| 北周に仕えて開府儀同三司となった。 |
| 隋に入って右武衛将軍となり、平城郡公に封ぜられた。 |
| 資州・梁州・蒲州の刺史を歴任し、寛容な統治で知られた。 |
| 漢王楊諒が乱を起こすと、楊諒は兵士に婦人の衣服を着せて、だまし討ちにして蒲州を奪取した。 |
| 丘和は単身脱出したが、蒲州を失陥した罪により庶民に落とされた。 |
| ときの権臣の宇文述に接近して、代州刺史として復職した。 |
| 煬帝が北巡したとき、丘和は丹精な食事を献上したが、朔州刺史の楊廓は進呈しなかったので、煬帝は喜ばなかった。 |
| 宇文述はここぞと丘和の美点を持ち上げ、煬帝はそのため丘和を博陵太守とした。 |
| のちに煬帝が博陵を通ったときにも、丘和は立派な食事を献上したので、ますます喜んだ。 |
| 官吏が競って奢侈な珍品を煬帝に献上するようになったのは、丘和を初めとするという。 |
| 同時に丘和は官吏や武人の心もつかんでいた。 |
| 天水郡守に転じ、左禦衛将軍となった。 |
| 大業末年、海南(現在のベトナム北部)の地方が荒れ果てていたので、黄門侍郎の裴矩の推薦により、交阯太守に任ぜられた。 |
| 民情に合った統治をおこなったので、安定したという。 |
| 618年、煬帝が江都で殺害されると、鴻臚卿の甯長真が鬱林にあって蕭銑に従い、馮盎が珠崖・番禺にあって林士弘に従った。 |
| 甯長真・馮盎らは使者を送ってきて丘和を招こうとしたが、丘和は隋が滅んだことをまだ知らなかったために従わなかった。 |
| 林邑の西の諸国が、しばしば丘和のもとに明珠・文犀・金宝といった珍宝を送り、丘和に富をもたらしていた。 |
| 蕭銑はこれを聞いて、甯長真に命じて南越の蛮・俚を率い交阯を攻めさせた。 |
| 丘和は長史の高士廉に迎撃させて撃退した。 |
| その後に江都から来た者に隋の滅んだ経緯を聞くと、丘和は蕭銑に従った。 |
| 621年、蕭銑が唐に平定されると、丘和は唐に帰順した。 |
| 上柱国・交州大総管に任じられ、譚国公に封ぜられた。 |
| 丘和は入朝すると、高祖の寝室に引き入れられて親しく語り合ったという。 |
| 左武候大将軍に任ぜられた。 |
| 丘和はすでに老年になっていたので、稷州をその故郷であるとして、その刺史に任ぜられて養生した。 |
| 626年、特進を加えられた。 |
| 637年に86歳で亡くなり、荊州総管の位を追贈された。 |
| 謚を襄といい、献陵に陪葬された。 |
| 子が15人いたが、丘行恭が最も知られた。 |