| 父親は明治天皇の隠し子を自称する堀川辰吉郎と主張している。 |
| ただし中島成子の夫は中国人韓景堂であり、中島も韓又傑、韓太太と呼ばれていた。 |
| 薫の父親が堀川辰吉郎とする説の信憑性には大いに疑問が残る神野洋三『祖国はいずこ―韓又傑こと中島成子の生涯―』、作品社、1995年。 |
| 渡辺龍策『馬賊―日中戦争側面―』、中公新書、1964年などを参照のこと。 |
| 中島成子の伝記は多数存在するが、いずれも中島は韓景堂夫人であり堀川辰吉郎との関係は登場しない。 |
| 著書によれば、薫の生後45日後に盧溝橋事件が起こり、中島成子は関東軍の依頼により日中間の交渉を担うことになったため、薫は松村正之北京大学教授夫妻に預けられた。 |
| 6歳の誕生日を迎えてまもなく、松村夫妻の故郷である山梨県甲府市に移住。 |
| 1950年に山梨英和女学院中等部に進んだ。 |
| そこで外国人教師から英語を学んだことがきっかけとなり、東京へ行くことを決意。 |
| 猛勉強の末、親戚が住んでいた文京区にある東京都立小石川高等学校に進学した。 |
| 当時、小石川高校は1クラス約60名の生徒のうち、女子は10名程度しかいなかったが、薫は2年生のときに生徒会長に選ばれ、卒業するまで務めた。 |
| また、英語研究会のリーダーを務め、第五福竜丸事件など当時の社会情勢に強い関心を持ち、友人らとカール・マルクスの『資本論』を読む勉強会も実施していた。 |
| 1959年、留学試験を受け、「国連に近いから」という理由でニューヨークにあるコロンビア大学国際政治学部に進学した。 |
| 1963年コロンビア大学大学院修了、博士号を取得。 |
| 1970年代より、各国国王や大統領、首相、財界人をインタビューするジャーナリスト、国際政治評論家として講演、執筆、テレビで活動。 |
| 1973年にはニューズウィーク誌で「インタビュアー世界NO1」、またワシントン・ポスト紙で「国際感覚にすぐれた世界でも稀有な女性」との評価を得る。 |
| その後も自らがプロデューサー、ディレクター、インタビュアーを務める対談番組を日米両国で持つと同時に、世界の紛争、戦争地帯に足を運び、当事国の国家元首たちと積極的に会談。 |
| その中には、リビアのカダフィ大佐やイラクのサッダーム・フセインなど、西側諸国から敵視されていた人物もいた。 |
| 中丸はイラン・イラク戦争の最前線でも取材を行い、そのVTRをフセイン大統領に見せて戦争をただちにやめるよう進言している。 |
| フセイン大統領に「なぜ戦争を続けるのか」と詰め寄る様子や、カダフィ大佐に「あなたは本当にテロリストか」と問いただす姿はテレビで放映された。 |
| それらの経験を通じて、私費を投じて紛争国の仲介役を務めるなど、民間外交に尽力するようになる。 |
| 1985年に“TheInternationalAffairsInstituteforWorldPeace”(国際問題研究所)をニューヨークで、また1991年に平和を願う人々の会“FOLLOWINGTHESUN”(太陽の会)を設立。 |
| その際、各国国王や大統領、文化人から「あなたのあらゆる活動に賛同いたします」との直筆サインをもらい、これら要人を顧問および特別会員として迎えている。 |
| これらの会の立ち上げにより、武力と緊張を礎とする「力の道」による「ワンワールド」ではなく、相互理解と信頼を礎とした「命の道」による「ワンワールド」の実現を啓蒙する活動を本格的に開始した。 |
| インタビュアーとして活躍していた頃からこれまでに訪問した国は186カ国。 |
| 中丸は著書において、「人間復興を通した世界平和」を目指しているとし、「富や名声、権力が人間を幸せにするのではなく、本当の幸せは愛、調和、安らぎに満たされた心から生まれる。 |
| 市民からVIPまで、一人一人の心の内側を平和にすることが世界平和を実現する」と訴えている。 |
| 「太陽の会」という名称も、イソップ物語の「北風と太陽」にちなんで命名。 |
| 中丸は著書の中で、「太陽はどんな人をも温かい光で包み込む。 |
| 私たちもそのような心で生きなければいけない」という主旨のことを度々書いている。 |
| 1966年、俳優・中丸忠雄と結婚(2009年に死別)。 |
| 一男一女がいる。 |