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つながりの強いひと
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上杉治憲
江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は初め勝興、後に治... |
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秋月種美
日向高鍋藩の第6代藩主。第5代藩主・秋月種弘の長男。母は柴垣氏。正室は黒田長貞の娘。子は秋月種茂(長男、第7代藩主)、上杉治憲(次男、出羽米沢藩主)、... |
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上杉吉憲
親
出羽米沢藩の第5代藩主。4代藩主・上杉綱憲の長男。 |
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細井平洲
細井平洲(ほそいへいしゅう、享保13年6月28日(1728年8月3日)-享和元年6月29日(1801年8月8日))は江戸時代の儒学者。本姓は紀氏。折衷学派。平洲または如... |
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上杉治広
出羽国米沢藩の第10代藩主。8代藩主・上杉重定の次男で第9代藩主・上杉治憲(鷹山)の養嗣子。 |
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竹俣当綱
米沢藩上杉家の家臣。家格は侍組分領家。石高は1000石、一時的に300石減棒され700石。民政家で産業に明るかった為、莅戸善政らと共に上杉鷹山に抜擢され、明... |
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上杉宗憲
出羽米沢藩の第6代藩主。5代藩主・上杉吉憲の長男。生母は山中氏(祥寿院)。 |
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上杉綱憲
江戸時代中期の外様大名。米沢藩第4代藩主。高家肝煎吉良義央の実子。教学振興を行い、後に藩校興譲館となる聖堂・学問所を設立(現山形県立米沢興譲館高等学... |
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上杉宗房
出羽米沢藩の第7代藩主。5代藩主・上杉吉憲の次男。母は山中氏(祥寿院)。 |
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莅戸善政
江戸時代中期の米沢藩上杉家の家臣。善政は諱。通称は九郎兵衛、隠居後の再勤後は六郎兵衛。家格は馬廻組、後に一代侍組。石高は初め180石、その後増加し奉行... |
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春姫
尾張藩初代藩主徳川義直の正室。父は紀州藩初代藩主浅野幸長、母は正室の池田恒興の娘。号は高原院。慶長8年(1603年)、和歌山城で誕生。慶長14年(1609年)... |
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上杉景勝
上杉景勝/長尾顕景(うえすぎかげかつ/ながおあきかげ)は戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。上杉謙... |
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上杉勝定
出羽国米沢新田藩の第3代藩主。米沢藩主・上杉重定の三男。母は小川氏で、上杉勝煕、上杉治広の同母弟。米沢新田藩2代藩主・上杉勝承の養子。官位は従五位下... |
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上杉斉定
出羽米沢藩の第11代藩主。上杉勝熙(8代藩主・上杉重定の長男)の子。第10代藩主・上杉治広(重定の次男)の養嗣子。官位は善政を表彰され、養父同様に少将ま... |
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黒田長貞
筑前国秋月藩の第4代藩主。福岡藩家臣・野村祐春の次男。母は黒田一貫の娘・鶴子(初代藩主・黒田長興の孫娘)。正室は上杉綱憲の娘・豊子。子に黒田長邦(長... |
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上杉定勝
江戸時代の外様大名。上杉景勝の長子。出羽米沢藩第2代藩主。 |
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上杉綱勝
江戸時代の大名で、出羽国米沢藩の第3代藩主。生母は生善院(近衛家家司斉藤本盛娘)。正室は保科正之の長女・媛姫、継室は四辻公理の娘・富姫(公理は四辻公... |
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徳川家治
徳川家治(とくがわいえはる)は江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年)-天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方... |
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藤沢周平
日本の小説家。山形県鶴岡市出身、本名小菅留治(こすげとめじ)。江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残した。とくに、架空... |
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徳川宗勝
尾張藩の第8代藩主。尾張藩支流川田久保家初代・松平友著(尾張藩第2代藩主・徳川光友の十一男)の長男。母は湯本氏(繁、円珠院)。正室は第4代藩主・徳川吉... |
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プロフィール
上杉重定(うえすぎしげさだ)は、出羽国米沢藩の第8代藩主。5代藩主・ 上杉吉憲の四男。
経歴
