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つながりの強いひと
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園井恵子
日本の女優、元宝塚歌劇団スター、そして広島原爆被爆者(犠牲者)である。岩手県松尾村(現・八幡平市)出身。本名袴田トミ(はかまだとみ)、宝塚時代の愛称... |
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徳川夢声
徳川夢声(とくがわむせい、1894年4月13日-1971年8月1日)は弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチ... |
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藤原釜足
日本の俳優。東京市深川区(現東京都江東区)出身。実生活に根ざした芸風で知られた、黒澤明作品常連の名脇役である。女優の沢村貞子は元妻。本姓は安恵。他... |
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千田是也
日本の演出家、俳優。東京都出身。是也はこれなりと読むのが正しいが、通称としてこれやが定着してしまっている。 |
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原節子
日本の元女優。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし... |
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井上ひさし
日本の小説家、劇作家、放送作家である。文化功労者、日本藝術院会員。本名は井上廈(いのうえひさし)。1961年から1986年までの本名は内山廈(うちやまひさ... |
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千葉早智子
千葉早智子(ちばさちこ、1911年2月16日-1993年10月22日)は日本の女優。広島市出身。映画監督の成瀬巳喜男は元夫。広島市立高等女学校(現広島市立舟入高等... |
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仲みどり
昭和時代の新劇女優。太平洋戦争中、移動演劇桜隊に所属し公演先の広島市で原爆投下の被害を受けた。医学的に認定された人類史上初の原爆症患者としても知ら... |
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成瀬巳喜男
東京府(現東京都)四谷出身の映画監督。 |
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東山千栄子
大正・昭和期の女優。妹は料理研究家の中江百合、弟はベース奏者の渡辺良。義弟(妹の夫)にジャーナリストの石川欣一。 |
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英百合子
英百合子(はなぶさゆりこ、1900年3月7日-1970年2月7日)は日本の女優。広島県呉市吉浦町出身。女優の永井百合子は柳永二郎との娘、俳優の長谷部健は中野英治... |
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小沢栄太郎
日本の俳優・演出家。東京府(現東京都)出身。戦前から昭和後期にかけて新劇出身の映画俳優の代表格。趣味・特技はテニスと釣り。芸名は、小沢栄・小沢英太... |
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鈴木博
氏名 鈴木 博
よみがな スズキ ヒロシ
職名 教授
所属(本務) 大学院理工学研究科/集積システム専攻
所属(協力)
生年月 1949年 10月
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無法松
日本のお笑い芸人。たけし軍団の一員。本名、塩坂倫之(しおさかのりゆき)。熊本県八代市出身。オフィス北野所属。血液型はA型。身長168cm、体重98kg。九州... |
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藤田進
昭和 期の 政治家 、元 日本社会党 参議院議員 。 労働運動家 、元 総評 議長。教育者、元・学校法人大阪工大摂南大学(現 学校法人常翔学園 )総長・理事長... |
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新藤兼人
日本の映画監督、脚本家。本名は新藤兼登(読み方同じ)。日本のインディペンデント映画の先駆者である。近代映画協会会長。広島県名誉県民、広島県三原市名... |
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山本嘉次郎
日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家である。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用する事も多かった。 |
