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つながりの強いひと
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幸内純一
幸内純一(こううちじゅんいち、1886年-1970年)は大正-昭和初期に活躍した漫画家、アニメーション演出家である。 |
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北山清太郎
明治末から大正初期の日本美術界で重要な役割を果たしていた。 県立近代美術館(和歌山市吹上)の学芸員、宮本久宣さん(34)の研究テーマがこのほど、 全国の美... |
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柳瀬正夢
美術家、画家、デザイナー、舞台美術家。本名は正六、別名は夏川八朗。愛媛県生まれ。上京し絵画を学ぶ。1920年には読売新聞に入り、時事まんがを描いていた... |
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北澤楽天
岡本一平の『一平全集』と共に、幼少期の手塚治虫に影響を与えた点で特筆される。 |
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大藤信郎
東京都浅草出身の日本の男性、アニメーション監督である。 |
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清水勲
日本の漫画・風刺画研究家。東京生まれ、千葉県在住。立教大学理学部数学科卒業。編集者、美術館研究員を経て、日本漫画資料館館長、川崎市市民ミュージアム... |
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細木原青起
細木原青起 【ほそきばら-せいき】 2件の用語解説(細木原青起で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 細木原青起 ほそき... |
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服部亮
服部 亮 ブログ > 医師 > 外科(一般)・消化器外科 > 服部 亮 名 前 服部 亮 (ハットリ リョウ) 役 職 外科医長 卒業年 平成12年 専門領域 外科... |
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小川武
スタープロフィール小川武倫オガワタケトモプロフィール生年月日 1983.5.30 星座 双子座 特技 スポーツ(特に野球・サッカー) 所属事務所 レディバード〒102... |
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近藤浩一路
日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家・教育者である近藤喜則は祖父にあたる。 |
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前田愛
前田愛(マエダアイ) 1983年10月4日/てんびん座/東京出身/B型/157cm 出典:日本タレント名鑑( VIPタイムズ社 ) 公式プロフィールを見る 東京都出身。グラ... |
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山田みのる
山田みのる やまだみのる ( マンガ ) 編集 注目の求人情報 [求人] 有限会社ニシキ精機への正社員転職 募集内容:品質管理/リーダー候補★会社を一緒に育て... |
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政岡憲三
政岡憲三(まさおかけんぞう、1898年10月5日-1988年11月23日)は日本のアニメーション作家、アニメーション監督、演出家。大阪出身。日本のアニメ黎明期にお... |
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近藤日出造
近藤日出造(こんどうひでぞう、1908年2月15日-1979年3月23日)は日本の漫画家である。本名は秀蔵(読みは同じ)。政治家の似顔絵を主とする政治風刺漫画を中... |
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青山学
青山学院大学 博士前期課程2年 深山 鷹一 ・プロフィール ミヤマヨウイチ : 博士前期 - 相模原キャンパス -2 年 - 男 -1981/10/20 生まれ
(学)鈴木学園 厚木高等... |
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田河水泡
昭和期に活躍した日本の漫画家。現代美術家から転じた。世界で初めての専業落語作家でもある。東京市本所区林町(現東京都墨田区)出身。義理の兄は文芸批評... |
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清水崑
清水崑(しみずこん、本名:清水幸雄、1912年9月22日-1974年3月27日)は昭和の漫画家。長崎県長崎市出身。妻は歌人の清水恒子、その姉は俳人の石橋秀野(山本... |
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水島爾保布
日本の画家、小説家、漫画家、随筆家。本名は爾保有。これは『難訓辞典』の著者である父、水島慎次郎(鳶魚斎)による命名。また、長男の行衛(ゆきえ)は、... |
