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つながりの強いひと
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米長邦雄
将棋棋士。2003年12月、引退。日本将棋連盟会長(2005年-)。タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門... |
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林葉直子
将棋の元女流棋士、タレント、作家、タロット占い師。福岡県福岡市出身。第一薬科大学薬学部中退。日本将棋連盟所属当時は、米長邦雄永世棋聖門下、女流棋士... |
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大山康晴
引き継ぐ者
将棋棋士。棋士番号26。木見金治郎門下。主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代1位)、棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)等がある。十... |
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羽生善治
将棋棋士。二上達也九段門下。棋士番号は175。 |
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永世名人
永世名人(えいせいめいじん) - カルチャー&エンタテインメント - 2007年7月22日 将棋の名誉称号の1つ。「名人」とはもともと、江戸時代初期の1612年に大橋... |
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谷川浩司
将棋棋士。若松政和七段門下。棋士番号は131。兵庫県神戸市須磨区出身。タイトル通算獲得数は歴代4位。永世名人(十七世名人)の資格を保持。日本将棋連盟棋... |
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加藤一二三
将棋棋士。実力制6人目の名人。剱持松二八段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。 |
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佐藤康光
将棋棋士。タイトル通算獲得数は、歴代6位。永世棋聖の資格を保持する。棋士番号は182。田中魁秀九段門下。いわゆる「羽生世代」の一人である。京都府綴喜郡... |
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森内俊之
将棋棋士。十八世名人資格保持者。棋士番号は183。勝浦修九段門下。神奈川県横浜市出身。日本将棋連盟棋士会副会長(2009年4月-2011年3月)。 |
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本将棋
人間対人間、人間対コンピューターの対局が選べ、先手の飛車落ちなどのハンデや、コンピューターの強さを5段階から選択できるほか、王の守りを固める“穴熊”や... |
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郷田真隆
将棋棋士。棋士番号は195。東京都練馬区出身。大友昇九段門下。いわゆる「羽生世代」の一人。 |
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山田道美
山田道美(やまだみちよし、1933年12月11日-1970年6月18日)は昭和期の将棋棋士。金子金五郎九段門下。愛知県名古屋市出身。 |
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升田幸三
将棋棋士。実力制第4代名人。広島県双三郡三良坂町(現三次市)生まれ。名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した。木見金治郎九... |
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高柳敏夫
高柳敏夫(たかやなぎとしお、1920年2月20日-2006年9月5日)は将棋棋士。名誉九段。棋士番号31。東京都出身。金易二郎名誉九段門下。 |
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島朗
将棋棋士。1980年度(昭和55年度)にプロ入りした強豪グループ、いわゆる「55年組」の一人であり、初代竜王。日本将棋連盟非常勤理事。東北統括本部長。棋士... |
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高橋道雄
将棋棋士。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は142。東京都出身。1980年度(昭和55年度)にプロ入りした、いわゆる「55年組」の一人で、タイトルを5期獲得。五... |
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南芳一
将棋棋士。日本将棋連盟関西本部所属。木下晃七段門下。棋士番号は147。大阪府岸和田市出身。王将、棋聖、棋王のタイトルを獲得。名人戦A級通算9期。竜王戦1... |
