| 2005年、球団としては1998年の川上憲伸(現アトランタ・ブレーブス)以来となる新人での開幕ローテーション入りを果たす。 |
| 4月3日の開幕シリーズでプロ初登板初先発、先発2試合目の4月15日の対阪神戦でプロ初勝利をあげた。 |
| この時、8回まで阪神打線を4安打無失点に抑え、9回に金本知憲の本塁打により失点し降板するものの、あわやプロ初勝利を初完封で飾るかという好投を見せた。 |
| シーズン前半は防御率6点台と振るわず、5月には怪我により二軍落ちした。 |
| しかし8月中盤に一軍復帰すると、先発6連勝を挙げ、ルーキーイヤーでの6連勝は26年ぶりの球団タイ記録となった。 |
| シーズン後半の防御率は1点台と安定感を誇り、川上ら先発陣が不調だった中で大きな戦力となった。 |
| 2006年は、春のキャンプ時、同い年で仲の良い同僚の中里篤史との間に「エース候補のイケメンコンビ」として中日スポーツ紙上でナカナカコンビという愛称がつけられた。 |
| 序盤怪我により2ヶ月離脱したものの、中盤から復帰。 |
| 9月12日の対巨人戦でプロ入り後初の完投勝利をあげる。 |
| 防御率3点台で7勝4敗、奪三振率を上げるなど、まずまずの成績を残した。 |
| 日本ハムとの日本シリーズ第4戦では先発投手も務めるが、4回1失点の内容も打線の援護なく敗戦投手となった。 |
| シーズン終了後、中里篤史らとともにドミニカのウィンターリーグへ参加し、現地のコーチから高評価を得た。 |
| 2007年はシーズン当初からストレートは球威抜群で自己最速を更新するものの、変化球の制球に苦しみ、与四球も多く、中盤は1ヶ月以上勝ち星がつかないなど苦しい時期もあった。 |
| しかし8月12日の対巨人戦で10三振を奪っての完投勝利で9勝目をあげた頃から、決め球のフォークボールが本来の大きな落差を取り戻し、白星を重ねてチームの優勝争いに貢献した。 |
| 8月19日の対横浜戦でシーズン10勝目をマークし、プロ入り後初めて2桁勝利を挙げた。 |
| また、奪三振率も大幅にアップし、最後まで内海哲也(巨人)と熾烈な奪三振王争いを繰り広げた。 |
| トップと11個差で迎えたシーズン最終登板の10月6日のヤクルト戦では、5回までで8奪三振と快調なペースで進み、このまま続投すれば奪三振王のタイトルをほぼ確実に手中に収めるのではないかと思われたが、クライマックスシリーズへ向けての他投手陣の調整登板のため5回終了後にマウンドを降り、惜しくも初のタイトル獲得を逃した。 |
| 自身がシーズン前に掲げた「2桁勝利と一年間一軍」という目標を全うし、川上を超えてチームトップ、リーグ2位タイの14勝をマーク。 |
| 与四球・暴投数がリーグ最多となるなど制球面で翌シーズンへの課題を残したものの、奪三振率は9.35でリーグトップとなり、規定投球回数をクリアした投手の中では中日球団史上初めてとなる奪三振率9.00以上を達成した。 |
| 2007年7月29日の対ヤクルト戦で3回に3ボールなのに四球を出すという珍記録を残している(対戦打者青木宣親)。 |
| 2-2からの7球目がボールとなり、カウント2-3であるにもかかわらず青木が一塁に出塁。 |
| 原因はスコアボードの誤表示であるが、森球審や他の審判員も気が付かず、中田や捕手の谷繁元信をはじめ両球団からも指摘がなかった。 |
| 次打者の時に青木が盗塁死したためこの誤審が得点に絡むことは無く中日が勝利、試合終了後に誤審が発覚し審判4人が厳重注意処分を受けた。 |
| オールスターゲームにも初出場を果たし、1失点こそしたものの150km/h台の速球で2イニングで3三振を奪った。 |