| 享保5年7月6日(1720年8月9日)出生。 |
| 吉憲四男であったが享保19年(1734年)5月13日に長兄の宗憲が、延享3年(1746年)8月12日に次兄・宗房があいついで嗣子なくして死去し、三兄の貞千代(後の畠山義紀)がすでに高家旗本畠山氏に養子入りしていたので、同年9月26日、家督相続して藩主となり、同年、12月5日に元服し、将軍徳川家重の諱を一字賜わり、重定と名乗り、従四位下侍従大炊頭に叙任。 |
| 米沢藩では減封が相次ぎ、第4代上杉綱憲の末期養子としての襲封を認める代償に15万石にまでなっていた。 |
| それにもかかわらず、藩士召し放ちを行なわなかったこともあり藩財政は極めて劣悪であった。 |
| 寛延3年(1750年)以降から、それまで臨時的に行っていた藩士からの半知借り上げが常道化する。 |
| 宝暦3年(1753年)に村山郡の預領を替えて、越後国岩船郡に割替となる。 |
| その一方、東叡山寛永寺中堂普請手伝いを江戸幕府より命じられて工事費5万7千4百両を費やした。 |
| 加えて宝暦5年(1755年)には藩内を大凶作が襲い、凶作被害損毛高7万5千8百20石余りとなり、城下で原方衆に煽動された百姓による富商宅の打ちこわし事件も発生する。 |
| また宝暦10年(1760年)に青苧騒動が起こる。 |
| 藩政は藩主・重定の信任を得ていた奉行筆頭の清野内膳秀佑が、清野が引退後は与板組出身の側近で、後に郡代所頭取兼小姓頭となる森平右衛門利真らによって牛耳られていたが、領民の反発を買って宝暦13年(1763年)に森平右衛門は竹俣当綱に呼び出されて刺殺される。 |
| そしてその一派は粛清された。 |
| それでも藩財政の苦しさは変わらず、宝暦10年に竹俣の出した進言に従い、尾張藩なお、義父の徳川宗勝が諭したというのが通説であるが、宗勝は宝暦11年(1761年)に死去しているので、宝暦14年に返答したのは徳川宗睦ということになる。 |
| を通して幕府に藩土返上のうえ、領主を辞めると言う事を相談し、宝暦14年1月(1764年)にはこれを諌められ取り下げている。 |
| このような財政逼迫の情況の中、宝暦9年に日向国高鍋藩藩主秋月種美の次男松三郎を養子とする内約を結び、宝暦10年には実子が生まれたのにかかわらず養嗣子として迎えた。 |
| これが上杉治憲(鷹山)である。 |
| また、藩医の藁科松伯の薦めにより細井平州を招き、明和元年には治憲とともに講義をうける。 |
| 明和4年(1767年)4月24日に多病を理由に治憲に家督を譲って隠居した。 |
| そして、森平右衛門を斬殺した竹俣当綱らを重用した名君・鷹山の改革により米沢藩は再建されることとなる。 |
| 隠居後は米沢に移り、隠居所の南山館で暮らしていたが、天明3年(1783年)に南山館が焼失すると天明5年(1785年)に偕楽館を新築してそこに移る。 |
| この隠居所の火災と新築は天明の飢饉や治憲の隠居所建設と重なったこともあり、藩財政に打撃を与えた。 |
| 寛政10年3月26日(1798年5月11日)死去。 |
人物
| 重定はあまり政務に興味を示さず、基本的に家臣に政治を丸投げしていた。 |
| 隠居後も余り政治に口出ししなかったが、鷹山が厳しい倹約令を出して家臣団から凄まじい反発を受けた(反対派の家臣芋川延親が鷹山の袴の裾を掴んだ事もあったとされる)ことがあるが、これに重定は「養子とはいえ我が子に無礼である」と激怒し、改革の抵抗勢力であった色部照長や千坂高敦を蟄居閉門、須田満主、芋川延親を切腹にするなどの厳しい処罰、改革のブレーン細井平洲に嫉妬し抵抗勢力のブレーンであった藁科立澤も斬首(七家騒動別名は七家訴状事件)に処した鷹山の処置を支持するなど、鷹山の改革に陰ながら協力をした。 |
| また、次男の治広が藩主になった際も、隠居した治憲に藩政後見を要望したという。 |
| 華美を好んだために財政はさらに逼迫して破綻寸前になってしまった。 |
| 隠居後も膨大な隠居料を受けて華美な生活を続けた。 |
| 鷹山の倹約改革も大殿たる重定には届かず、倹約に励む藩内で重定だけは金を湯水のように、という状態であった。 |
| 一方の鷹山の生活費は従来の米沢藩主の7分の1で、重定の3分の1であったが、反発することなく重定には孝養を尽くしたという。 |
| 天明7年に重定が重体になった際も鷹山は実父の喪中にもかかわらずわざわざ江戸から米沢に下向して看病したという。 |
| 金剛流能楽を愛好していた。 |
| このため、鷹山は安永7年(1778年)に江戸の金剛流宗家の金剛三郎を米沢に招いている。 |
| また藩財政建て直しのために、藩主家家財売却の話が出たが、このとき宝蔵と能蔵のどちらを先に売却家財の対象とするかで議論となり、鷹山は「能蔵は重定の翫物だから宝蔵の方が先だ」といったという。 |
主要家臣
| 『大武鑑』掲載の宝暦13年の江戸武鑑で見られる主要家臣。 |
| 【役職】は武鑑掲載の役職。 |
| (役職)は『上杉鷹山のすべて』(新人物往来社)で補足。 |
| 《侍組分領家》(武鑑では項目名なし)。 |
| 本庄大和、長尾権四郎、中条周防、千坂対馬(奉行)、須田伊豆、色部典膳(江戸家老)、安田内匠、竹俣美作(江戸家老)、市川豊後、清野内膳、芋川縫殿(奉行)、島津玄蕃、平林蔵人、竹俣勘解由、広居左京(江戸家老格)。 |
| 森此面(小姓頭)、森平右衛門(郡代所頭取及び小姓頭兼務)、斉藤平馬、下治右衛門、黒川小平太。 |
| 笹生彦五郎、舟橋源太左衛門。 |
| 【上杉直丸附役】。 |
| 香坂帯刀(傳役)、蓼沼平太(側役及び部屋住用人)。 |
参考文献
| 『三百藩藩主人名辞典第一巻』新人物往来社。 |
| 横山昭男『上杉鷹山』吉川弘文館。 |
| 橋本博『改訂増補大武鑑中巻』(1965年 名著刊行会)。 |
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1720年
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享保5年7月6日出生。吉憲四男であったが享保1... |
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1734年
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長兄の宗憲が、延享3年1746年8月12日に次兄・... |
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