| 父は大蔵省煙草専売局に勤務していたので、神奈川県平塚町、秦野町に住んでいたときもあった。 |
| 父の鹿児島転勤の際に、一本田に戻り、祖父母に育てられる。 |
| 1908年に第三高椋小学校に入学(卒業時には高椋西小学校に改称されている)。 |
| 1914年、福井県立福井中学校に入学(在学中は興宗寺に下宿していた)。 |
| 同年に祖母のみわが没した。 |
| 当時導入されていた全国試験で首席になるが、第一高等学校ではなく、金沢市の第四高等学校文科乙類に入学。 |
| なお、8月に兄の耕一が勤務先の朝鮮銀行で客死している。 |
| 在学中に窪川鶴次郎らを知り、短歌などを発表。 |
| 1923年、関東大震災に被災し金沢で避難生活を送っていた室生犀星を初めて訪ね、以後師事する。 |
| 1924年、東京帝国大学独逸文学科に入学。 |
| 5月に祖父の治兵衛が死去。 |
| 1925年、同人雑誌『裸像』を大間知篤三、深田久弥、舟木重彦らとともに創刊し、詩『しらなみ』『浪』などを発表し、大間知や林房雄の紹介で東京大学新人会に入った。 |
| また、林、久板栄二郎、鹿地亘らとともに社会文芸研究会を、1926年、鹿地らとともにマルクス主義芸術研究会(マル芸)を設置。 |
| さらに室生の元で知り合った大学の一年後輩である堀辰雄らや窪川と共に、同人雑誌『驢馬』を創刊し『夜明け前のさよなら』『歌』などの詩を発表、芥川龍之介にも評価された。 |
| 同年にマル芸会員とともに日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)へ入り、中央委員となる。 |
| プロレタリア文学運動に参加し、抒情性と戦闘性をあわせもった作品で有名になった。 |
| 1928年には全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成にも参加している。 |
| この間の作品に『芸術に関する走り書き的覚え書』(評論)『鉄の話』(小説)など。 |
| 1930年には女優の原泉と結婚する。 |
| 1932年にコップへの弾圧が強くなり検挙されたが、1934年に転向を条件に出獄した。 |
| 以後も文学者として抵抗を継続し、転向小説五部作(「第一章」「鈴木 都山 八十島」「村の家」「一つの小さい記録」「小説の書けぬ小説家」)や『論議と小品』などによって時流批判を続けたため、1937年には、宮本百合子や戸坂潤、岡邦雄らとともに執筆禁止の処分を受けている。 |
| 太平洋戦争開始時、父親の死去による帰省中だったために検挙をまぬがれた。 |
| 戦時下も『斎藤茂吉ノオト』などの作品を発表した。 |
| 文芸家協会の日本文学報国会への改組にあたって、自分の過去の経歴(左翼活動)のために入会を拒まれるのではないかという不安におそわれて、菊池寛に入会懇請の手紙を送っていた(後に、手紙を保管していた平野謙によって暴露された)。 |
| 積極的に戦争に加担する作品を発表したり、戦争を煽る運動を行ったりはしなかったものの、戦争に反対する活動も行わないまま、学徒出陣で多くの学生が学半ばで特攻・玉砕していく様子を尻目に終戦を迎える。 |
| この時期の手紙が『愛しき者へ』上下、日記が『敗戦前日記』として各中央公論社で、また画文集『中野重治の画帖』(新潮社、1995年)が刊行されている。 |
| 終戦直後の1945年11月、日本共産党に再入党。 |
| また、新しい文学の出発を願い、宮本百合子や蔵原惟人たちとともに新日本文学会を創立し、民主主義文学の発展のために精力的に活動。 |
| 『近代文学』の平野、荒正人を、「新日本文学」を中心として『批評の人間性』を書いて批判し、「政治と文学論争」を引き起こした。 |
| その批判は、政治主義的であったとの評価が後に中野自身によってなされている。 |
| 1947年から3年間参議院議員(全国区選出)を務めた。 |
| 党が1950年のコミンフォルム批判問題で分裂した際には国際派に属した。 |
| 1958年、日本共産党の中央委員に選出された。 |
| しかし、そのころの新日本文学会内でアヴァンギャルド的な方法を探究しようとする花田清輝や武井昭夫たちが、日本共産党と政治理論で対立していくなかで、武井たちの方向を支持するようになり、1964年の部分核停条約の批准をめぐる意見の相違のなかで、党の決定にそむいて、志賀義雄・神山茂夫・鈴木市蔵らとともに「日本のこえ」派を旗揚げした。 |
| この〈日本のこえ〉の命名をしたと伝えられており、その結果、1964年、日本共産党を除名された。 |
| また、新日本文学会の内部でも、部分核停条約の評価をめぐって異論をもち、新日本文学会の大会に意見の相違を保留する対案を提出しようとした、江口渙や霜多正次たちの除籍に賛成し、かれらは日本民主主義文学同盟を結成するにいたった。 |
| 1967年に「日本のこえ」を離脱し、志賀とはたもとを分かつことになったが、神山とともに『日本共産党批判』を出版したように、最期まで日本の左翼運動・文学運動で活動。 |
| 1978年に、「小説、詩、評論など多年にわたる文学上の業績」により、朝日賞を受賞した。 |
| 1979年6月、白内障の手術のため都立駒込病院に入院。 |
| 術後退院したが、7月に東京女子医科大学病院に再入院。 |
| 8月24日17時21分に、胆のう癌のために死去した。 |
| 全集は筑摩書房で3度出された。 |
| 最初の全集は1959-63年(全19巻)、第2次は1976-80年(全28巻)、第3次(第2次版をもとに増補訂正したもの)は1996-98年出版(全28巻別巻1[書簡、書誌索引])。 |
| 没後、生誕地の丸岡町(現坂井市)にて「中野重治記念文学奨励賞全国高校生詩のコンクール」が行われていたが、市町村合併を機に中止された。 |