| このバンドがブルース志向だったため、当時ブルースが盛んだった大阪にメンバー全員で進学、同時にバンド名を"''ツイスト''"に変更したいつみても波瀾万丈(日本テレビ)2007年8月12日燃えろロックンローラー石原信一著1981年集英社73頁 |
| 在学中に音楽コンテストの関係者から「ボーカルがヘタ」との指摘を受け、それまでベースの担当だった世良がボーカルに交代いつみても波瀾万丈2007年8月12日 |
| 1977年、メンバーの大学卒業、バンドの解散のけじめに出場したヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に出場。 |
| この際、メンバーで唯一プロを目指す世良に少しでも役立とうと"世良公則&ツイスト"にバンド名を変更した燃えろロックンローラー73頁。 |
| 1977年10月、「あんたのバラード」がポプコン本選会でグランプリを獲得。 |
| フォーク系シンガーが多かったポプコンでロックバンドがグランプリを獲るのも初めての事でこれもひとつの"事件"だった『一九七〇音楽人百科』学習研究社、1994年、137頁。 |
| 11月の第8回世界歌謡祭でもグランプリを獲得、12日後の11月25日にキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)からシングル版『あんたのバラード/世良公則&ツイスト』を発売した。 |
| 予想してなかった両コンテストのグランプリに、メンバーの中でやっぱりプロでやりたいと言う者が出てきた。 |
| このメンバーでグランプリを獲ったので、このままこのメンバーで続けても問題はなかったのだが、それでは世良に都合が悪かった。 |
| と言うのは、既に解散を決めていたため、コンテスト終了後は、大学の同級生で別バンドにいて仲の良かったふとがね金太と新バンドを結成しようと約束していたからである燃えろロックンローラー74-103頁富澤一誠あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人1881年音楽之友社173、174頁。 |
| 結局、世良はふとがねとの約束を守り、バンドは予定通り解散させ神本宗幸神本はメンバーと同じ福山の出身だが、大阪時代から加入したメンバーで学年も二年下。 |
| 神本にはバンドを辞める理由がなかった。 |
| を残し、ふとがねと新メンバーを急ぎ探した。 |
| これは世界歌謡祭グランプリ歌手は「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)に出演するという慣例があって、出演が決まった1978年1月9日まで間が無く急ぐ必要があったためである燃えろロックンローラー108頁。 |
| 結局、ふとがねの金太バンドにいた大上明と、関西で名前が知られていた鮫島秀樹、太刀川伸一を勧誘して1977年12月21日、新メンバーで"世良公則&ツイスト"を「結成」した |
| このメンバーが、一般に知られる"世良公則&ツイスト"となる。 |
| こうした事情で、シングル『あんたのバラード』の演奏は、一般に知られるこのメンバーではなく、旧ツイストのメンバー(創始メンバー、Mas Sawadaら)によるものである |
| このような経緯から世良自身は「バンドとしての愛着は(旧)ツイストの方にあった」と述べているいつみても波瀾万丈。 |
| 「夜のヒットスタジオ」出演後、ヤマハのプロデューサーから勧誘を受け1978年2月に上京し正式にプロデビューとなった燃えろロックンローラー112、113頁。 |
| セクシーな世良のボーカルスタイルは高い人気を得て、デビューシングル「あんたのバラード」(オリコン最高6位)、「宿無し」(最高3位)、「銃爪(ひきがね)」(最高1位)、「性」(最高5位)、「燃えろいい女」(最高3位)と、立て続けに大ヒットを飛ばし一気にスターダムにのし上った。 |
| ロックバンド・ミュージシャンが、シングルヒットを続けるのはそれまで前例が無かった |
| また1978年7月10日に発売したデビューアルバム『世良公則&ツイスト』はオリコンで1位を記録、日本のロックバンドとしては、デビューアルバムが、チャートの1位を記録したのはこのアルバムが初めてであった |
| 特に活躍が目立ったのが1978年1月から始まった『ザ・ベストテン』。 |
| 社会的にも影響力の大きかった当番組に於いて、全盛期の沢田研二、山口百恵、西城秀樹、ピンクレディーら、歌謡曲の大スターを抑えて、初年度のシングル・年間第1位(「銃爪(ひきがね)」)、年間第3位(「宿無し」)を獲得。 |