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内藤國雄
将棋棋士。棋士番号77。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。演歌歌手、詰将棋作家としても活動。レコードジャケット、音楽配信での氏名の表記は「内藤国雄... |
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大内延介
将棋棋士。2010年、引退。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は86。東京都港区出身。中央大学卒業。 |
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桐山清澄
将棋棋士。棋士番号は93。増田敏二六段門下。奈良県下市町出身。棋聖、棋王のタイトルを獲得。竜王戦1組通算7期、名人戦A級通算14期。 |
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プロフィール
- 中原誠とは
- 戦歴
- デビュー・初タイトル
- 大山康晴に代わり第一人者へ
- ライバル達との対決
- 次世代との対決
- 引退
- 棋風
- 現役のまま永世称号を名乗る
- 会長として・指導者として
- スキャンダル
- 在籍クラス
- 記録(歴代1位のもの)
中原誠(なかはらまこと、1947年9月2日-)は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および、永世十段・永世王位・名誉王座・ 永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る。通算1308勝は 大山康晴に次ぎ歴代2位。通算タイトル獲得数64期は歴代3位。 高柳敏夫名誉九段門下。棋士番号は92。日本将棋連盟会長(2003年~2004年)。第1回川崎市文化賞受賞(1972年)。塩竈市民栄誉賞(1985年)。鳥取県鹿野町名誉町民(2004年)。鳥取県生まれだが、生後1か月で転居した宮城県塩竈市を出身地とする。
戦歴
| 24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後も防衛を続け9連覇。 |
| 「棋界の(若き)太陽」2008年正月にNHK教育テレビで放送された「お好み対局」にて、中原自身が語るところによると、「棋界の太陽」は原田泰夫による命名とのこと。 |
| と呼ばれた。 |
| 以後、大山康晴十五世名人の後継者として将棋界に一時代を築き、さらには米長邦雄・加藤一二三・谷川浩司らと数々の名勝負を繰り広げた。 |
デビュー・初タイトル
| 奨励会時代から「将来の名人候補」として高く評価されていたが、プロ入り直前の関門である「三段から四段への壁(奨励会A組、現三段リーグ)」をなかなか乗り越えられずに6期3年間も足踏みし、人間的にも苦悩したと語っている漫画『実録シリーズ傑作選/若き王将』など、複数の書籍で読むことができる。 |
| しかし、1965年秋のプロ入り後は、順位戦において4年連続で順調に昇級・昇段を重ねていき、最速でA級八段となった。 |
| タイトル戦への初登場は、山田道美に挑戦した1967年度後期の第11期棋聖戦(中原2-山田3)であるが、フルセットの末に惜しくも敗退する。 |
| しかし、半年後の1968年度前期の第12期棋聖戦(中原3-山田1)で山田に連続挑戦して勝利し、初のタイトル・棋聖位を獲得する。 |
| その後、大山康晴、山田を相手に2期防衛して3連覇。 |
| これ以降、大一番の勝負で大山康晴と頻繁に当たるようになる。 |
大山康晴に代わり第一人者へ
| 1970年度、十段戦で大山を4-2のスコアで下し、大山の五冠独占の一角を崩す。 |
| さらに、直後の後期の第17期棋聖戦(中原3-大山0)でも大山をストレートで破り、初めて二冠となる。 |
| 続く1971年度前期の第18期棋聖戦(中原3-大山1)で大山を相手に防衛に成功。 |
| これで棋聖位獲得通算5期となり、早くも永世称号の保持者となる(史上最年少記録)。 |
| この2つの年度は、タイトルホルダーが大山と中原の2名だけという、まさに二強時代であった。 |
| A級2年目に名人挑戦権を得て、1972年の第31期名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と戦う。 |
| フルセットの戦いの末に勝利し、棋界の頂点である名人位に初めて就く。 |
| この年度は、初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させた。 |
| なお、この後、大山が名人位に復位することは二度となかった大山康晴は、この後も第33期名人戦(中原4-大山3)と第44期名人戦(中原4-大山1)の舞台に2度登場しており、いずれも中原誠への挑戦であったが、敗退している。 |
ライバル達との対決
| 1973年度からは、米長邦雄、加藤一二三、内藤國雄ら、大山康晴より若い、同じ世代の棋士達との戦いが主となる。 |
| 特に、米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じた。 |
| 1973年、第14期王位戦(中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初めて四冠王となる。 |
| しかし、直後の十段戦で捲土重来(けんどちょうらい)を期す大山に奪取される。 |
