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つながりの強いひと
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上杉憲政
戦国時代の大名。室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家の当主である。上杉謙信を養子とした。憲当、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の呼称で統一... |
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古河公方
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方足利成氏が、享徳の乱の際に鎌倉... |
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北条氏綱
戦国時代の武将、相模の戦国大名。なお、当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)頃である。父の北条早雲は生涯... |
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北条綱成
戦国時代の武将。後北条氏家臣。父は今川氏家臣の福島正成とされる。幼名は勝千代。 |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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今川義元
戦国時代の武将、駿河国の守護大名・戦国大名。足利氏の傍流吉良氏の分家に当たる今川氏の出身で、駿河今川家第9代当主。父は第7代当主・今川氏親、母は父の... |
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上杉定正
室町時代の武将、守護大名。相模守護、扇谷上杉家の当主。上杉持朝の3男。一般には『南総里見八犬伝』の影響で扇谷定正の名前で知られている。 |
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上杉景勝
上杉景勝/長尾顕景(うえすぎかげかつ/ながおあきかげ)は戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。上杉謙... |
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太田道灌
室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、... |
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上杉朝房
南北朝時代の武将、守護大名。関東管領、上総・信濃守護。父は上杉憲藤(犬懸上杉家)。弟に朝宗。妻は上杉憲顕(山内上杉家)の娘。官位は左馬助、中務大少... |
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南北朝時代
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。 |
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上杉朝宗
南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。関東管領、上総・武蔵守護。犬懸上杉家(または四条上杉家)出身。上杉憲藤の子で朝房の弟。氏憲(禅... |
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太田資正
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。元は武蔵国岩付城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)の城主。のち常陸国の片野城城主。資正は岩付太田氏の一族で、... |
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上杉顕定
室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。越後守護上杉氏の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。 |
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上杉朝方
室町時代の守護大名。越後守護。上杉房方の長男。頼方、憲実、重方、清方は弟。子に房朝、朝定(山本寺氏祖)。応永28年(1421年)に父房方が死去した為、後... |
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上杉景虎
戦国時代の武将。北条氏康の七男。母は遠山康光の妹。初めは北条三郎(ほうじょうさぶろう)と名乗ったと推定される。のちに上杉謙信の養子になる。 |
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上杉氏定
室町時代の武将。上杉氏の一族で扇谷上杉家当主。上杉顕定(扇谷上杉家)の養子。実父は上杉頼顕(小山田上杉家)で定重の兄。持定、持朝、娘(今川範政妻)... |
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上田朝直
関東へ出兵して来た上杉謙信に呼応し北条氏を離反している。永禄4年(1561年)に謙信が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われ... |
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プロフィール
- 上杉朝定とは
- 上杉朝定(二橋上杉家)
- 上杉朝定(山本寺上杉家)
- 上杉朝定(扇谷上杉家)
上杉朝定(うえすぎともさだ)は、 南北朝時代の武将。元亨元年(1321年)、上杉重顕の子として生まれる。父の重顕から家督を継いだ。 足利尊氏・直義兄弟に仕え、京都において室町幕府の要職(丹後守護・引付頭人等)にあった。 高師直と共に尊氏の執事を務めていたこともあるが、観応の擾乱が勃発すると直義方につき尊氏・師直と戦った。ただし、同じ直義方であった一族の 上杉重能・憲顕とは関係が思わしくなかったらしく、乱勃発後に尊氏の嫡男義詮が朝定邸を訪問して会談する(観応元年7月28日『祇園執行日記』)など、尊氏方への接近を疑わせる ...
上杉朝定(二橋上杉家)
| 上杉朝定(うえすぎともさだ)は、南北朝時代の武将。 |
| 元亨元年(1321年)、上杉重顕の子として生まれる。 |
| 父の重顕から家督を継いだ。 |
| 足利尊氏・直義兄弟に仕え、京都において室町幕府の要職(丹後守護・引付頭人等)にあった。 |
| 高師直と共に尊氏の執事を務めていたこともあるが、観応の擾乱が勃発すると直義方につき尊氏・師直と戦った。 |
| ただし、同じ直義方であった一族の上杉重能・憲顕とは関係が思わしくなかったらしく、乱勃発後に尊氏の嫡男義詮が朝定邸を訪問して会談する(観応元年7月28日『祇園執行日記』)など、尊氏方への接近を疑わせる行動も取っている。 |
| 正平7年/観応3年(1352年)、信濃において没したが、死因は病没とも戦死ともいわれはっきりしない。 |
| 養子で従甥の顕定は鎌倉へ下向、鎌倉扇谷に居住して扇谷上杉家の祖となる。 |
上杉朝定(山本寺上杉家)
| 上杉朝定(うえすぎともさだ)は、室町時代中期の武将。 |
| 越後守護である上杉家の分家の一つ山本寺上杉家の祖とされる。 |
| 不動山城を築いたのは朝定とも、朝定の子とされる定種とも云われる。 |
| 山本寺上杉家の系譜ははっきり分かっておらず、戦国時代に長尾氏に仕えた定長や孝長(景長)などとの続柄は不明(おそらく曾孫か玄孫)である。 |
上杉朝定(扇谷上杉家)
| 上杉朝定(うえすぎともさだ)は、武蔵の戦国大名。 |
| 扇谷上杉家の事実上最後の当主である。 |
| 大永5年(1525年)、上杉朝興の子として生まれる。 |
| 天文6年(1537年)4月に父が死去したため、家督を継いで当主となる。 |
| そして後北条氏に対抗するため、武蔵国府中(現調布市)・深大寺に城(深大寺城)を築いている。 |
| ところが若年の朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱に7月には河越城を攻められ、朝定は敗走して以後は松山城を居城とした。 |
| 天文10年(1541年)、長年抗争していた宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、北条氏康に対抗する。 |
| 天文14年(1545年)には駿河の今川義元と連携し、上杉憲政や古河公方足利晴氏らと連合した8万の大軍で河越城を攻める。 |
| 河越城主北条綱成の善戦に遭うものの、落城寸前にまで追い込んだ。 |
| しかし天文15年(1546年)4月20日、河越城の後詰にかけつけた氏康の奇襲に遭い、河越の戦い(いわゆる河越夜戦)で扇谷上杉軍は善戦するも当主朝定は討死、他の連合軍は四散し河越城奪還の夢は砕かれた。 |
| 上杉朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。 |
| 一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興をはかったが、まもなく後北条氏に屈服している。 |
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1321年
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上杉重顕の子として生まれる |
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1352年
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信濃において没したが、死因は病没とも戦死と... |
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