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歌子は岩村藩の藩士の家に生まれる。
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幕末に勤王派の藩士だった父は蟄居謹慎を命じられるが、そんな苦難の中、祖母から読み書きを習い、5歳で俳句と漢詩を詠み、和歌を作るなど神童ぶりを発揮した。
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書物を読んで善い事だと思うと、すぐに行動にうつす事も多かった。
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(例)「二十四考」という親孝行を書いた書籍に両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せたという内容があり、鉐はそれを実際にやったという事実がある。
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元号が明治になり祖父と父は新政府の招聘を受けて東京に出るが、17歳になった鉐もその後を追って上京。
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そのとき、故郷の国境、三国山の峠で、鉐は「綾錦着て帰らずは三国山またふたたびは越えじとぞ思ふ」という歌を詠んでいる。
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1872年(明治5年)、女官に抜擢され宮中出仕する。
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武家の子として身に付けた礼儀作法や、儒学者の祖父仕込みの学識、和歌の才能で昭憲皇太后から寵愛され「歌子」の名を賜る宮中に上がって間もないころ鉐は、春の月を歌に詠んだ。
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昭憲皇太后から「あなたは歌の才能がある。
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これからは歌子と名乗りなさい。
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」と言われ、以来鉐は歌子と自らを名乗るようになった。
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宮廷で和歌を教えるようになる。
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1879年(明治12年)に剣客の下田猛雄と結婚。
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3年後に夫が病に臥す。
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看病のかたわら、自宅で『桃夭(とうよう)女塾』を開講。
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当時の政府高官の殆どがかつての勤王の志士だったため、彼らの妻の多くは芸妓や酌婦だった。
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世間知らずではないが、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えた。
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1884年(明治17年)、夫猛雄が病死。
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塾の実績と皇后の推薦で、創設された「華族女学校」の教授に迎えられた。
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翌年には学監に就任。
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華族の子女のみが学んだこの学校では古式ゆかしい儒教的な教育がなされた。
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1893年(明治26年)、女子教育の視察のため2年間欧米へ。
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英国では王室の子息らが一般校で学び、貴族階級の女子が運動で身体を鍛えていることや、女子と男子とが同じ教育を受けていることにショックを受ける。
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帰国後、歌子は「帝国婦人協会」を設立。
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当時庶民の女性があまりにも男性の言いなりにばかりなっていた姿に心を痛め、「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要。
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」と女性に教養を授け、品性を磨かせ、自活のチャンスを与えて女性の地位向上・生活改善をはかるべく奮闘した。
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1906年(明治39年)、「華族女学校」は「学習院」に統合され、陸軍の乃木希典将軍が学習院の院長に就任。
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軍人である乃木と方針をめぐって対立する。
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昭和11年(1936年)10月8日の死去まで、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園や順心女子学園設立の基礎を築いた。