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つながりの強いひと
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西園寺公望
友達
日本の公家、政治家、元老。位階・勲等・爵位は贈従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。 |
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流政之
世界的に活躍する彫刻家、作庭家。"SamuraiArtist"の異名をもつ。 |
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大隈重信
日本の武士(佐賀藩藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農... |
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成瀬仁蔵
友達
明治から大正のキリスト教牧師(プロテスタント)であり、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、日本女子大学(日本女子大学校)の創設者として知ら... |
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新島襄
新島襄(にいじまじょう、英字表記:JosephHardyNeesima、天保14年1月14日(1843年2月12日)-1890年(明治23年)1月23日)はキリスト教の布教家。同志社英学... |
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末弘威麿
徳大寺公純の四男で、明治期の地方官僚、経済人。西園寺公望の異母弟。財団法人立命館理事。東山天皇6世孫。 |
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木下広次
明治時代の教育行政家(文部官僚)・教育者。京都大学(当時の名称は京都帝国大学)の初代(官選)総長(学長)を務めたことで知られる。 |
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石原莞爾
昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織... |
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片倉小十郎
片倉小十郎景綱 独眼竜の名参謀 学研M文庫 え-5-14 江宮隆之/〔著〕 出版社名 : 学研マーケティング 出版年月 : 2009年6月 ISBNコード : 978-... |
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末川博
日本の民法学者。戦前に京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大... |
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鈴木良
日本を代表する部落問題研究者、歴史研究者である。それまで戦前の主流であった「政治構造が差別を生み出した」とする政治還元主義と、戦後の主流であった「... |
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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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アーネスト・フェノロサ
アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人。日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られる。 |
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江沢民
中華人民共和国の政治家。鄧小平引退後の中華人民共和国の最高指導者で、中国共産党中央委員会総書記、中華人民共和国主席、中国共産党中央軍事委員会主席、... |
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奥村土牛
出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色... |
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白井義男