| それから1年間、三冠を防衛した中原は、翌年(1974年度)に十段を奪還して四冠に返り咲く。 |
| 以降、中原と大山は、それぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、。 |
| 四冠王(名人・十段・王位・王将)=中原。 |
| 棋王(1975年度に新設)=他の誰か。 |
| という構図が続き、中原は防衛戦で同世代のライバル達と当たる。 |
| 大内延介と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、途中2勝3敗となり角番に追い込まれるも、第7局で大内必勝の局面での大内の悪手(107手目▲7一角)に助けられて持将棋に持ち込み、薄氷の逆転防衛をする。 |
| 翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功して名人5連覇。 |
| 永世名人(十六世名人)の資格を得る。 |
| そして、ついに1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の五冠王となる。 |
| 残るタイトルは棋王のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で加藤一二三に挑戦したが、惜しくもストレートで敗れ、全六冠制覇はならなかった。 |
| その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼等とのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となりタイトル数は漸減する。 |
| 加藤一二三と対戦した、1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となったが、3勝4敗で名人位を明け渡す。 |
| 名人連覇は9期で終わった。 |
次世代との対決
| 1980年代半ばごろからは、谷川浩司や55年組の高橋道雄、中村修、南芳一、塚田泰明らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数が三冠ないしは無冠となっていく。 |
| 1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。 |
| 1986年度、第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げたが、中原が防衛。 |
| 二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となった。 |
| 1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となる。 |
| さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となる。 |
| しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である田中寅彦から棋聖を奪い、二冠に復帰。 |
| 1990年度、第48期名人戦(中原4-谷川2)で名人を谷川から奪還し、2度目の復位を達成するとともに三冠となる。 |
| しかし、前期/第56期棋聖戦(中原2-屋敷3)で新進気鋭の屋敷伸之に棋聖位を奪われ、史上最年少タイトル記録達成を許す。 |
| さらに第38期王座戦(中原1-谷川3)では谷川に敗れ、名人位のみの一冠となる。 |
| 1992年度、第50期名人戦(中原4-高橋3)では高橋道雄の挑戦を受けたが、出だしで1勝3敗を喫してしまう。 |
| 当時までは名人戦では3連勝で逆転した例はなかったが、そのジンクスを破って防衛した。 |
| しかしながら、得意であるはずの矢倉戦となった第1、2、4局ですべて負けたことは話題となった。 |
| 1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、米長邦雄と6度目の名人戦となったが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失う(羽生善治が名人戦に初登場する1期前のことであった)。 |
| 同年度の王将戦では挑戦者となるが、谷川の前に敗れる。 |
| 1994年のNHK杯戦で、米長との決勝を制して優勝。 |
| これが、最後の公式棋戦優勝であった(非公式棋戦では、達人戦において2001年~2002年の連続優勝を含め、4度優勝している)。 |
| 1999年度のA級順位戦は、2勝7敗の成績で降級が決まる。 |
| A級陥落後はB級1組で2期だけ指した後、フリークラス宣言をし、フリークラスに転出した。 |
| 永世名人資格者がB級1組で指すのもフリークラスで指すのも前例がないことであった(永世名人ではないが)名人経験者がA級からの陥落後も現役で指し続けた前例としては、塚田正夫のB級1組、米長邦雄のフリークラス(B級1組への降級が決まったときにフリークラス宣言)があった。 |
| が、その後も2000年度の竜王戦1組優勝、2003年度の竜王戦挑戦者決定三番勝負進出、2004年の王位リーグ入り、2007年の棋聖戦での挑戦者決定トーナメント進出など、各棋戦の上位に顔を出すことがしばしばあった。 |
| 中原と羽生善治の両方が同時にタイトル保持者であった時期は4年ほどあったが、両者はタイトル戦の番勝負の舞台で戦ったことは一度もなく、その後もついに実現しなかった。 |
| 結果論ではあるが、中原が名人をもう1期長く防衛するか羽生がもう1期早く名人挑戦していたならば実現していた。 |