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麻生豊
麻生豊(あそうゆたか、1898年(明治31年)8月9日-1961年(昭和36年)9月12日)は日本の漫画家。本名は同表記だが「あそうみのる」と読む。 |
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プロフィール
- 下川凹天とは
- 漫画家になるまで
- 日本初のアニメーション映画
- 漫画家として活躍
- 晩年
- 「凹天」の読みついて
- 主な漫画作品
- フィルモグラフィ
- ビブリオグラフィ
- 参考文献
- 関連サイト
下川凹天(しもかわへこてん(おうてん)読みについては後述、1892年5月2日-1973年5月26日)は、日本の漫画家、アニメーション作家である。本名は-貞矩(-さだのり)。大正から昭和にかけて漫画家として活動。また日本初のアニメーション映画の製作者としても知られ、日本のアニメーション 創始者の一人である。
漫画家になるまで
| 1892年(明治25年)5月2日、沖縄県宮古島に生まれる鹿児島県奄美大島説もある。 |
| ただし自書の中で「鹿児島県奄美大島生まれ」と書いた清水勲は、津堅信之への私信において引用の誤りであったとしている。 |
| (「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」8頁)。 |
| 父・貞文()は新里尋常小学校(現:宮古島市立上野小学校)の初代校長を務めた人物大城「研究(1)」94‐95頁。 |
| で、凹天誕生時は平良小学校(現:宮古島市立平良第一小学校)に赴任していた大城「研究(1)」94頁。 |
| 1898年(明治31年)12月26日、父の貞文が在職中に死去し、母の実家のある鹿児島県へ移転した大城「研究(1)」95-96頁。 |
| 1900年(明治33年)、東京在住の伯父(父の弟)である陸軍軍人石橋正人に引き取られる形で上京した大城「研究(1)」96頁。 |
| 1906年(明治39年)3月、旧制・麹町小学校を卒業大城「研究(3)」129頁。 |
| 後、『東京パック』の漫画家養成の広告を見て北澤楽天に入門前田愛・清水勲『大正後期の漫画:岡本一平・下川凹天』筑摩書房、1986年、76‐77頁、書生として楽天のもとで生活する。 |
| この時に「凹天」の号を名乗る当時の楽天の弟子たちは、長崎抜天など「天」の号が与えられていた。 |
| 1907年(明治40年)4月、楽天の勧めで旧制・青山学院に入学するも、1年で落第・退学となる大城「研究(3)」、130頁。 |
| 1912年(明治45年)、師であった楽天が『東京パック』を離れ、『楽天パック』を刊行すると、「今の凹天は旧事の凹天ではありません」という主旨の手紙を送る。 |
| この手紙を読んだ楽天は喜んで凹天を迎え入れたという。 |
| 『楽天パック』に執筆を開始し、漫画家としての生活がスタートする。 |
| 1916年(大正5年)、処女出版となる『ポンチ肖像』が出される。 |
| 岡本一平・幸内純一から序文、北澤楽天をはじめとする当時活躍していた25人の漫画家から序画が寄せられた。 |
| 大城「研究(3)」130‐131頁同年、たま子と最初の結婚をする大城「研究(2)」68-69頁。 |
日本初のアニメーション映画
| 1916年、東京パック社に天然色活動写真株式会社(天活)からアニメーション製作の人材を紹介してほしいという話が持ち込まれ、両者の話し合いの結果、凹天が推薦されることになる秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へマンガとマンガ映画』NTT出版、2005年、ISBN4-7571-0132-5、88‐96頁。 |
| 凹天は月給五十円で歩合付きという好条件と日本初のアニメーション製作という熱意もあってその仕事を引き受ける『日本アニメーション映画史』9頁。 |
| 資料が少ない中、凹天はアニメーションの研究を行う。 |
| 同時期、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。 |
| 1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『芋川椋三玄関番之巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人ともアニメーションの創始者として扱われている津堅「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」7頁。 |
| 凹天は当初、黒板にチョークに絵を描いて撮影してから、少しずつ絵を消したり書き加えたりしながら1コマずつ撮影する方法ジェームズ・スチュアート・ブラックトン(en)作の『愉快な百面相』(en)(1906年)で用いられた作成方法に似ている。 |
| をとっていた津堅「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」11頁。 |
| 3作目の『茶目坊新画帳蚤夫婦仕返しの巻』までは、この方法をとっていた可能性が高い。 |
| 続いて用いたのは、3種類ほどの背景が大量に印刷し、一部分のみホワイトを塗る。 |
| その塗った部分に登場人物を描いて撮影する方法である。 |
| しかし、その撮影に使った電球の光のせいで眼病を患い、赤十字病院に1年半入院大城「研究(2)」70頁。 |
| 天活を辞めることになり、以後アニメーション制作に関わることはなかった。 |
漫画家として活躍
| 1919年(大正8年)、読売新聞で。 |
| 翌9年までの間に似顔絵や風刺画を手がける。 |
| その後も『中央新聞』、『毎夕新聞』、『新愛知』(現:中日新聞)、『國民新聞』(現:東京新聞)などに似顔絵や政治漫画・風刺漫画を書いていく。 |