日本の元プロボクサー。東京市(現東京都)荒川区出身。元世界フライ級王者である。日本人として初めての世界王者となった。右のアウトボクサー。 |
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織田萬
日本の法学者。専門は行政法。京都帝国大学名誉教授、常設国際司法裁判所判事、関西大学学長。財団法人立命館名誉総長。佐賀県須古邑生まれ。 |
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岡田良平
日本の文部官僚、教育者、政治家。勲等は勲一等。貴族院議員、京都帝国大学総長、文部大臣などを歴任した。 |
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アンドレ・ブルトン
フランスの詩人、文学者、シュルレアリスト。ちなみに、誕生日については、ブルトン自身しばしば2月18日とも公言しているが、それは「詩的」な意味でのことで... |
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ダド・マリノ
アメリカ合衆国出身のプロボクサー。第16代世界フライ級王者。白井義男が日本人初の世界王者となった時の対戦相手となった。 |
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プロフィール
- 中川小十郎とは
- 学生時代
- 文部省入省
- 中川小十郎の教育思想
- 「文体改革論」の提起
- 「以良都女」発行に参加
- 成瀬仁蔵との関係
- 「女子教育の拡充」演説
- 京都法政学校の設立
- 立命館学園への発展
- 官界復帰
- 台湾銀行への天下り
- 京都市市長選出
- 貴族院議員
- 「坐漁荘」と中川小十郎
- 逝去
- 中川小十郎顕彰碑
- 関連サイト
中川小十郎(なかがわこじゅうろう、慶応2年1月4日(1866年2月18日)-1944年10月7日)は、元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)創立者。丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。子息に、彫刻家の 流政之、孫に刑法学者(龍谷大学名誉教授)の中川祐夫がいる。
学生時代
| 中川小十郎は、戊辰戦争以来西園寺公望に仕えた丹波の郷士の中川家に生まれた。 |
| 中川家のあった馬路村は幕末・維新期に長州藩士の京都にもっとも近い亡命地となり、その勤王・倒幕思想の影響を受けた郷士が多く、小十郎の実父・中川禄左衛門もその一人であった。 |
| 実母・さきの弟で仙台高等工業学校(現東北大学工学部の母体)の初代校長、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の校長を務めた中川謙二郎の勧めで13歳の時に上京。 |
| 以後、謙二郎の家に寄宿し、のちに顕官となる岡田良平、一木喜徳郎らと生活をともにした。 |
| 東京府第一中学、途中成立学舎での受験期間を挟んで、第一高等中学校(大学予備門)を経て、帝国大学法科大学政治学科(のちの東京帝大、現在の東京大学法学部)へ進学。 |
| 大学予備門時代には秋山真之、夏目漱石、南方熊楠、正岡子規、芳賀矢一、山田美妙らと同窓生だった。 |
| なかでも漱石とは親しかったとされ、漱石の作品『落第』には、中川との様子が描かれている。 |
| 東京に出た中川小十郎は、西園寺公望の知遇を得て、東京神田の西園寺邸に出入りするようになった。 |
| 中川の養父・中川武平太、実父・中川禄左衛門が戊辰戦争で西園寺に従軍して以来、西園寺と中川家が主従関係にあったこと、叔父・中川謙二郎が明治初年から大正期にかけて西園寺公望と親しくしていたことが西園寺公と小十郎の親密な関係の礎となった。 |
文部省入省
| 帝大時代の小十郎は、卒業後は農商務省に進みたいと考えていた。 |
| ところが就職面接での次官の態度に憤慨し、入省を認められたもののこれを断ってしまった。 |
| そこで恩師の木下廣次に相談したところ、文部省ではどうかと勧められ、1893(明治26)年7月27日、一転して文部省に入ることとなった。 |
| 入省からわずか二年後の1895(明治28)年8月27日、小十郎は異例の早さで西園寺公望文部大臣秘書官に任命される。 |
| この異例の大抜擢は、西園寺から特別に目をかけられていたからに他ならない。 |
| 文相秘書官時代の中川は、西園寺の右腕として京都帝国大学(現在の京都大学)創設に関わり、京都大学初代事務局長に取り立てられている。 |
| また、西園寺が日本女子大学の設立発起人を務めた際には、戸川安宅、麻生正蔵らとともに同大学の創立事務幹事長に就任し、文部省官僚として高等教育機関の設立に尽力した。 |
中川小十郎の教育思想
| 中川小十郎の教育理念は特に女子教育を重要視するもので、これはお茶の水女子大学・校長だった叔父・中川謙二郎の影響を大きく受けたものと思われる。 |