| 2007年のクライマックスシリーズでは、阪神との第1ステージ第2戦、巨人との第2ステージ第3戦にそれぞれ先発登板。 |
| どちらも中田の勝利でステージ突破を決めた。 |
| 特に日本シリーズ出場を決めた第2ステージの巨人戦では、東京ドームで巨人打線を相手に再三ランナーを背負いながらも11三振を奪う気迫のこもった力投を見せ、ファンの反響を呼んだ。 |
| 普段はマウンド上ではクールな中田がこの日は三振を奪うたびに何度もガッツポーズを見せ、本人も「今までで一番喜怒哀楽が出た」と振り返るほどの気迫で勝利をたぐり寄せた。 |
| 続く日本シリーズでは、初戦にエース川上憲伸を立てたものの打線がダルビッシュ有の前に沈黙して敗北した後の大切な第2戦に先発。 |
| 敵地札幌ドームで8回を3安打1失点の好投で勝利投手となった。 |
| 2007年シーズンに日本一となった後、名古屋タイムズ紙上で手記を発表。 |
| 亡くなった父親について「小学校から、ほとんどの試合をバックネット裏の特等席で見てくれていた。 |
| 変な言い方かもしれないけれど、平均寿命の残り分の試合を亡くなるまでに見に来てくれたのかなと思っています」「父に『15勝、20勝はしなくていい。 |
| 毎年10勝、けがのない選手になれ』と言われてきた」などと述べている。 |
| 2008年、開幕シリーズの4月1日の対巨人戦では上原浩治と投げ合い、8回に最速スピードをマークするなど前年同様のスタミナを発揮しシーズン初勝利を挙げる。 |
| 4月22日の阪神戦ではプロ4年目にして初の完封勝利を挙げ、4月は4勝1敗と好成績でスタートした。 |
| 北京五輪日本代表第一次候補選手にも選出され、テレビ中継では背番号20の先輩である星野仙一に絶賛された。 |
| しかし、制球面でまとまりが出た反面、「暴れ馬」と呼ばれた前年のような勢いに欠け、5月以降は打ち込まれる場面が多くなった。 |
| 落合監督は「自分の一番いいところを変えたんだ。 |
| 元に戻すのは大変だ。 |
| 今年中はかかるかもしれない」「でも、1つ言えるのはあいつが立ち直らなきゃどうしようもないんだ」とコメントし、7月2日に一軍登録を抹消。 |
| コーチも「ゆっくり調整させる」と明言していたが、苦しいチームの投手事情から、二軍戦で1試合登板しただけで一軍復帰。 |
| 完全復調とはいかないながらもローテーションを守り続けるが、8月25日の巨人戦で試合中に転倒し左足を痛め、再び一軍登録を抹消された。 |
| 9月に再び一軍復帰するものの調子が上がらず、7勝9敗でシーズンを終えた。 |
| 入団から3年で29勝を挙げ、エースへの道を着実に歩んできた中田にとって、初めて壁に突き当たるシーズンとなった。 |
| 2009年は川上が移籍し、先発ローテの一角として期待されるも、4月8日の対ヤクルト戦で4回を10安打6失点で敗戦投手となり、翌日登録抹消されたが、7月7日の対ヤクルト戦で8回を3安打1失点11奪三振の好投でシーズン初勝利を飾る。 |
| 10月19日のクライマックスシリーズの対ヤクルト戦では5回1失点4奪三振の好投でチームのクライマックスシリーズ第2ステージ出場へと大きく貢献した。 |
| 第2ステージはアドバンテージを含む1勝3敗で迎えた4戦目の先発を任されたが谷佳知に満塁ホームランを被弾する等、2回0/3を7失点と大炎上。 |
| チームもそのまま敗退し日本シリーズ出場はならなかった。 |
| 2010年から同姓の中田亮二が入団した為、スコアボードは「中田」から「中田賢」になった。 |
| しかし、打席に入るとき、応援団は以前と変わらず「中田」とコールしている中田亮二は「ぶーちゃん。 |
| 規定投球回には届かなかったものの4完投2完封で7勝4敗、防御率2.90の成績を残し優勝に貢献した。 |