| 師匠の延若と尊敬する中村宗十郎や九代目市川團十郎の芸をそれぞれ吸収し、上方役者らしい華やかで柔らかみのある芸風で知られた。 |
| ただし残されているレコードではかなりのだみ声である若い頃人気を妬まれて水銀を飲まされたのが原因だという。 |
| 門人の中村鴈之助が「力ある声でした……なにしろ中座の三階に居って、声が聞こえてくるのは師匠だけでした」川柳誌『番傘』1935年(昭和10年)3月号。 |
| と述懐しているように、外見と違って力強さがあった。 |
| 口上などで「ついでながら、この厄介なる鴈治郎めもよろしくごひいきのほどを」と愛敬ある目つきで述べると劇場がどよめき、舞台を共にする他の者が霞んでしまうほどだった。 |
| 鴈治郎の芸の特色の一つに色気のある眼が挙げられる。 |
| 特に和事になるとその眼遣いが最大の武器になった。 |
| 志賀直哉が鴈治郎の目について「無邪気で愛嬌がある。 |
| いくら偉そうな眼つきをしてみても、その色は隠されない」「中座の忠臣蔵を観る」岩波文庫『志賀直哉随筆集』1995年岩波書店ISBN4-00310466-8C0195といい、和事役に適していても忠臣蔵の由良助では違和感があったと評している。 |
| この目遣いは息子の二代目鴈治郎や養子の長谷川一夫に継承された。 |
| また絶えず役柄の研究を怠らず、時として『助六』や『伽羅先代萩』の政岡などの仁に会わない役に挑戦して失敗したり、芸が過剰に陥って「しつこすぎる」と非難される欠点はあったものの、サービス精神旺盛で、観客をどう喜ばせるか絶えず創意工夫し、いったん舞台に出たら揚幕に引っ込むまで形を崩さなかった。 |
| その熱心なさまは、『傾城反魂香』で、鴈治郎の又平に女房で相方を務めた三代目中村梅玉は「(鴈治郎が)身も心も、その人になったつもりで、カーッとなって芝居をしているため、その又平をねじふせるのに大変な力が要る。 |
| いつもヘトヘトになった」と述懐。 |
| その他にも、政岡をつとめた時などは凄みを見せ付けるあまり女形であることを忘れて地声で科白を廻して、舞台を共にした弟子の中村魁車から「親方、男になってまっせ」と注意されたという逸話などが残されている。 |
| 同じ役柄でも毎日同じ型では務めなかった。 |
| どうやったらいいか絶えず工夫し、舞台でもほとんど即興で科白や型を変えてしまう。 |
| だが、梅玉、魁車、延若、中車など相方を務めることの多い役者はその都度、臨機応変に合わせていた。 |
| それでも馴れない役者が時折合わせられなくなると、鴈治郎は「大根!」と大声で怒鳴りつけて周囲を当惑させた。 |
| 酒が飲めない鴈治郎だったが、渡辺霞亭作『椀久末松山』で主人公の久兵衛の酒乱を務めることになった。 |
| 困った鴈治郎は酒好きの役者を自宅に招き、さんざんに飲ませた。 |
| 果して泥酔のあまり家の中をひっくり返すが、鴈治郎一言も言わず冷静に観察し、そのさまをそのまま舞台で再現して喝采を浴びた。 |
| 最後の舞台でも、病気で体力が弱っているのにもかかわらず「アホか!鴈治郎ともあろう者が軽い鎧来て出られるか」と、あえて重い鎧で三浦之介を務めた。 |
| 暇さえあれば、他の俳優の舞台や当時新しかった映画を進んで見に行った。 |
| ドイツの俳優エミール・ヤニングスの演技に感心し、その映画の翻案物をやったこともある。 |
| 得意の『時雨の炬燵』を務めたときは「……いつも同じ事を御覧に居れては相済まんことで、何か変わった手を……と考えてますが、かう極まった狂言は、どうも手の入れようがおまへん」『演芸画報』1931年(昭和6年)11月号。 |
| とこぼしている。 |
| 二代目實川延若は、舞台稽古のとき、鴈治郎が自分はもとより相手の台詞まですべて暗記し、「河内屋、あんさんの科白違ごてるで」とわざわざ注意してくれたことに感心している。 |
| よく相方を務めた七代目市川中車は、鴈治郎は毎日やり方が違うが、そのたびに良くなっており、手を抜かずに工夫する姿勢に感心したという。 |
| 偉大な業績の陰には、常日頃から怠らない修練があった。 |