| 「言文一致運動」に早い段階から参加していたことや、成瀬仁蔵による日本女子大学設立への参与など、当時の動静から女子教育強化に対する中川の情熱を窺うことができる。 |
「文体改革論」の提起
| 1888(明治21)年、当時まだ学生だった小十郎は、「大日本教育会雑誌(第73・74号3・4月号)」および「教師之友(第10・11号3・4月号)」に、親友でのちに東京美術学校(現在の東京芸術大学)校長となる正木直彦(政彦)と連名で「男女ノ文体ヲ一ニスル方法」という論文を発表している。 |
| これは、森有礼文部大臣当時、大日本教育会が懸賞論文を募集したものに応募したもので、見事「一等」に選ばれている。 |
| この中で中川は、文体一致を教科書編纂にも採用すれば「正ニコレ男女文体ノ差ノ消滅スル」という持論を展開し、当時としては先駆的な意見として注目された。 |
| 後年中川は、「今日でこそ口語体は広く行はれて来たけれども当時に至つては中々一般の賛成を得るには至らなかつた」と述べている(「白雲山荘雑記」『立命館学誌』九1917年・大正6年3月)。 |
「以良都女」発行に参加
| 中川は、文芸雑誌「以良都女」の発行に深く関わった同人の一人でもあった。 |
| 小十郎の他、岡田良平、一木喜徳郎、新保盤次、正木直彦(政彦)、山田美妙らが「以良都女」の発行に尽力している。 |
| 1935(昭和10)年、立命館出版部より刊行された「美妙選集(上巻)」巻頭で中川は次のように述べ、「女子教育」と「国家の開化」には密接な関係があることを説いている。 |
| 「女子教育の過程およびその性質如何は大に一国の文化に関係すること更に疑ひを容れざる所にして、想ふに一人も異論を唱ふるものなかるべし。 |
| 蓋し女の教育と一国の開化とは互に相影響するものにして、文化の進みたる社会にあらざれば完全なる女子の教育を望むべからず、女子の教育宜しきを得るにあらざれば真正なる開化を望むばからず。 |
| 」(「いらつめ発行の趣旨」『以良都女』第一号(1887年7月、立命館出版部))。 |
成瀬仁蔵との関係
| 文部官僚時代の中川は、日本女子大学を設立した成瀬仁蔵とも交流があった。 |
| 成瀬との関係について中川は、「吾輩が文部省で秘書官をしていた時分、現在の目白にある女子大学を創立しやうとして色々奔走していた成瀬仁蔵といふ人と麻生正蔵といふ人とが吾輩の家に寄寓していた」と述べており、成瀬らが中川を訪れ学校設立について具体的に協議を行っていたことを窺わせる(「中川総長講話(二)」『中川家文書』)。 |
| 中川は文部省官僚として日本女子大学校創立事務幹事嘱託を勤め、同校設立を積極的に後援した西園寺公望を助けた。 |
「女子教育の拡充」演説
| 1929年(昭和4年)に「女子教育の拡充」と題する演説を行っている。 |
| 手書きによる演説草稿は三十一枚にのぼり、「公娼全廃の英断」の必要性を説いている。 |
| また「婦選制度」の導入については時期尚早とした上で,「女子教育が不在であり一般女子に公民としての自覚が乏しい」とし、まずは女子教育の充実が先決と主張。 |
| さらに「昭和新政の最も大なる眼目」は、女子に対する高等教育の拡充にあると断じ、「男女同権」こそが「文化社会の最高理想」という徹底的な両性平等論を展開した(『中川家文書』)。 |
京都法政学校の設立
| 1897(明治30)年1月11日、蜂須賀茂韶文部大臣(第二次松方内閣)のもと、文部省参事官に就任する。 |
| 翌年、浜尾新文部大臣に代わり就任した西園寺公望文部大臣(第三次伊藤内閣)が病気を理由に辞職すると中川も官職を退官。 |
| 実業界に転じ、加島屋(現在の大同生命)の再興に尽力したほか、大阪堂島米穀取引所監査役、朝日生命保険株式会社(現在の大同生命)副社長を勤めるなど活躍した『町田忠治翁傳』(松村謙三著、1950年)によると、「日銀幹部ストライキ事件」を発端として大阪財界の近代化の礎になった者として、山口銀行の町田忠治のほか、加島銀行の中川小十郎、三十四銀行の小山健三、近江銀行の池田桂三郎、北濱銀行の岩下清周、大阪瓦斯の片岡直輝・渡辺千代三郎などの名が挙げられている。 |
| 「日銀幹部ストライキ事件」に関しては「植村俊平」の項目も参照。 |
| 翌年、教学面での協力を京都帝国大学教授だった織田萬、井上密、岡松参太郎らから得るとともに、学校設立事務については、西田由(朝日生命株式会社(現在の大同生命)専務取締役)、橋本篤(大同生命保険株式会社初代支配人)、山下好直(京都府議会議員)、河原林樫一郎(東洋レーヨン常務取締役)、羽室亀太郎(京津電車支配人)らの協力を得て、また設立賛助員として京都政財界の大物(内貴仁三郎、浜岡光哲、田中源太郎、中村栄助、雨森菊太郎、高木文平、河原林義男)の力を借り、京都法政学校設立事務所を朝日生命保険株式会社(現在の大同生命)の一角に設置した。 |
| 中川は、恩師で京都帝大初代総長だった木下廣次にも京都法政学校設立の相談をしている。 |
