5476
5605
75274
%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA
%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA
%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA
%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA%20-%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA%E4%B8%80%20-%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA%E4%B8%80
%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 中西太の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
稲尾和久
大分県別府市出身のプロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家。通称「鉄腕」。愛称は「サイちゃん」。血液型はB型 |
|
|
三原脩
香川県出身のプロ野球選手(内野手)・監督。巨人総監督退任までは「三原修」。見る者の度肝を抜く選手起用・戦術で数々の名勝負を演出、「魔術師」「知将」... |
|
|
野村克也
京都府出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・野球解説者、野球評論家。所属事務所はエフエンタープライズ。血液型はB型。愛称は「ノムさん」。 |
|
|
大下弘
兵庫県神戸市三宮出身のプロ野球選手(外野手)・監督。青バットの大下として、赤バットの川上哲治、物干し竿の藤村富美男と共に終戦直後の日本プロ野球にお... |
|
|
門田博光
山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ちの元プロ野球選手(外野手)。現在は大阪ホークスドリーム監督。現役時代は南海・ダイエー、オ... |
|
|
豊田泰光
茨城県久慈郡大子町出身の元プロ野球選手、野球解説者。現役時代は豪快なバッティングで、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍し... |
|
|
王貞治
日本生まれ・中華民国籍の元プロ野球選手、監督。読売ジャイアンツの主軸打者として積み上げた通算本塁打数868本は、メジャーリーグのハンク・アーロンの755... |
|
|
掛布雅之
千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(内野手)。現在はスポーツ報知・毎日放送の野球解説者。新潟県三条市生まれ、大阪府豊中市在住。4代目ミスタータイガース。 |
|
|
吉田義男
京都府京都市中京区出身の元プロ野球選手(内野手)。今牛若丸と称され、華麗かつ堅実な守備で知られた守備の達人であった。引退後は3度にわたって阪神の監督... |
|
|
長嶋茂雄
千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身のプロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。現役時代のポジションは内野手(主に三塁手)。右投右打。血液型はB型。現役... |
|
|
山内和弘
山内 和弘/やまうち かずひろ
所属球団:大毎 登録名:山 内 社会人 在籍年数:9年目 出身地:愛知県
顔の色:黄色 背番号:8 出身:国内 新人王権利:なし... |
|
|
川上哲治
熊本県球磨郡大村(現・人吉市)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。現役時代から“打撃の神様”と言われ、また監督としては読売ジャイアンツの黄... |
|
|
青田昇
兵庫県三木市出身のプロ野球選手・コーチ・監督、野球評論家・野球解説者。愛称は「じゃじゃ馬」。現役時代は巨人、阪急、洋松・大洋において豪快なバッティ... |
|
|
石毛宏典
元プロ野球選手(内野手)・監督・実業家・プロ野球リーグ運営者である。四国アイランドリーグplusの創設者。元関西独立リーグ最高顧問。愛称はポレ、ミスタ... |
|
|
杉下茂
東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身のプロ野球選手・指導者・監督、野球解説者。日本初の本格的フォークボーラーとされており、現役時代は驚異的... |
|
|
藤村富美男
広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。日本プロ野球を代表する伝説の強打者であり、大阪タイガース(現:阪神タイガース)の黎明期を支え、戦... |
|
|
仰木彬
福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコー... |
|
|
三原修
〒158-0097
東京都世田谷区用賀4-12-7
TEL.
プロフィール
氏 名 三原 修
出 身 北海道 千歳市
誕生日 1958年2月6日
1980年 北海道工業大学
経営工... |
|
|
中田翔
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(外野手)。高校通算本塁打87本は史上2位(2010年現在)。甲子園でも歴代7位となる4本塁打を打った。 |
|
|
小鶴誠
福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。美しい打撃フォームで、風貌も似ていたことから『和製ディマジオ』と呼ばれた。 |
|
|
プロフィール
- 中西太とは
- 来歴・人物
- 現役時代
- 引退後
- 打撃にまつわる伝説
- 年度別監督成績
- タイトル
- 表彰
- 記録
- 背番号
- 著書