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杉村春子
広島県広島市出身の新劇女優。本名は石山春子(いしやまはるこ)。旧姓は中野(なかの)であり、杉村は芸名である。築地小劇場より始まり文学座に至る日本の... |
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井上正夫
明治・大正・昭和期の新派劇俳優、映画監督、書家。演劇の大衆化に尽力すると共に、「活動写真」を「映画」という芸術まで高めた功労者でもある。胸像が松山... |
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プロフィール
- 丸山定夫とは
- 築地小劇場参加まで
- 個性派俳優として
- 桜隊結成
- 被爆からその死まで
- 追悼の動き
- 映像化作品
- 墓所、記念碑
- 参考文献
- 関連サイト
丸山定夫(まるやまさだお、明治34年(1901年)5月31日-昭和20年(1945年)8月16日)は、大正・昭和期の俳優。築地小劇場第一期メンバーの一人である。広島に投下された原爆により壊滅した移動演劇桜隊(さくら隊、櫻隊とも表記)の隊長を務めた。新劇の発展に貢献し、新劇の団十郎と賞賛される。
築地小劇場参加まで
| 愛媛県松山市北京町(きたきょうちょう=現在の松山市二番町)に生まれる。 |
| 父は新聞記者・丸山常次。 |
| 8歳で父と死別。 |
| 中学への進学をあきらめ、職を転々とする。 |
| 文学少年だった丸山はやがて戯曲に興味を持つようになり、大正6年(1917年)、広島を拠点に全国を巡業する青い鳥歌劇団に入団。 |
| 俳優としてのスタートを切る。 |
| 同時期に榎本健一(エノケン)、徳川夢声らと知り合う。 |
| 榎本は丸山の演技を見て「とんでもないクサイ芝居をするので新劇に行ったほうがいいよ」と説得し、これが丸山の新劇に興味を持つきっかけとなった。 |
| その後上京して浅草の根岸歌劇団に入団。 |
| 関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)後の被災地で築地小劇場創設の趣意書を偶然拾ったことがきっかけとなり、翌大正13年(1924年)、演出家・土方与志宅に単身乗り込んで自身を売り込み、築地小劇場研究生として採用される。 |
| 研究生の同期には、千田是也、山本安英、田村秋子などがいた。 |
| こけら落としはラインハルト・ゲーリング作の『海戦』。 |
| この芝居では、開演の合図に銅鑼を鳴らす演出が行われたが、その銅鑼を鳴らしたのが丸山だった。 |
個性派俳優として
| 昭和3年(1928年)、築地小劇場の中心人物だった演出家・小山内薫が死去。 |
| これにより劇団内部に意思の食い違いが生じるようになり、翌昭和4年(1929年)、丸山、山本、薄田研二、伊藤晃一、高橋豊子(のちに高橋とよ)、細川知歌子(のちに細川ちか子)の6名が脱退、土方を中心にして新築地劇団を結成する。 |
| この頃から左翼思想に傾倒していくようになり、昭和6年(1931年)にはプロット(プロレタリア演劇同盟)に加盟した。 |
| また、一時期細川知歌子と恋愛関係にあり、四谷に居を構え、貧困に喘ぎながら同棲生活を送っていたこともつとに知られる話である。 |
| 尾崎士郎『人生劇場』の吉良常、ゴーリキー『どん底』のルカ、チェーホフ『桜の園』のロパーヒンなど、新築地劇団で丸山が演じた役は90以上にのぼる。 |
| 特にモリエール『守銭奴』のアルパゴン役は、彼の代表作とされている(後に鎌倉市小町の妙隆寺にアルパゴンを演じる丸山の肖像を刻んだ墓碑が建てられることとなる)。 |
| 一方、官憲の追及を逃れる必要に迫られて、浅草のエノケン一座に「福田良一」という芸名で出演した時期もあった。 |
| エノケン一座出演と同時期の昭和8年(1933年)、自社製作を開始したばかりのP.C.L.(のちの東宝)と専属契約を結び、映画俳優としてのスタートを切る。 |
| おもな代表作に『妻よ薔薇のやうに』(1935年、成瀬巳喜男監督)、『彦六大いに笑ふ』(1936年、木村荘十二監督)、『巨人伝』(1938年、伊丹万作監督※『レ・ミゼラブル』の舞台を日本に置き換えた映画。 |
| 曽我部刑事(ジャベール)役)、『忠臣蔵』(1939年、滝沢英輔監督※吉良上野介役)などがある。 |
| 故郷松山とゆかりのある『坊っちゃん』(1935年、山本嘉次郎監督)では山嵐を演じた。 |
| 国策映画にも多数出演し、『指導物語』(1941年、熊谷久虎監督)など原節子と父娘を演じた作品に名演技を残している。 |
桜隊結成
| 昭和16年(1941年)6月9日、大政翼賛会大会議室で日本移動演劇聯盟が結成される。 |
| これは戦時体制にともなって全国各地を巡業する劇団もすべて国家の統制下に置こうとする国策組織で、表向き民間の要請により結成という形をとっていたが、実際は内閣情報局のテコ入れで結成されたものだった。 |
| 同時にプロレタリア演劇の新築地劇団、新協劇団、そして彼らを支援する雑誌を出版するテアトロ社は強制的に解散させられ、丸山は大きな打撃を受ける。 |
| この弾圧によって多くの俳優たちが分裂し行き場を失う中、劇作家の八田尚之は「愉快な演劇、一大喜劇団で国家に寄与」することを表向きの目的として、分裂した俳優たちの再結成を目論んだ。 |
| この呼びかけに丸山も応じることになり、昭和17年(1942年)に丸山、高山徳右衛門(薄田研二)、藤原鶏太(藤原釜足)、徳川夢声の4人が創立同人となって「苦楽座」が旗揚げすることとなる。 |
