位は善政を表彰され、養父同様に少将ま... |
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上杉茂憲
出羽米沢藩の第13代(最後)の藩主。12代藩主・上杉斉憲の長男。母は於盤。正室は尾張徳川家支流松平義建の娘。継室は松平乗喬の娘、伊藤清久の娘。子に上杉... |
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上杉景勝
上杉景勝/長尾顕景(うえすぎかげかつ/ながおあきかげ)は戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。上杉謙... |
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上杉治広
出羽国米沢藩の第10代藩主。8代藩主・上杉重定の次男で第9代藩主・上杉治憲(鷹山)の養嗣子。 |
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上杉治憲
江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は初め勝興、後に治... |
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小笠原忠忱
江戸時代末期の大名。豊前国小倉藩の第10代(最後の)藩主。小笠原家宗家11代。第9代藩主・小笠原忠幹の次男。正室は上杉斉憲の娘。子に小笠原長幹(長男)、... |
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山内豊範
江戸時代末期の大名。土佐藩の第16代(最後の)藩主。爵位は侯爵。三条実美の従弟にあたる。 |
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吉井信謹
江戸時代末期の大名。上野国吉井藩第10代で最後の藩主。鷹司松平家12代。上杉茂憲は実兄にあたる。 |
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細川立
細川立之 【ほそかわ-たつゆき】 1件の用語解説(細川立之で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 細川立之 ほそかわ-たつ... |
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上杉重定
出羽国米沢藩の第8代藩主。5代藩主・上杉吉憲の四男。 |
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伊達慶邦
陸奥国仙台藩第13代藩主。伊達氏第29代当主。第11代藩主・伊達斉義の次男。実質的に最後の仙台藩主である。 |
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丹羽長裕
丹羽長裕(にわながひろ、安政6年3月15日(1859年4月17日)-明治19年(1886年)7月29日)は江戸時代末期の大名。最後の陸奥二本松藩主で丹羽家第12代。子爵。 |
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池田政礼
備中生坂藩の第8代(最後)の藩主。名の表記は池田政禮とも(旧字体)。第7代藩主・池田政和の次男。正室は上杉斉憲の娘。養子に池田政時(本家岡山藩主池田... |
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松平忠敬
武蔵忍藩の第5代(最後)の藩主。奥平松平家13代。米沢藩主・上杉斉憲の六男。母は松平頼恕の娘。正室は伏見宮邦家親王の十二女・節宮。子は松平忠寿(長男)... |
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松平頼恕
讃岐高松藩の第9代藩主。常陸水戸藩主・徳川治紀の次男。母は側室中山氏。正室は8代藩主松平頼儀の娘・倫。側室に浅田氏、野萱。子に松平頼煕(長男)、松平... |
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勝賢
平安時代中期の真言宗の僧。東大寺87世、醍醐寺18・20・22世座主。父は藤原通憲(信西)。初名は勝憲。通り名を侍従僧正、覚洞院権僧正。忍辱仙流の祖である... |
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上杉定勝
江戸時代の外様大名。上杉景勝の長子。出羽米沢藩第2代藩主。 |
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上杉勝道
出羽国米沢新田藩の第5代(最後)の藩主。米沢藩主・上杉斉定の四男。4代藩主・上杉勝義の養子。正室は谷衛昉の娘。官位は従五位下、駿河守。文政9年(1826年... |
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プロフィール
上杉斉憲(うえすぎなりのり)は、江戸時代末期の大名。出羽国米沢藩の第12代藩主。第11代藩主・ 上杉斉定の長男。のちに斉定とも名乗っている。
経歴
| 文政3年(1820年)5月10日、出羽米沢藩主・上杉斉定の長男として生まれる。 |
| 天保7年(1836年)10月23日、従四位下侍従兼式部大輔に叙任。 |
| 天保10年(1839年)4月3日、家督を継いで藩主となる。 |
| 同年同月11日、弾正大弼に転任。 |
| 安政3年(1856年)に海外防備による出費のために藩士の知行借り上げを復活。 |
| 同年12月16日、左近衛権少将を兼任。 |
| 安政6年(1859年)には種痘を藩内に推奨した。 |
| 文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたり、9月22日、左近衛権中将に転任。 |
| 元治元年(1864年)5月1日、従四位上に昇叙。 |
| 左近衛権中将兼弾正大弼如元。 |
| 藩政改革に努め、軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなど、藩政に大きな成功を収め、慶応2年(1866年)にはこの功績を賞され3万石の加増を受けている。 |
| 上杉家の領地が増やされるのは実に2世紀半ぶりのことで、豊臣政権時代に越後から会津に加増転封になって以来のことである。 |
| この一事が非常な喜びとなったか、かつての名君・上杉治憲(鷹山)に次ぐ名君とまで呼ばれた。 |
| 開明的な人物で、開国にも積極的だったという。 |
| 慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きて会津藩と共に米沢藩も討伐の対象とされたが、当初は斉憲は新政府の意向に従って恭順を考えていた。 |
| しかし、その嘆願を望んで送った書状を新政府に握りつぶされたため、これに怒って仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となり、新政府軍と戦った。 |
| 米沢軍は一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、慶応4年(1868年)5月に新発田藩の寝返りもあって新政府軍の猛攻を受け敗走する。 |
| その後、旗色が悪くなったため、やむなく新政府軍に降伏した。 |
| そして、それまで味方であった会津と庄内に兵を送ったため、「裏切り者」と称された。 |
| 明治維新後、奥羽越列藩同盟の盟主であったことを咎められて、領地を14万石に削減されてしまった。 |
| また、明治元年12月7日、家督を長男・茂憲に譲り隠居した。 |
| 慶応4年8月3日、解官。 |
| 明治2年(1869年)9月28日、従五位に叙位。 |
| 明治22年(1889年)5月20日、死去。 |
| 享年70(満68歳没)。 |
斉憲家臣
| 元治元年の江戸武鑑に見られる主要家臣は以下のとおり。 |
| 【家老、奉行、侍頭及び分領家】。 |
| 本庄弥次郎、長尾権四郎、中条豊前、千坂琢磨、色部長門、毛利治部、竹俣美作、市川美濃、清野大学、島津玄蕃、平林内蔵助、竹俣直蔵、広居図書、莅戸孫七郎。 |
| 深澤五平太、甘粕数右衛門(甘粕継成か?)、小倉将監、樋口伊織、額田求馬、木滑要人(城使兼務)、若林作兵衛、登坂八兵衛、。 |
| 【世子傳役】。 |
| 【世子附き用人】。 |
| 大瀧新蔵、増岡孫次郎。 |
| 【御城使】。 |
| 額田卯右衛門。 |
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1820年
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出羽米沢藩主・上杉斉定の長男として生まれる |
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1856年
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海外防備による出費のために藩士の知行借り上... |
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