| 「銃爪」の10週連続1位は、「ルビーの指環」(寺尾聰)12週連続に次ぐ歴代でも2位となる。 |
| 世良公則&ツイスト、Char、原田真二の三組は「ロック御三家」と呼ばれ、それまでの日本のロックミュージシャンと違い、初めてこうしたテレビのランキング番組や歌謡番組、「月刊明星」「月刊平凡」等のアイドル雑誌、「セブンティーン」「プチセブン」などのティーン雑誌やテレビに頻繁に登場・出演した。 |
| これがロックとは無縁だったファンを獲得することとなり、それまでのロックバンドにはなかった女性ファンを開拓して、新たな潮流を生み出すきっかけを創り出した |
| 日本語でロックできるアーティストがブラウン管に出てきたことは、日本のミュージック・シーンにとって大きな衝撃だった。 |
| ロックをお茶の間に持ち込んだのが彼ら「ロック御三家」だった『一九七〇音楽人百科』136、137頁。 |
| 「ロック御三家」のコンサートでは観衆の圧倒的多数は少女で占められた週刊朝日、1978年6月23日号、142、143頁。 |
| 「ロック御三家」の出現以降、ミーハー向けの雑誌に、かなり専門的な音楽用語が増えた『ミュージック・マガジン11月増刊スペシャル・エディション |
| 野口五郎がミュージシャンと言い始めたのは「ロック御三家」登場以降のこと『ミュージック・マガジン11月増刊スペシャル・エディション |
| Charは「俺たちがテレビに出たのが良かったのか悪かったのかは分からないが、要はロックはビジネスになって結果、他のジャンルの音楽と同じヒットチャートに入ってくるようになった」と述べているギター・マガジン2010年3月号、リットーミュージック、19頁。 |
| 「ロック御三家」のうち最初にテレビに出始めたのはCharであったがCharのデビューは1976年6月の「ネイビー・ブルー」だが、テレビに出始めたのは翌、1977年6月の自作曲でない阿久悠とのコラボレーション「気絶するほど悩ましい」発売以降(『ミュージック・マガジン11月増刊スペシャル・エディション |
| Charは曲が大ヒットしたとは言えず(気絶するほど悩ましい、オリコン最高位12位)、1978年初頭から始まった『ザ・ベストテン』でもCharは一度もランク入りすることはなく(スポットライトで1度出演)、1978年12月、麻薬問題で活動を一時休止しマスメディアから消えた(翌1979年活動再開)(『日本ロック大系』〈上、下巻〉417頁)。 |
| 、女子中・高生を中心に爆発的人気を得たのは、1977年10月にデビューした原田真二と翌11月にデビューした世良公則&ツイストであった『ニューミュージックの本』87、98頁。 |
| 特に1978年後半には、世良公則&ツイストは人気やレコードセールスの点では完全に他の二人に水をあけ、歌謡曲を含めてもトップスターになった『ニューミュージックの本』87頁。 |
| 当時の音楽誌は「いまようやく、日本のロックは世良公則&ツイストの手で、メジャーになろうとしている」と書いたFMfanコレクションニューミュージックの本1978年共同通信社75頁。 |
| 歌謡曲とニューミュージックの全盛期に於いて「ロックも売れる」ことを初めて証明したバンドであった |
| ロックの楽曲が最初に売れたのはダウン・タウン・ブギウギ・バンドのシングル「スモーキン・ブギ」発売は1974年12月オリコン最高位4位。 |
| 当時はオリコンの知名度はあまり高くなく、オリコン以外にミュージック・リサーチとミュージック・ラボという調査会社もあって(参考:『ホットドッグプレス』講談社1980年2月号、103頁)例えば『ザ・ベストテン』のレコード売り上げもこの三社の結果を集計したものだった。 |
| 従ってレコードの売り上げは三社で異なるが、ミュージック・リサーチとミュージック・ラボの過去順位を、現在調査するのは困難なためオリコンの順位を掲載することとなる。 |
| )、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975年6月6月23日付けから5週連続、オリコン最高位1位。 |
| )であるが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド自体が"ロック"として見られておらず(宇崎竜童談『ミュージック・マガジン6月増刊スペシャル・エディション |
| はっぴいえんどが音楽的に評価され始めたのは何10年も後、元メンバーのそれぞれの活躍が目立って昔、日本語でロックをやっていたバンドということで評価されるようになった(『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』200頁、細野晴臣・鈴木惣一郎著『分福茶釜』2008年、平凡社、55-57頁、『証言!日本のロック』アルテスパブリッシング2009年120頁)。 |