| 特に『読売サンデー漫画』・『読売新聞』に連載した「男ヤモメの巌さん」で有名になり、続いて読売新聞で連載された「無軌道父娘」とあわせて一般の人々に凹天の名が知れ渡るようになった。 |
| 凹天自身も漫画雑誌『漫画』を1926年(大正15年)に・『漫画王国』を1937年(昭和12年)に刊行、漫画家として精力的に活動を行った。 |
| しかし家族生活には恵まれていなかったようで、1919年に生まれた長男は半年後に死亡してしまう。 |
| 1940年(昭和15年)には妻のたま子が死亡。 |
| 同年、なみをと再婚する大城「研究(1)」97頁。 |
晩年
| 1950年(昭和25年)に千葉県野田市に移住大城「研究(3)」136頁。 |
| 1963年(昭和38年)妻なみをの死後は、野田醤油(現:キッコーマン)元社長・茂木房五郎家の厚意により、邸宅の離れで生活をする。 |
| 以後10年余りそこに住み続ける。 |
| 1973年(昭和48年)5月26日、死去。 |
| 墓所は東京都品川区小山の長応寺。 |
「凹天」の読みついて
| 一般にアニメーション分野では「おうてん」・漫画分野では「へこてん」と呼ばれている津堅「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」8頁。 |
| アニメーション研究家のおかだえみこによれば、読み方が決まらなかったため「おうてん」と読むことに決めたとし、漫画史研究家の清水勲によれば、凹天関係者及び楽天関係者は皆「へこてん」と呼んでいたという。 |
| 「楽天の弟子のくせに王天(おうてん)とはなにごとか」と冷やかされて読みを換えたというエピソードと、1917年の映画雑誌に掲載された彼の近況を伝える記事に「おうてん」とルビが振られたことから、ある時期から凹天の読みを換えたと推測される。 |
| また漫画分野においては、少なくとも1921年(大正10年)まで「おうてん」と呼ばれていた可能性が高いが東京漫画会編『東海道漫画紀行』朝香屋書店、1922年、 |
| (近代デジタルライブラリー)、それ以上詳しいことは不明である。 |
| アニメーション研究家の津堅信之はアニメーション分野においては今まで通り「おうてん」と呼んで差支えはないとしている。 |
主な漫画作品
| 芋川椋三とブル(東京パック)。 |
| 文チャンの探検(新愛知新聞)。 |
| 男ヤモメの巌さん(読売サンデー漫画・読売新聞)。 |
| 無軌道父娘(読売新聞)。 |
| 剛チャンの人生日記(読売新聞)。 |
| かはいい後家さん(読売新聞)。 |
| ガンさん一家(日本夕刊)。 |
| イガグリとうちゃん(日刊農業新聞)。 |
フィルモグラフィ
| 凹天が製作した作品のフィルム・スチル写真は、ともに現存されていない。 |
| ;演出・作画(すべて短篇アニメーション)。 |
| 『芋川椋三玄関番之巻』、天活、1917年1月、浅草・キネマ倶楽部。 |
| 『凸凹新画帳名案の失敗』、天活、1917年2月、浅草・キネマ倶楽部。 |
| 『茶目坊新画帳蚤夫婦仕返しの巻』、天活東京撮影所、1917年4月28日、浅草・キネマ倶楽部。 |
| 『芋川椋三宙返りの巻』、天活、1917年5月、浅草・キネマ倶楽部。 |
| 『茶目坊主魚釣の巻(芋川椋三釣の巻)』、天活、1917年9月9日、浅草・キネマ倶楽部。 |
| 『男やもめの厳さん』、監督斎藤寅次郎、松竹蒲田撮影所、1933年7月27日、新宿松竹館。 |
| 『剛ちゃんの人生日記』、監督大谷俊夫、日活多摩川撮影所、1934年9月28日、日本劇場。 |
ビブリオグラフィ
| 『ポンチ肖像』磯部甲陽堂、1916年。 |
| 『漫画人物描法』弘文社、1925年。 |
| 『凸凹人間』新作社、1925年。 |
| 『漫画スケツチブツクと描き方』弘文社、1928年。 |
| 『裸の世相と女』中央美術社、1929年。 |
| 『漫画似顔画集』弘文社、1930年。 |
| 『男やもめの巌さん』アトリエ社、1935年。 |
| 『実習指導漫画の描き方』弘文社、1943年。 |
| 『実習指導漫画人物画の描き方』弘文社、1947年。 |
| 『郷土の偉人木白さま物語』共著市山五悠、無相望、1970年。 |
参考文献
| 大城冝武「下川凹天研究(1)―誕生と死と―」『沖縄キリスト教短期大学紀要』第23号、沖縄キリスト教短期大学、1994年、93-101頁。 |
| 大城冝武「下川凹天研究(2)―日本におけるアニメーション映画の黎明―」『沖縄キリスト教短期大学紀要』第24号、沖縄キリスト教短期大学、1995年、63‐73頁。 |
| 大城冝武「下川凹天研究(3)―凹天年譜校註―」『沖縄キリスト教短期大学紀要』第26号、沖縄キリスト教短期大学、1997年、125‐139頁。 |
| 津堅信之「日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究」『アニメーション研究』Vol.3No.2A、日本アニメーション学会、2002年、7‐20頁。 |
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1916年
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東京パック社に天然色活動写真株式会社(天活... |
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1917年
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『芋川椋三玄関番之巻』、天活、、浅草・キネ... |
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