| また、森内俊之と戦った2003年度竜王戦決定三番勝負は、勝っていれば羽生との初のタイトル戦となるところであったが、1勝2敗で敗れた。 |
引退
| 2008年8月12日、王将戦二次予選準決勝で、A級八段の木村一基に勝った後の感想戦の最中に体に異変を起こし、病院に緊急搬送される。 |
| 脳内出血と診断され、即、入院となった。 |
| その後、棋戦復帰を目指してリハビリテーションを続けていたが回復が思わしくなく、将棋に関わる活動ができないと判断して、2009年3月31日をもっての引退届を日本将棋連盟に提出。 |
| 連盟理事会はこれを受理し、3月11日に発表 |
| 発表当日、中原本人の記者会見 |
| 左の手足に不自由を抱え、右手に杖を持って記者会見場に姿を現した中原であったが、元気そうに、淡々とした口調で「43年という長い期間、タイトル戦など多くの勝負の舞台を踏ませていただき、十分に勝負を堪能した。 |
| 日本将棋連盟は、多年にわたる中原誠の将棋への功績を評価し、2009年4月1日より70歳の誕生日を迎える2017年まで『名誉棋士会長』を委嘱することを決定した |
棋風
| 「自然流」と呼ばれた(「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し手」原田泰夫)、全盛期は矢倉を主体とした本格派の居飛車党であった。 |
| 棋士生活の晩年は振り飛車も軽快に指しこなした大山康晴から名人位を奪取した第31期名人戦第7局では、振り飛車党の大御所であった大山に相手にツノ銀中飛車を採用して勝利を収めたことでも有名。 |
| プロ間で流行した横歩取り8五飛戦法は、元々中原が用いていた中原囲いでの空中戦法に工夫を加えたものである。 |
| 1996年に中原流相掛かり・中原流横歩取り・中原囲いで升田幸三賞を受賞している。 |
| 高橋道雄との名人戦において矢倉戦で1局も勝てずに失冠しかけたころから棋風が変わり、前述の相掛かり、横歩取り中原囲い、短期間ながら名人戦にも採用した中原飛車、後手矢倉において中原流急戦矢倉、対振飛車における6五歩戦法などの独創的な戦法で勝率を保った。 |
| 控室では真部一男八段や佐藤義則八段らがテレビに映るこの将棋を見てあれこれ話していた。 |
| 引退前の数年間は「形勢楽観派」の代表的棋士とされ、対戦相手や控え室の棋士たちほとんどが「互角または中原不利」と考えている局面でも、局後の感想では「あの局面では自分が良かったと思う」と語ることが多かった |
現役のまま永世称号を名乗る
| 1994年、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、それまでの実績からして「九段」とは呼べないということで、特例で「十六世名人」を現役のうちから襲位させるかどうか話し合いが行われた。 |
| 2007年11月17日(将棋の日)、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し本人が了承。 |
| 前倒しで現役のまま襲位したこれ以前にも永世名人襲位の話が出ていたようだが、まだ名乗るには早いと判断して断ったと、『将棋世界』2008年1月号の中(インタビュー冒頭、38ページ)で明かしている。 |
会長として・指導者として
| 二上達也の後を受けて2003年より日本将棋連盟会長を1期務めたが、2005年会長職を米長邦雄に譲り、自らは副会長に就いた。 |
| 2007年5月の棋士総会において理事選挙に出馬せず、理事・副会長職を退任した。 |
| 指導者・師匠としても名伯楽ぶりを発揮しており、小倉久史・佐藤秀司・高野秀行・熊坂学をプロ棋士に育てた。 |
| また、女流棋界でタイトル保持者の甲斐智美も弟子である。 |
スキャンダル
| 1998年、元女流棋士の林葉直子と長期にわたって不倫関係となり、性交三昧で堕胎させたと週刊文春が大々的に報じたため騒動となり、テレビ番組などで連日報道された。 |
| 不倫の釈明を(妻の住居でもある)自邸で行ったこと、律儀にマスコミに配慮して朝と夕に2度開かれたことから、「なにも釈明まで『自然流』でしなくても…」(産経新聞『産経抄』)と揶揄された。 |
在籍クラス
| 1年のブランクの後、主催が朝日新聞社から毎日新聞社に代わった第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。 |
記録(歴代1位のもの)
| 順位戦A級全勝-1971年この年は休場者がいたため8戦。 |
| 公式最短手数勝利-10手1974年第25期棋聖戦本戦1回戦先手の佐藤大五郎がハメ手戦法の鬼殺しを採用しようとしたが、わずか10手の局面で投了した。 |
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1947年
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中原 誠(なかはら まこと)は、将棋棋士。20... |
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1965年
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四段(関東奨励会三段優勝、東西決戦で桐山清... |
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投票数
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中原誠さんについてのひとこと紹介
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