| "ロックのメジャー化"は、最も商業的に成功を収めた世良公則&ツイストを筆頭とした「ロック御三家」と、マスメディアを拒否しながら、1978年に出したシングル「時間よ止まれ」1978年6月12日付けから3週間1位。 |
| 、「LIVE後楽園スタジアム」1978年12月18日付け1位。 |
| を全てヒットチャート1位にし、自伝本『成りあがり』のベストセラー、長者番付でロック系ミュージシャンとして初めて1位となった矢沢永吉 |
| サザンオールスターズはデビューして2ヵ月鳴かず飛ばずで、7月31日の『夜のヒットスタジオ』でのブラジル人ダンサーを加えた派手な演出や、初年度の『ザ・ベストテン』が解散に向かうキャンディーズを全国に追いかけるというのがの目玉の一つだった関係で、同番組のプロデューサー・弟子丸千一郎と大里洋吉が旧知の間柄だったため、サザンオールスターズをライブハウスから中継の形で「スポットライト」(1978年8月31日)に登場させて売り出した。 |
| サザンオールスターズは「ロック御三家」と同様、テレビを有効に活用して売り出したスターでもあった(烏賀陽弘道著『Jポップとは何か』岩波書店、2005年、79-80頁、北中正和著『にほんのうた戦後歌謡史』新潮社、1995年、198頁、北中正和著『Jポップを創ったアルバム』平凡社、2008年、142頁、『ロック・クロニクル・ジャパンvol.1』、21頁、『別冊太陽日本のロック』110頁、『ミュージック・マガジン11月増刊スペシャル・エディション |
| 桑田佳祐自身、「テレビやラジオに特別恩恵を受けた世代」と述べている(SWITCHspecialissue桑田佳祐2007-2008、2008年3月43頁)。 |
| デビュー曲「勝手にシンドバッド」が大ヒットしたのは同年の秋のこと(10月9日付、最高位3位)。 |
| 前述のようにこの時期は、世良公則&ツイストの「銃爪(ひきがね)」が『ザ・ベストテン』の10週連続1位に居座っていた時期でもあり、サザンオールスターズが世に出たのは歴史的に見れば「ロック御三家」より、ほぼ一年遅れとなる。 |
| Charがマスメディアから消えた代わりに「ロック御三家」に入ってきた形となったのがサザンオールスターズで、"ロックのメジャー化"ということで言えば、サザンオールスターズが世に出た時には、既にロックはメジャー化していた、と見ることも出来るのである サザンオールスターズのデビュー時の担当ディレクターだった高垣健も「サザンオールスターズのデビュー当時は、日本のロックポップスがビジネスになり始めた時期だった」と証言している( |
| 、この年の年末から翌1979年にかけて大ヒットを出したゴダイゴゴダイゴが売れたのは1978年10月1日に発売した(大ヒットしたのは1979年、最高位2位)「ガンダーラ」から(ロック・クロニクル・ジャパンvol.11999年音楽出版社81頁、『別冊太陽日本のロック』110頁、『日本ロック大系』〈上、下巻〉476、477頁)。 |
| 、甲斐バンド甲斐バンドが売れたのは自身もCMに出演したセイコーのCMソング「HERO(ヒーローになる時、それは今)」の大ヒット(1979年2月26日付からオリコン最高位1位2週連続)から。 |
| 電通段階では、矢沢永吉、原田真二が先に上がったがメジャーに成り過ぎ等の理由で甲斐バンドの大抜擢になったもの。 |
| 電通もセイコーも関係者で甲斐バンドを知っている人はほとんどいなかったという(田家秀樹著『ポップコーンをほおばって』1987年角川書店117-122頁)。 |
| ら、この時代誰も予想だにしなかったロック系のヒットラッシュからで、これらの大ヒットは音楽マーケットに大きな革命を起こしたJロック&ポップスCD名盤ガイド2001年立風書房60、200、237頁 |
| 但し前記のように"日本のロック"は「世良公則&ツイストがメジャー化した」とする文献FMfanコレクションニューミュージックの本1978年共同通信社75頁 |
| 当時いわれた"ロック御三家による日本のロックのメジャー化"について言及している。 |
| ドラムスの高橋まことは、後にBOØWYに参加する高橋である。 |
| 基本的に楽器を持たず、ボーカルに徹する強力なボーカリストをフロントに立てるバンドスタイルは、ツイスト以降、甲斐バンド、ゴダイゴ、RCサクセションらが商業的に成功した事で、日本のロックバンドの一形態を作った。 |