| この劇団には新協劇団の仲みどり、そして参加経緯は不明とされているが元宝塚のプリマ女優・園井恵子など、後に丸山と共に広島で遭難することになる人々も参加した。 |
| 一方、丸山が文学座に客演して大ヒットした舞台『富島松五郎伝』(国民新劇場、5月6日から5月21日まで、原作:岩下俊作、脚色:森本薫、演出:里見弴) |
| この映画のヒットにより園井は映画界に留まることを要望されるが未熟という理由で拒否、苦楽座へと戻っていった。 |
| サイパンが陥落して、日本との距離を縮めたアメリカ軍が頻繁に本土空襲を行うようになり、本土決戦計画が立案されると、それは丸山たち国策と無関係に演劇活動を続けようとする俳優たちの活動にも影響を与えるようになった。 |
| 映画館や劇場の相次ぐ閉鎖を受ける形で、昭和19年(1944年)12月24日に苦楽座は解散。 |
| しかしなおも演劇を続けたい、演劇を続けて暗い世相に活気を取り戻したいと熱望した丸山は、内閣情報局が奨励する移動慰問劇団の結成を思いつき、翌昭和20年(1945年)、移動演劇桜隊を結成する。 |
| そして、この時期になってやっと丸山は移動演劇聯盟に加入することとなった。 |
| この劇団には園井、仲の他、高山象三(薄田研二の息子)、多々良純、森下彰子などの俳優、八田元夫などの演出スタッフなど総勢17名が参加し、以後数ヶ月にわたって全国各地の農山漁村、生産工場などを巡回することとなった。 |
被爆からその死まで
| 昭和20年(1945年)8月6日。 |
| この日、中国地方巡回公演に備えて桜隊のメンバー8名と広島市内に滞在していた丸山は、原爆の投下に遭遇した。 |
| 被災した丸山は各地の避難所を転々とした後、8月10日に東京から広島入りした八田元夫ら2名により発見され、厳島の存光寺に移される。 |
| 原爆症による高熱と痙攣、吐血、下痢に悩まされ、8月16日午後10時20分に死去した。 |
追悼の動き
| その死の特異さから、丸山追悼は桜隊および平和祈念と結びつけられることが多い。 |
| 連合軍占領下の日本で原爆など日米戦争の日本側犠牲者を追悼する行事や記念碑の建立は厳しく制限されていたが、そのさ中の昭和26年(1951年)8月、広島市新川場町(現在の同市中区内)のどぶ川のほとりに質素な木製の「丸山定夫・園井恵子 追慕の碑」が建てられた。 |
| ついでサンフランシスコ講和条約締結によって日本の占領政策が終結した直後の昭和27年(1952年)、徳川夢声が呼びかけ人となって、東京に「桜隊原爆殉難碑」が建てられた。 |
| 以後、この碑は、藤原釜足、小沢栄太郎、多々良純など多くの俳優によって守られ、丸山の業績とそれを一瞬にして灰燼に帰した原爆の恐怖を現在に伝えている。 |
| こうした動きをもとにして、昭和30年(1955年)には、広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会(→原水協参照)で、新劇人に対して広島で新たな慰霊碑を建設する呼びかけが行われることとなった。 |
| この呼びかけに応じた徳川の他、八田、山本が奔走した結果、昭和34年(1959年)年8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」が、被爆地に近い平和大通り北側の緑地帯(現在の広島市中区中町)に建立されることとなった。 |
| また、前記した鎌倉の墓碑も市民たちによって改修を重ね、平和祈念の象徴として現在に至っている。 |
| 故郷の松山市では、丸山の業績の顕彰と平和祈念を目的として、生誕100周年にあたる平成13年(2001年)から毎年誕生日の5月31日に「丸山定夫を語る会」が開催されている。 |
| 平成18年(2006年)11月に松山市が開催する坊っちゃん映画祭では出演映画の上映会が予定されている。 |
映像化作品
| 『さくら隊散る』(昭和63年(1988年)、新藤兼人監督):桜隊に関して関係者の証言と再現ドラマで綴ったセミドキュメンタリー。 |
| ドラマ部分において古田将士が丸山を演じている。 |
墓所、記念碑
| 墓所=知恩院(京都府京都市)、 |
| 記念碑(桜隊原爆殉難碑)= |
| 記念碑(築地小劇場記念碑)=東京都中央区築地。 |
参考文献
| 櫻隊全滅ある劇団の原爆殉難記(未來社・刊)江津萩枝・著。 |
| 築地にひびく銅鑼(どら)小説丸山定夫(阪急コミュニケーションズ・刊)藤本恵子・著。 |
| 日本の喜劇人(新潮社・刊)小林信彦・著。 |
| 彷書月刊 1998年8月号 「特集:劇団『さくら隊』原爆忌」。 |
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1917年
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広島を拠点に全国を巡業する青い鳥歌劇団に入団 |
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1924年
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演出家・土方与志宅に単身乗り込んで自身を売... |
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丸山定夫さんについてのひとこと紹介
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