- 解説者としての出演番組
- 関連項目
中西太(なかにしふとし、1933年4月11日-)は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手)・監督、打撃コーチ。現役時代は数多くの伝説を残す強打者であり、現役引退後は数多くの打者を育て上げた名コーチとして知られる。愛称は「太っさん」。あるいは「太」。
来歴・人物
| 高松第一高等学校時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた。 |
| 甲子園には1949年春・1949年夏・1951年夏の三度出場し、ベスト4に2回進出。 |
| 2回とも優勝校に惜敗した。 |
現役時代
| また、そのずんぐりむっくりな体型に似合わぬ俊足で盗塁数も多かった。 |
| 1953年には36盗塁を記録し、史上3人目の打率3割・30本塁打・30盗塁(トリプルスリー)を達成している。 |
| 三塁手としての守備もうまかった。 |
| 目の前にフェンスが迫っていても怪我を恐れずに打球を追ったことから、遊撃手を務めていた豊田泰光とともに「金網デスマッチ」と言われていた。 |
| このため前歯を3本折損している。 |
| 非常に運動神経に優れていたことで知られ、本人も「私は農耕民族だから」と言う、その足腰の強さは特筆物であった。 |
| 相撲好きであり、関脇鶴ヶ嶺(後の井筒親方)と非常に仲が良かったのでよく井筒部屋に出稽古に出かけていたという。 |
| しかも、十両ほどの力士であれば軽くあしらって勝ってしまうこともあったほどで、鶴ヶ嶺曰く「中西さんは相撲の世界に入っていても、間違いなく幕内までは軽々行ったと思う」。 |
| 豊田・大下弘・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、にリーグ優勝、稲尾和久が入団した1956年からは3年連続日本一という西鉄の黄金時代を三原脩監督の元で築き上げた。 |
| この時期、三原監督の長女・敏子のもとに婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。 |
| 1958年まではタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが、に近鉄の小玉明利に利き手をスパイクされて負傷。 |
| さらに翌に腱鞘炎を患い満足なスイングができなくなり、代打での出場が多くなった。 |
| 若林退団の理由は末期ガンのためであったが、若林の家族の意向から退団の真相は中西と若林夫人しか知らなかった。 |
| 自らの真の病状を知らない若林は、中西が見舞いに来るたびに、自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしいと語っていたという。 |
| それがもはやかなわないことを知っていた中西は涙が出るほど辛かった、と後年回想している。 |
| 若林は翌1965年、58歳で死去。 |
引退後
| 1969年限りで現役引退し、監督退任。 |
| 同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。 |
| 中西が着けた背番号6は西鉄の永久欠番に指定された。 |
| しかし後の1973年、西鉄が身売りしたときに失効している。 |
| 引退後は1年間東京放送(現:TBSテレビ・TBSラジオ)の野球解説者を務めた後年も、1976年・1982年は毎日放送、1977年から1978年までは九州朝日放送(KBC)の解説者を務めた。 |
| 後、ヤクルト(1971年-1973年、1983年-1984年途中)、日本ハム(1974年-1975年)、阪神(1979年-1981年)、近鉄(1985年-1990年)、巨人(1992年)、ロッテ(1994年)、オリックス(1995年-1997年)で監督、打撃コーチ、ヘッドコーチを歴任した(日本ハム・阪神では監督、ヤクルト・ロッテでは代理監督を務めている)。 |
| パ・リーグの球団は歴代のホークスと楽天以外全て在籍していたことになる。 |
| 監督時代は江本孟紀の「ベンチがアホ」発言で槍玉に挙げられたが、Aクラス6回(リーグ優勝1回)の実績を持つ。 |
| コーチとしては数多くの強打者を育成している。 |
| 特に近鉄ヘッドコーチ時代の10.19があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木彬監督との名コンビによる活躍ぶりは選手からもファンからも大変な支持を得るただし、ベンチの雰囲気は仰木監督と中西「総監督」のような状態であった。 |
| ちなみに西鉄時代は逆に中西の参謀を仰木が務めていた。 |
| 同時に球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。 |
| オリックス退任後もヤクルトを始め、様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めている。 |
| 1999年、野球殿堂入り。 |
| 2000年より日刊スポーツ野球評論家。 |
| 近年甲状腺がんを患ったが、幸い経過は良好。 |
| 2007年2月には、メジャーリーグに挑戦する愛弟子の岩村明憲の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板。 |
| 岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどであった。 |
| また、自身の座右の銘である「何苦楚(なにくそ-何事も苦しむことが楚となる)」は、オリックス・ヤクルト時代の教え子である田口壮や岩村に受け継がれ、その影響は田口の著書「何苦楚日記」や岩村のブログ「AKI何苦楚魂」に見られる。 |
| 2007年10月、現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を故郷の高松市に寄贈。 |
| 2008年4月26日より高松市松島町の高松市民文化センターで公開されている。 |
打撃にまつわる伝説
| 中西は、その豪快な打撃で数々の伝説を残している。 |