| 木下はこの計画を大変に気に入り、京都法政学校は京都帝国大学と「同心一体たるべきことを根本条件とすべき」と言われたと述べている。 |
| のちに京都法政学校を母体にして設立する「財団法人立命館」の「寄付行為」には、財団解散時には所有財産の全てが京都帝国大学に寄付されると明記されていたが、これは木下の示唆した京都帝大との「同心一体」につながるものである。 |
| 1900(明治33)年5月4日、京都府知事に対し「私立京都法政学校設立認可申請書」を提出。 |
| 同年5月19日、晴れて設置が認可され、同6月5日に開校式典を開いた。 |
| 初代校長には、京都府出身で民法起草者の一人、東京帝国大学教授の富井政章が就任した。 |
| 富井は1927(昭和2)年8月31日まで京都法政学校長、私立立命館大学長の任にあたった。 |
立命館学園への発展
| File:JapaneseCalligraphybyPrinceKinmochiSaionji(1905).jpg|thumb|250px|right|「立命館」扁額1905年(明治38年)、西園寺公望が自ら筆をとって立命館に与えたもの。 |
| 1909年(明治42年)の火災で消失してしまったため現存せず、写真が伝わっているのみである。 |
| File:JapaneseCalligraphy(Ritsumeikan)byPrinceKinmochiSaionji(1918).jpg|thumb|250px|right|「立命館」扁額1918年(大正7年)、立命館大学に寄贈するために西園寺公望が揮毫したもの。 |
| 京都法政学校の設立から5年後の1905(明治38)年、中川は西園寺公望が1869(明治2)年に京都御所内の私邸に開設した「私塾立命館」の継承を申し出てこれを許される。 |
| 後年、「立命館」の継承について中川は、「唯学問の各科に属する講義を並べるばかりでは単に講習所であり得るのであつて、教授はあつても教育はないのであります。 |
| 我立命館が西園寺公の立命館を継承したことは、即ち明治の初年に於て公が国家の須要に鑑みて有用な人材を養成するを以て国家経論の第一義とせられたる趣旨をそのまま継承」したものと、立命館継承の意図を説明している。 |
| その後中川は、樺太庁赴任の大役を終えて経済的にも安定したことから、「本学百年の大計を立つる決意」で自らの資産を投資し、西園寺公望の実弟で京都法政学校設立時から学校の要職にあった末弘威麿の協力を得て「財団法人立命館」を1912年に設置した。 |
| これに対し西園寺公望から祝意の言葉が届けられ、ここに西園寺立命館の名称と精神を継承する「立命館学園」がその礎を築いた。 |
| 然るに扁額は不幸祝融の災に罷りて滅せりと雖も校運は益隆盛に向ひ、次で中学を附設し後其組織を改め財団法人となるに及びて余に前に書せし所の題字を採りて其名称となせり。 |
| 願書の中で中川は、「将来は法政だけでなく文学、医学の二科を増設し、中学教員および医師を養成して、わが国教育の一大欠点を補充する機関」にしたいという決意を明らかにしている。 |
| 一つは1905年4月、西園寺公望が京都法政学校のために揮毫したもので、以下七十五文字の由来を付記した扁額である。 |
| この扁額は1909(明治42)年の火災で消失してしまい、現在残されているものは消失前に撮影された写真のみである。 |
| その後、西園寺公の同族・橋本実斐伯爵の邸宅に保存されてあった扁額が学園に寄贈された。 |
| また1918(大正7)年には、西園寺公望の好意で新たに書かれた「立命館」の三文字の大扁額も寄贈されている。 |
| 西園寺公望は、中川小十郎らが設立した立命館学園に対して有形、無形の援助を続け学園の発展に貢献したことから、財団法人立命館は西園寺公望を学祖と位置づけ今日に至っている。 |
| 国際司法裁判所元判事で、立命館名誉総長など学園の要職を歴任した織田萬は西園寺の精神と立命館について、「一たびこの立命館の名称の由来に想到すれば、何人も感奮興起せざるを得ないのでありませう。 |
| 教職員にせよ、学生々徒にせよ、苟も学園の門をくぐつた者が公の心を以て心とし、精神を練り学業に勉むれば、一身の修養に於ても、社会の活動場裏に立つ場合に於ても、欠けることはありますまい。 |
官界復帰
| 1903(明治36)年、木下廣次に請われた中川は、京都帝大書記官として官界に復帰する。 |
| 1908(明治41)年7月4日、西園寺内閣が総辞職すると樺太庁事務官として樺太に出向。 |
| ポーツマス条約で島の南半分が日本領となった樺太に、軍人長官を置いて実質的な軍政を敷こうとする陸軍の要求をかわしたい西園寺が、これを阻止すべく自分の息のかかった中川を樺太に送った人事と見られる。 |
| 1911(明治44)年9月、遠く樺太にある中川小十郎は高等官2等、勅任官と順調に出世し、文官としては事実上登り詰めた格好となっていた。 |
