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つながりの強いひと
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中江兆民
江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理... |
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鈴江言一
鈴江言一(すずえげんいち) [ 日本大百科全書 ( 小学館 ) ] (1894―1945) 昭和期の社会運動家、中国研究者。ペンネームに王子言、王枢之など。島根県の衆... |
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曹汝霖
曹汝霖(そうじょりん)は清末民初の政治家。北京政府の政治家で、安徽派に近い「新交通系」と呼ばれる派閥の要人である。字は潤田。 |
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章宗
章宗(しょうそう)は金の第6代皇帝(在位:1189年1月20日-1208年12月29日)。第5代皇帝である世宗の嫡孫。父は世宗の嫡男でその皇太子であった允恭。後に第8... |
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袁世凱
袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日(咸豊9年8月20日)-1916年6月6日)は中国清末民初期の軍人・政治家。大清帝国第2代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統、... |
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北一輝
戦前日本の思想家・社会運動家。中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。右目は義眼。... |
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鈴木正
【鈴木正誠さん(昭和36年卒)インタビュー】
ネットでつながる世界へ 【お名前】 鈴木正誠さん 【卒年】 昭和36年(1961) 【職業】 NTTコミュニケ... |
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今田新太郎
今田新太郎 【いまだ-しんたろう】 1件の用語解説(今田新太郎で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 今田新太郎 いまだ-... |
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竹内好
長野県南佐久郡臼田町生まれの、日本の中国文学者、文芸評論家。魯迅の研究・翻訳や、日中関係論、日本文化などの問題をめぐり言論界で、多くの評論発言を行... |
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有賀長雄
日本の法学者、社会学者。法学博士。文学博士。 |
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田中正俊
中国史・東洋史学者、東京大学文学部名誉教授。台湾・台南市生まれ。東京帝国大学卒、1967年東大東洋史学科助教授、のち教授、1983年定年退官。同年信州大学... |
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吉田茂
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
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山室信一
日本の歴史学者・政治学者。専門は近代日本政治史、法思想史。 |
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史進
中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。宋の反乱軍の首領・史斌をモデルとして創作した人物とされている。天微星の生まれ変わりで、序列は... |
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何休
何休(かきゅう、129年-182年)は後漢時代の中国の儒学者。字は邵公。 |
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西園寺公望
日本の公家、政治家、元老。位階・勲等・爵位は贈従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。 |
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童門冬二
日本の小説家。勲等は勲三等。本名は太田久行。 |
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中江功
フジテレビジョン編成制作局ドラマ制作センター部長職。1988年入社。テレビドラマのディレクター・映画監督としても活躍中。宮城県出身。法政大学法学部卒業... |
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遠山茂樹
日本の歴史学者。専門は日本近代史。『遠山茂樹著作集』(全9巻、岩波書店刊)がある。 |
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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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プロフィール
中江丑吉(なかえうしきち、1889年8月14日-1942年8月3日)は大正・昭和期の中国学者。
略伝
| 中江兆民の長男として大阪に生まれた。 |
| 小石川竹早小学校・早稲田中学・鹿児島の第七高等学校を経て、1913年に東京帝大法学部政治学科を卒業する。 |
| 翌年8月に袁世凱の憲法制定顧問となった有賀長雄博士の助手として北京に赴く。 |
| これは当時官界にあった曹汝霖・章宗祥が日本留学中に中江家に寄寓していたという機縁によるものである。 |
| 期限満了した1915年夏に日本に帰り、数ヶ月後に再び中国に渡り30年にわたる北京での生活を始める。 |
| 1919年、五四運動のさい曹汝霖・章宗祥を救出し、その前後から中国思想の研究に励む。 |
| 1925年から「中国古代政治思想史第一巻」、「衛鞅の商邑と張儀の商於とに就いて」「中国の封建制度に就いて」「商書般庚篇に就いて」「公羊傳及び公羊學に就いて」「書廿九篇に関する私見に就いて」の論文が次々に発表された。 |
| 『順天時報』紙に時評を書いたこともあるが、主に西園寺公望や満鉄の庇護を受ける他はほとんど門外に出ず、在留邦人の間では奇人と噂されていた。 |
| 1935年初めに突然北京を引き上げ、1ヶ月に満たない東京での生活の後に北京に舞い戻ることがあったが、「書廿九編」の続編である「洛誥系統諸篇を論ず」を未完成のままにして、以後は中国学に関する論文を発表することはなかった。 |
| 潜行中の片山潜や佐野学をかくまい、中国革命の協力者・鈴江言一の学習を助けたりはするが、自らはカント、ヘーゲル、カール・マルクスやマックス・ウェーバーを原書で繰り返し読み直すという厳しい日課を行い、専門分野では京都大学の小島祐馬に認められていた。 |
| 1937年の蘆溝橋事件を知り、この事変を「世界戦争の序曲」と断定し知り合いの今田新太郎中佐に対中戦争の失敗すべきことを説き、拡大を防止するよう勧告したという。 |
| 太平洋戦争中は近衛文麿首相や岡村寧次総司令官の招きにも応ぜず、日独の枢軸側の必敗を確信し、周囲の人々にも憚りなく公言したために北京の憲兵隊には「聖戦を白眼視するスネモノ」としてマークされていた。 |
| 重度の肺結核と診断され、1942年5月に福岡の九州大学病院へ入院し、死去する。 |
| 妻子はなく、中江家は断絶することとなった。 |
著作
| 『中国古代政治思想』1950年(岩波書店)。 |
| 『中江丑吉書簡集』1964年(みすず書房)。 |
参考
| 鈴木正・阪谷芳直編『中江丑吉の人間像 兆民を継ぐもの』1970年(風媒社)。 |
| 阪谷芳直『中江丑吉の肖像』1991年(勁草書房)ISBN4326152494。 |
| J・A・フォーゲル『中江丑吉と中国 ― 一ヒューマニストの生と学問』1992年(岩波書店)ISBN4000015419。 |
| category:1942年没。 |
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1913年
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東京帝大法学部政治学科を卒業する |
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1942年
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福岡の九州大学病院へ入院し、死去する |
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中江丑吉さんについてのひとこと紹介
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