| これは現在も売れるバンドの常套手段となっている。 |
| ツイストらが興したロックのメジャー化は、後のロック・バンドへも多大な影響を与えることになった『一九七〇音楽人百科』136頁 |
| なぜこの時期、日本のロックが売れたかと言えば、「ロック御三家」が出る前、1976年から1977年にかけてベイ・シティ・ローラーズやキッス、スージー・クアトロやランナウェイズら、英米のロックバンド・ミュージシャンが日本で売れて、日本のマスメディアにも大量露出した。 |
| スージー・クアトロは「サケロック大関」と日本酒のテレビCMもやった。 |
| こうした影響もあったかもしれない週刊朝日、1977年6月10日号45頁週刊朝日、1977年8月12日号44、45頁週刊朝日、1977年10月14日号32-34頁。 |
| デビュー時から世良の人気が突出し、バンドながら雑誌類では世良一人での露出も多かった。 |
| 大半の楽曲も世良が手掛けていたため、世良だけが注目されて、リーダーはふとがねというのも忘れ去られ、他のメンバーはただのバックバンドとして見られるようになってしまった。 |
| このため、バンドの結束を危惧した世良自身がバンド名から世良の名を外すとメンバーに提案し"ツイスト"に改名した燃えろロックンローラー134、135頁ニューミュージックの時代1993年シンコー・ミュージック138、139頁。 |
| この年暮れの「第20回日本レコード大賞」は最優秀新人賞が本命視されたが、スケジュールの都合との理由でノミネートを辞退したサンデー毎日、1979年1月7日号123頁。 |
| それまでもニューミュージック系歌手のテレビ拒否は珍しくなかったが、賞レースに関しては出演はしないまでも賞自体は受けていた。 |
| ましてやブラウン管でおなじみのツイストが賞レースを拒否したことは大きな物議を醸した燃えろロックンローラー135-137頁。 |
| 但し、同年暮れの「第29回NHK紅白歌合戦」には出演した。 |
| 全員初出場だったツイストやさとう宗幸、原田真二、渡辺真知子、サーカス、庄野真代の紅白六組は「ニューミュージック・コーナー」というあたかも隔離された一つのコーナーの括りのなかで続けて歌った後、ステージの上で一列に整列し、審査員の講評を受けるという前例のない非常に混沌としたステージをやった長谷正人/太田省一テレビだョ!全員集合2007年青弓社234-235頁。 |
| ニューミュージックという言葉の意味、特にその範囲については多くの議論があるが、最もニューミュージックという言葉が盛んに使われた1970年後半の紅白歌合戦に於いて、"ロック"御三家と呼ばれたツイストと原田真二が"ニューミュージック"コーナーで歌ったということは、世間一般の当時の認識では、"ロック"は"ニューミュージック"に含まれていたということを意味する。 |
| また、その他の四組の顔ぶれをみても"ニューミュージック"は、かなり広いジャンルを包括したものと認識されていたのである。 |
| この年の紅白はピンク・レディーの出場辞退、続いて美空ひばりの「紅白は卒業しました」発言、更に紅白出場歌手発表日が江川卓の電撃的巨人入団と重なって吹き飛ばされるなど非常に混乱をきたした。 |
| 1979年4月に出した二枚目のアルバム『ツイストII』もオリコン1位獲得(二週連続)。 |
| 資生堂の'79夏キャンペーンイメージソング「燃えろいい女」(1979年4月発売、最高位3位)も大ヒット、SOPPO(1979年10月発売、最高位6位)もヒットし、この年の第30回NHK紅白歌合戦にも出場した。 |
| 「ロック御三家」で二年連続出場したのはツイストだけで、この年、いずれも初出場だったサザンオールスターズ、ゴダイゴと共に出場。 |
| ヤマハから独立したアーチストで成功例がないため不安視されたが、やはりその後、セールスは下降していったあいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人170-174頁。 |
| 当時のテレビ局は、出演の機会を与える見返りとして、そのかわり売れたら協力してくれという暗黙の条件が含まれていた『ミュージック・マガジン11月増刊スペシャル・エディション |
| 賞レースの季節になると所属事務所は、そのことで毎月10日はテレビ局と喧嘩していたといわれる。 |
| ツイスト同様、2年目に各局の音楽祭に出る出ないで揉めたサザンオールスターズの所属したアミューズでさえ、当時テレビ局に潰されるのではと噂が出たほどである。 |
| ベーシストの鮫島は解散後、いくつかのバンドを経てHOUNDDOGに加入している。 |