| 樺太時代の中川は、私立学校・庁立学校が各支庁と密に連絡がとれる体制作りを徹底したほか、児童の健康や家庭の状態に関する情報収集、生活全般にわたる指導を行うよう支持する訓示を豊原支庁管内の各出張所長に行っている |
| 「三葉樺」の紋章は、官幣大社・樺太神社、樺太庁で使用されたほか、庁立の学校の校章にも取り入れられた |
台湾銀行への天下り
| 1912年9月11日、中川は文部省を依願退職し、杉山茂丸の計らいで台湾銀行副頭取に就任する |
| 台湾銀行副頭取として、南方方面やニューヨークに出張所を創設するなど精力的に活動したほか、1919年に設立した「華南銀行」、「南洋倉庫」の顧問にも就任し、翌年には台湾銀行「頭取」となっている。 |
京都市市長選出
| 1916(大正5)年7月、京都市長で中川の友人でもあった井上密(京都帝大教授、京都法政学校教頭)が病気療養を理由に市長を辞任。 |
| 京都市長選挙を巡っては、1927(昭和2)年にも中川擁立の動きが政友会から起こったが、これも実現せずに終わっている。 |
貴族院議員
| 1925(大正14)年、台湾銀行頭取を任期満了により退任した中川は、12月1日「貴族院令」第一条第4号「国家ニ勲労アリ又ハ学識アル者」が適用され貴族院議員に勅選された。 |
| これを受けて立命館大学では1月17日に東京校友会支部が祝賀会を行い、学長の富井政章、学監の田島錦治、文庫長の跡部定次郎ら総勢45名が参加、翌1月18日には校友、教職員、学生ら1,600名余りを厚め、京都市公会堂で祝賀会を開催している。 |
| 1935(昭和10)年には親しかった平沼騏一郎を通じて陸軍皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎といった将官と交際するようになり、西園寺公望の政治信条とは必ずしも相容れない立場をとるようになっていた。 |
| また、石原廣一郎らの後援で大川周明らが立ち上げた「神武会」に参加を請われ、一時は参加に前向きな姿勢を見せていたことが知られている。 |
| 石原は「神武会」に政財界や軍部の大物を参加させることで会を発展させようとし、中川のほか菊池武夫陸軍中将・男爵、南郷次郎海軍少将、千坂智次郎海軍中将、田中国重陸軍大将、原道太海軍大佐、外交官の本田熊太郎らにも参加を持ちかけていた。 |
「坐漁荘」と中川小十郎
| 元老・西園寺公望は、最晩年になると静岡県興津にある「坐漁荘」で過ごすようになる。 |
| 中川は、西園寺が亡くなる1940(昭和15)年11月24日にも興津にあった。 |
| 西園寺の国葬当日、立命館大学では西園寺から使用を許可されていた西園寺家・家紋「左三つ巴」を染めた旗を半旗として広小路学舎校門に掲げ、禁衛隊の鼓笛隊演奏、西園寺から寄贈された旅順港閉鎖船・佐倉丸の鐘を鳴らし西園寺を偲んだ。 |
逝去
| 1944(昭和19)年10月7日、いつものように自宅から立命館大学に出勤した中川は、午後5時すぎまで大学で事務にあたり帰宅。 |
| 翌日、財団法人立命館緊急理事会を開かれ、松井元興学長を葬儀委員長とする「館葬」とすることが決定され、同年10月15日、天龍寺管長関精拙師を導師とした「館葬」が厳粛に執り行われた。 |
| 親友で枢密院議長だった一木喜徳郎をはじめ、政官界などからは、文部大臣、貴族院、学士会、ドイツ総領事館(大阪・神戸)、水野錬太郎、竹越与三郎、石原莞爾らが、教育会からは、早稲田大学総長中野登美雄、同志社大学総長牧野虎次、関西学院大学長神崎驥一、関西大学長竹田省、京都帝国大学法学部長渡辺宗太郎、財界からは、大同生命保険社長広岡久右衛門、日本郵船社長寺井久信、大阪商船社長岡田永太郎、朝日新聞社取締役会長村山長挙、毎日新聞社長高石真五郎、読売新聞社長正力松太郎、京都新聞社長後川晴之助、住友財閥の住友吉左衛門らが告別式に参列している。 |
中川小十郎顕彰碑
| 朱雀キャンパス中川会館庭園には、末川博が中川小十郎の十三回忌(1957年(昭和32年)10月7日)に記した顕彰文を刻んだ石碑が建てられている。 |
| 当初、衣笠キャンパス「中川会館」(現・至徳館)脇の庭園に建立されていたが、2006年(平成18年)中川会館が朱雀キャンパスに新設されたのを契機に現在の場所に移設された。 |
| :立命館学園創立者中川小十郎先生は、一八六六年一月四日京都府亀岡市馬路町に誕生、東京帝国大学法科大学を卒業後あるいは官界にあるいは財界に大きな業績をのこされたのであるが、先生が終生その心血をそそぎ尽くされたのは、育英のことである。 |
| すなわち、一九〇〇年昼間修学の便を有せずしかも向学の志堅い者のために私財を投じて京都法政学校を開設 爾来それが京都法政大学となり 更に清和中学校を併設し、やがて立命館大学、立命館専門学校及び立命館中学校として大きく発展するなど幾多の刷新変遷を経たけれども、先生は終始その運営を総理して、一九四四年一〇月七日逝去に至までまさに四十四年、熱誠倦むところを知らず全力をこれに傾倒。 |
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