| 以下はその一例である。 |
| 1953年8月29日、対大映戦(平和台野球場)で林義一投手から放った打球はライナーでバックスクリーンを優々と越え、場外の福岡城址まで届いた。 |
| 推定飛距離は160m以上で、プロ野球最長飛距離の本塁打、また福岡城址は「外野スタンドから更に50m先」にあるため、180〜190m近く飛んだ可能性もあると言われており、まさに球史に残る大ホームランであったとされる。 |
| この時も、林義一投手は「(取れるライナーかと思って)ジャンプした。 |
| そうしたらグングン伸びて、バックスクリーンのはるか上を越えていった」と千葉茂に後年語っていたと言う。 |
| 遊撃手がジャンプしてわずかに届かなかったライナー性の打球が、ものすごい勢いでそのままスタンドインした。 |
| 投手の肩口を抜けたライナーが伸びに伸びて平和台のバックスクリーンを超えていった青田昇の証言より。 |
| このとき青田はセンター前ヒットと思って一歩前に出たという。 |
| 1955年の東京スタジアムでは中西の放った地面すれすれの強烈なライナーがショートを守っていた有町昌昭の膝を直撃、有町は病院送りとなってしまったが、彼はあまりの打球の速さに一歩も動けずグラブを差し出すことすら出来なかったという。 |
| ファールチップで焦げたボールの皮の匂いが、マウンド上の投手まで届いた(中西曰く、当時はバットを動物の脂で磨くことが多く、ボールが焦げたというのは誤りであるものの、ダッグアウトまでその匂いが届いたという)。 |
| 高校時代に甲子園で打った本塁打2本、及びプロ初本塁打はいずれもランニングホームランである。 |
| 戦後初の三冠王となるチャンスが何度もあった。 |
| 惜しかったのは1956年と1958年。 |
| 前者は首位打者を同僚の豊田と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった(ただし、豊田は首位打者、中西は二冠王で構わないと最初から両者で話し合って決めていたとも言われている)。 |
| 後者は全日程を終了して三冠、ただし打点のみは大毎オリオンズの葛城隆雄と同数という状況で、葛城が最終戦で本塁打を放ち逃したというものである。 |
| ちなみにこの時葛城に本塁打を打たれたのは元同僚の大津守投手(当時近鉄)で、後日試合で対戦の際に中西と顔を合わせ、「すまん」と謝ったとされている。 |
| 得てして一流選手は自分が活躍した場面よりも失敗した場面を覚えているものだが、中西もまた例外ではなく、最も忘れられない場面として、1958年の日本シリーズ、1勝3敗で迎えた第5戦、2-3と1点ビハインドの9回裏1死三塁という「非常に責任ある打席(中西)」で三塁ゴロに倒れた場面を挙げている。 |
| この試合は結局続く5番の関口清治が起死回生のタイムリーヒットを打って同点に追いつき、延長10回裏稲尾のサヨナラ本塁打で勝利。 |
| 西鉄は第6戦、第7戦も連勝して奇跡の逆転優勝を果たし、中西もまたこの第5戦に続いて第6戦、第7戦でも本塁打を放つ活躍を見せるのだが、第5戦9回裏の場面は「もしあのまま試合が終わっていたら…」と思い返すことがたびたびあったという。 |
| 素振りの音が相手ベンチまで聞こえたという程スイングスピードがあまりにも速すぎたために腱鞘炎になった。 |
| 腱鞘炎になっていなければ率を除く全ての分野において2倍の通算成績を残していたと言われる。 |
年度別監督成績
| ※1 1962年、1966年から1996年までは130試合制。 |
| ※2 1963年から1964年までは150試合制。 |
| ※4 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は上段前期順位、下段後期順位を表示。 |
| ※5 通算成績は実際に中西が指揮を執った試合での成績。 |
タイトル
| 首位打者:2回(1955年、1958年)。 |
| 本塁打王:5回(1953年-1956年、1958年)。 |
| 打点王:3回(1953年、1956年-1957年)。 |
| 最多安打:2回(1953年、1957年) ※当時はタイトルではない。 |
表彰
| 新人王(1952年)。 |
| MVP:1回(1956年)。 |
| ベストナイン:7回(1953年-1958年、1961年)。 |
| 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1958年)。 |
| オールスターゲームMVP:2回(1954年第1戦、1958年第2戦)。 |
| 野球殿堂入り(競技者表彰:1999年)。 |
記録
| オールスターゲーム選出:7回(1953年-1955年、1957年-1958年、1961年、1963年)。 |
著書
| 『活人術―強い組織をつくるために』(1998/05小学館ISBN4093872511)。 |
| 『人を活かす人を育てる』(1991/05学習研究社ISBN4051056309)。 |
| 『西鉄ライオンズ最強の哲学』(2007/11ベースボール・マガジン社ISBN4583100639)。 |
解説者としての出演番組
| TBSラジオエキサイトナイター(TBSラジオ、解説)。 |
| BANGBANGBASEBALLTBS系列のプロ野球中継の現行タイトル。 |
| 毎日放送ダイナミックナイター(毎日放送ラジオ、解説)。 |
| KBCジャンボナイター(KBCラジオ、解説)。 |
| ゴールデンナイター/パワーアップナイター/プロ野球中継(KBCテレビ、解説)。 |
| 猛虎紳士録(スカイASports+、現在コメンテーター〔猛虎紳士〕として出演中)。 |
関連項目
| 香川県出身の人物一覧。 |
| 埼玉西武ライオンズの選手一覧。 |
|
1933年
|
中西 太(なかにし ふとし)は、香川県高松市... |
|
1953年
|
36盗塁を記録し、史上3人目の打率3割・30本塁... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
中西太さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|