| 四六時中芝居の事ばかり考えていたので、趣味もなかった。 |
| 一般常識や世事に疎く、洋行の話が出たとき、世界地図を広げて大阪からロンドンまでの距離を定規で測り「とても遠くて行けん」と言ったり、「イギリスとロンドンはどっちが遠いんや」と真顔で尋ねたり、大阪市内の天下茶屋に話が及んだ時「あこ、まだ行燈やろ」と答えたりしている。 |
| それが、無邪気でいかにも鴈治郎らしいと人々から思われた。 |
| 私生活でも周囲に気を配り愛嬌を振りまいて人望を集めたが、若い頃は負けず嫌いの癖のある性格で、東京へ初めて出る際、自分の場所に「新駒」と張り紙をされているのに激怒し「大阪もんや思て馬鹿にすな!」と関係者に怒鳴り込んだ。 |
| このときは九代目團十郎のとりなしで収まったが、その團十郎も「あいつは立派な金魚だ。 |
| 見てくれはいいんだが食えねえやつだ」とあくの強さに呆れたという。 |
| 十一代目片岡仁左衛門ともよく衝突し、若い頃『忠臣蔵』五段目を鴈治郎の定九郎、仁左衛門の勘平で務めたとき、定九郎の倒れている位置を巡って喧嘩をしたり、晩年の、大阪で五代目中村歌右衛門を加えての3人の舞台でも、険悪な雰囲気だったという。 |
| 十三代目仁左衛門によれば本当は親友同志だったが周囲が対立させていた。 |
| 晩年はすっかり和解していたという-->気骨もあり『藤十郎の恋』が上演された際には、不義を内容とすることから官憲から即上演禁止の命令が出されたが、それでも「わてが牢屋に入ったらええねやろ」と頑として応じようとしなかった。 |
| 白塗りの二枚目、和事、特に近松ものを中心としたつっころばしで人気が高かったが、一方で新作ものや上方独自の芝居、丸本歌舞伎も特異とし、当り役は多かった。 |
| 晩年に当り役を撰じで「玩辞楼十二曲」と定めた。 |
| すなわち『河庄』、『時雨の炬燵』、『封印切』、『敵討襤楼錦 大晏寺堤』、『あかね染』(大森痴雪作)、『碁盤太平記』(渡辺霞亭作)、『土屋主税』(渡辺霞亭作)、『吉田屋』、『引窓』、『藤十郎の恋』(菊池寛作)、『椀久未松山』である。 |
| -->ほかの当り役は、『伊賀越道中双六』(沼津)の呉服屋十兵衛、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷直実、『絵本太功記』「尼ケ崎」の武智十次郎、『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の菅丞相、「寺子屋」の武部源蔵、『仮名手本忠臣蔵「六段目」の早野勘平、「三段目」と「七段目」の大星由良助、『梶原平三誉石切』(石切梶原)の梶原平三、『南総里見八犬伝』の犬山道節、『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の佐々木盛綱、『義経千本桜』「すし屋」のいがみの権太、『楼門五三桐』「山門」の真柴久吉などがある。 |
| 六代目尾上菊五郎と『寺子屋』で、菊五郎が松王、鴈治郎が源蔵を務めたが、鴈治郎がこのときは普段よりも一層の熱が入って大汗をかいた。 |
| 一方菊五郎は『土屋主税』で、鴈治郎の主税に大高源吾で相方したが、その後鴈治郎について「本当の土屋主税に対面したような気分です」と賞賛している。 |
| 岸本水府が『河庄』の鴈治郎を詠んだ「頬かむりのなかに日本一の顔」という川柳はあまりにも有名。 |
| 初代坂田藤十郎以来続いた、和事の芸を近代的に完成させた功績はあまりにも大きく、その影響は今日の東西の歌舞伎に受け継がれている。 |
| 金光教の非常に熱心な信者で、一門をあげて信仰した。 |
| (金光教の信者間のつながりも、一代で成功した大きな理由の一つである)。 |
| そのことは当時大阪毎日新聞に連載された「天地金の大神」という連載レポートで取り上げられた。 |
| 孫の二代目中村扇雀(現坂田藤十郎)は、大阪の朝日座で上演された「あいよかけよ」という現代劇で、父二代目中村鴈治郎(金神役)と共に競演し、祖父の念願だった金光教祖伝を演じた。 |
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